第16話 財布を忘れて
昼下がりの王都商店街。石畳を照らす陽射しが眩しく、通りにはパンの香りと果実酒の匂いが混ざって漂っていた。
レオンは、商店のカウンターにジュースと煙草を置き、いつもの癖で腰の小袋に手を伸ばした。
——ない。
財布を宿に置き忘れてきたことに気づいた瞬間、彼の視線が鋭く揺れる。作戦中、こんな凡ミスは笑い話にもならない。
「……少し、待ってくれ」
低く抑えた声で店員に言うが、既にジュースの栓を開けてしまっており、返品はできない。
後ろから視線を感じる。振り返ると、ミリアが無言で腕を組み、待ちくたびれた表情をしていた。
「……会計、まだ?」
その口調には、わずかな苛立ちと、喉の渇きを我慢する気配が滲む。
レオンは諦めたように肩をすくめた。
「……すまない。財布を忘れた」
ミリアは小さくため息をつき、腰の革袋から硬貨を数枚取り出すと、カウンターに置いた。
「立て替えるわ。名前は?」
一瞬の間を置き、レオンは迷わず偽名を口にした。
「エーリヒ・ヴェルナー。宿は“白百合亭”だ」
——潜入工作員として、この偽名は免許証や書類にも通してある。
「そう。じゃあ、返すならそこに」
短く言い残すと、ミリアは会計を済ませ、瓶の栓をひねって一口飲む。そのまま背を向け、石畳の人混みへと消えていった。
レオンは瓶を受け取り、遠ざかる彼女の背をしばし無言で見送った。
翌朝。
白百合亭の食堂は、朝食の香りと、宿泊客のざわめきに包まれていた。といっても、殆どが帝国の間諜なのだが。
そこへ、扉が勢いよく開く音が響く。振り返った者たちは、思わず息を呑んだ。
そこに立っていたのは、濃紺の王国軍制服を纏った若い女性――ミリア。腰には制式の軍刀、胸 元の徽章は陽光を反射し、凛とした気配を漂わせている。
帝国潜入中のクレアたちにとって、王国軍人の来訪はただならぬ事態だった。
すぐに、テーブルの下で武器を握る音。視線は自然を装いながらも、誰もが彼女の一挙手一投足を見逃さない。少しでも不穏な動きを見せれば、即座に制圧できる態勢だ。
しかしミリアは、周囲の警戒を気にも留めず、一直線にカウンター席の一人に歩み寄った。
「……エーリッヒ」
その呼び声に、レオンがぎくりと肩を揺らす。
「昨日の分、返してもらおうと思って」
短く、事務的な声音。
レオンは一瞬何のことか分からなかったが、すぐに昨日の商店での出来事――財布を忘れ、ジュースを買ってしまって代金を立て替えてもらった件――を思い出す。
「あ、ああ……あの時は助かった」
慌てて懐から財布を取り出し、硬貨を差し出す。
「助かりました」
ミリアはそれを受け取ると、礼もそこそこに踵を返し、扉へ向かった。軍靴の音が床を打ち、やがて遠ざかる。
残された場には、妙な静けさが落ちた。
「……ただの返金だったか」
誰かがほっと息を漏らす。だが、その安堵は長く続かない。
「レオン」
低く、鋭い声。振り向けば、クレアが腕を組み、鋭い視線を突き刺していた。
「任務中に王国軍人と接触? 説明してもらえるわね」
「いや、その……偶然で……」
「偶然であろうと不用意すぎる。偽名で呼び掛けられるような間柄になって、任務を危険に晒す気?」
「……はい」
クレアの声は氷のように冷たく、レオンは項垂れるしかなかった。
仲間たちは、呆れと苦笑を入り混ぜた表情で二人を眺め、白百合亭の朝はようやく日常へと戻っていった。




