第12.1話:地獄の円安(3) 消えた湯気 ― ラーメン屋の最期
大田区、下町の商店街。
夕暮れ時、人気のないアーケードに、一人の男が立っていた。小林健一、五十三歳。三代続く老舗ラーメン店『来々軒』の店主だ。
彼の手の中には、仕入れ業者からのFAXがある。
〈輸入小麦粉 価格改定のご通知〉
前月比 +八〇%
三か月前の改定通知から、さらに八〇%。円安が始まってからの累計では、仕入れコストは五倍近くになっていた。
小林は、ゆっくりと計算した。三六〇円の円安が続けば、一杯のラーメンのコストは千二百円を超える。利益を出すためには、最低でも三千円の値付けが必要だ。しかし、このご時世に三千円のラーメンを買える客がどこにいる。
父の代から続く看板を、小林は見上げた。
「……一杯3000円にしなきゃ赤字だ。でもそんな値段じゃ、誰も来ねえ……」
涙は出なかった。出し切ってしまったのかもしれない。
小林は店に入り、暖簾を手に取った。その暖簾は、亡き父が三十年前に染めたものだ。古びて、色あせているが、毎朝水洗いして丁寧に干してきた。
彼は暖簾を、静かに外した。
シャッターを下ろし、南京錠をかけた。
それだけだった。大げさな幕引きも、涙の挨拶もない。ただ、シャッターが閉まる金属音だけが、夕暮れの商店街に響いた。
翌週、隣のパン屋が店じまいをした。その翌週、うどん屋が閉まった。街から、小麦の匂いが消えていった。




