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第12.1話:地獄の円安(8) 嵐の中の兄弟

 深夜。

 議員会館の執務室に、テルは一人でいた。外からは、まだデモの怒号が聞こえてくる。「ヤマト辞めろ」という声が、波のように寄せては返す。

 テルは机の上の書類を見ているようで、何も見ていなかった。

 ドアが、ノックなしに開いた。

 警備員が気づく前に、カイが中にいた。海上自衛隊の制服ではなく、地味なカーキのジャケット。その出現は、気配すらなかった。


「……外はひどい騒ぎだぞ」


 カイは言いながら、コンビニの袋をテルの机に置いた。中から出てきたのは、おにぎりだった。海苔と梅干し。最近、値上がりして小さくなったコンビニの定番品だ。


「食え。それだけのことで、人間は少し持つ」


 テルは、おにぎりを手に取った。包みを剥がしながら、窓の外の怒号に目をやった。


「お前が『泥を飲む』と言った時、こうなることは分かっていた。俺は黙って背中を守るだけだ」


 カイは椅子を引いて座った。組んだ腕を胸の前で固定し、いつもの猛禽類のような目でテルを見る。その眼光に、久しぶりにテルの背筋が伸びた。

 おにぎりを一口食べた。塩辛い。しかし、ちゃんと食べ物の味がした。


「……一つ、報告がある」


 カイの声が、わずかに低くなった。テルは食べる手を止めた。


「原発再稼働の直後。某所の取水口付近で、万里の工作員と見られる潜水工作員が確認された」


 テルは、息を呑んだ。


「……政権転覆を狙った破壊工作だ。稼働したばかりの原子炉の冷却取水系統に細工をする寸前だった」


「阻止できたのか」


「零潜だ。台湾海峡で動かした後、量産ラインを走らせた。今は各地の重要施設の警備に配置している。そのうちの一隊が今夜、音もなく排除した。向こうは何が起きたか分からないまま、任務を中断して引いた」


 沈黙が落ちた。

 テルは、おにぎりを机に置いた。しばらく自分の手を見た。


「……国民には、言えないな」


「言えない。『原発の近くで万里の工作員と交戦した』などと発表すれば、国民のパニックは今の比じゃない。メディアは『原発への攻撃リスクを承知で再稼働した』と叩く。政権は終わる」


 テルは目を閉じた。


「……つまり、原発を稼働させ続けるということは——世論の批判を背負いながら、誰にも言えない脅威も、背負い続けるということだ」


「そういうことだ。だから俺が守る。……お前は泥を飲め。俺は海の底で戦う」


 テルは何も答えなかった。ただ、窓の外から響く「ヤマト辞めろ」という声を聞いた。

 その声が、今夜だけは違う重さを帯びて聞こえた。デモの参加者たちは正しい。しかし彼らは、この瞬間も海底で戦っている者たちのことを、知らない。知ることができない。そしてそれは、当然のことなのだ。

 国民を守るということは、時に、国民に知られずに守ることを意味する。

 テルはおにぎりを拾い、また一口食べた。


「……うまいな、これ」


 カイは何も言わず、ただ小さく頷いた。

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