第12.1話:地獄の円安(10) 見えざる芽吹き
深夜、テルの執務室。
農水省の会議から戻ったテルは、机の上に世界中の文献を広げていた。戦時中の食料生産記録。朝鮮戦争後の復興事例。JGPの米国での試験的実施例。そして、自衛隊の教育訓練記録——。
夜明け前、一つの構想が固まった。
一方、その時刻、まったく別の場所で、小さな火が灯り始めていた。
東京大学、駒場キャンパス。サクの研究室の窓だけが、煌々と光っている。
サクはモニターを見ながら、淡々と言った。
「……円安で、日本の研究環境が世界一コスパよくなった」
助手がデータをスクロールしながら頷く。海外の優秀なエンジニアたちからの「日本で働きたい」というメールが、ここ数か月で急増していた。母国より給料は安くても、研究環境のレベルと円安によるコストの低さが相殺して余りある。
「海外の優秀なエンジニアが、逆流し始めたよ」
それだけ言って、サクはまたモニターに向き直った。それ以上の言葉はなかった。
翌朝のハローワーク。
望月雄介は、片隅の掲示板の前に立っていた。手書きの小さなチラシが一枚、ガムテープで貼られている。
〈緊急募集〉
未経験歓迎。住み込み。肉体労働。
勤務地:農村各地(詳細は面談にて)
給与:家族分の食料配給あり。現金支給は応相談。
問い合わせ先:内閣府・雇用対策本部』
怪しいチラシだった。内容が曖昧で、給料の代わりに食料配給とある。詐欺かもしれない。
しかし、雄介の頭の中には、昨夜の息子の声が繰り返していた。「ハンバーグ食べたい」。それを言い、そのまま眠った無邪気な顔が、繰り返される。
雄介は、震える手でチラシを剥がした。
詐欺なら、それでもいい。少なくとも動いていなければ、この閉塞感の中で腐っていくだけだ。泥を舐めても、家族を食わせる。それだけだ。
彼は、チラシをジャケットの内ポケットに押し込んだ。
それは希望とは呼べなかった。ただの、追い詰められた者の最後の一手だった。




