第12.1話:地獄の円安 (1) 決壊 ― 360円の衝撃
崩れた。
一ラル=一八〇円。テルノミクスが設定した非公式の防衛ラインを、市場は一瞬で突き破った。そこから先は、奈落だった。
二〇〇円。二三〇円。二七〇円。三〇〇円。
テレビのチャンネルを変えるたびに、速報テロップが点滅する。報道は「歴史的円安」「戦後最安値」という言葉を使い続けたが、その言葉がもはや現実の速度に追いつけなくなっていた。
そしてついに、その数字が現れた。
一ラル=三六〇円。
日本の報道各社が、一斉に絶句した。戦後の占領期、GHQが「固定相場」として日本に押し付けた屈辱の数字と、同じだ。日本は今、自由市場の論理によって、その原点へと叩き落とされていた。
日本銀行本店。地下のオペレーションルーム。
大型モニターには、為替チャートと長期金利の二本のグラフが並んで表示されていた。一方は、垂直に落下する崖。もう一方は、完璧な水平線。
氷室麗華は、後者だけを見ていた。
「金利、〇・〇%維持。指値オペ、継続。市場への参加は以上」
彼女は端末から目を離さず、静かに言った。部下たちは為替チャートに目を向けたくて仕方がないが、総裁の視線に引っ張られるように、誰もが金利のグラフだけを見ていた。
三六〇円というニュースが流れる。担当理事が恐る恐る口を開いた。
「総裁……為替介入は、いかがでしょうか。外貨準備を使えば、ある程度は——」
麗華の視線が、初めてそちらに向いた。
「為替は私の管轄ではない、と最初から言っています。外貨準備の投入は財務省の判断であって、私の仕事ではない。日銀の仕事は、長期金利を守ること。それだけです」
理事は引き下がった。
麗華は水平線を見つめながら、内心でテルに語りかけた。
金利は守った。仮に長期金利が上昇し始めれば、市場は「テルノミクスは失敗だ」という最も強いシグナルを受け取る。それだけは渡せない砦だ。そしてもう一つ——国債の大半を日銀が保有している以上、政府が支払う金利は日銀の利益となり、国庫納付金としてほぼ丸ごと政府に戻ってくる。金利が上がっても、財政への実質的な打撃は世間が騒ぐほど大きくない。だからこそ日銀がここを守り続けることに意味がある。テルはその論理を完全に理解した上で、自分に金利防衛を任せた。だから私は、ここを守る。
あとは、あなたの仕事よ、テル。




