第12話:財務大臣テル(5) 通貨の女神 ― 日銀の要塞
日本銀行本店。
東京・日本橋に鎮座するこの石造りの要塞は、日本経済の心臓部であり、通貨「円」の番人が住まう聖域である。
その最深部にあるマーケット・オペレーションルームは、異様な熱気と、それを上回る冷徹な静寂に支配されていた。
壁一面を覆う巨大なマルチスクリーンには、世界の金利、為替、株価のチャートが秒刻みで点滅している。
だが、今のディーラーたちの目は、ただ一つのグラフに釘付けになっていた。
長期金利(十年物国債利回り)。
テルノミクスによる「消費税撤廃」と「超・積極財政」の発表を受け、市場はパニックに陥っていた。
「国債が売られています! 海外ヘッジファンド勢が一斉に先物をショート! 金利上昇圧力、止まりません!」
「0.20%突破! このままでは0.25%の防衛ラインを突破されます!」
ディーラーたちの悲鳴が響く。
国債が売られれば価格は下がり、金利は上がる。金利が上がれば、住宅ローンは跳ね上がり、企業の資金繰りは悪化し、そして何より、膨大な国債を発行する政府の利払い費が激増して財政が破綻する――それが、従来の経済学が教える破滅のシナリオだった。
旧来の理事たちは、顔面蒼白で立ち尽くしている。
「これ以上は買い支えきれない……! 金利を上げなければ、日銀が保有する国債の評価損で債務超過になるぞ!」
「総裁! 利上げの決断を!」
だが。
その喧噪の中心にあって、ただ一人、氷の彫像のように微動だにしない人物がいた。
総裁席に優雅に足を組んで座る、若き女性。
第33代日本銀行総裁、氷室麗華。
東大経済学部教授から抜擢された、史上最年少、かつ初の女性総裁である。
陶磁器のように白い肌、漆黒のロングヘア、そして見る者を射抜くような知的な瞳。その美貌は、金融街という無機質な空間において、あまりに異質で、危険な魅力を放っていた。
麗華は、パニックに陥る理事たちを一瞥し、ふっと鼻で笑った。
「債務超過? それがどうしたというの?」
その声は、ハープの音色のように美しく、しかし絶対零度の冷たさを持っていた。
「中央銀行が、自国通貨建ての債務でどうやって破綻するというのかしら。あなたたち、経済学の基礎から講義が必要?」
「し、しかし総裁! 通貨の番人として、バランスシートの毀損は……」
「番人の役目は、帳簿を綺麗に保つことじゃない。国家経済という心臓を、止めないことよ」
麗華は立ち上がり、オペレーションデスクを見下ろした。
彼女の脳裏に、数日前の夜の光景が蘇る。
西麻布の会員制バー。
カウンターでグラスを傾けるテルの横顔。
『麗華。また君に、無理を頼むことになる』
テルは、財務大臣への就任が決まった直後、真っ先に彼女を呼び出したのだ。
『日銀総裁を引き受けてくれ。そして、何があっても金利を上げるな。俺が財政のアクセルを床まで踏み込む間、君には金融というブレーキを壊しておいてもらいたい』
それは、経済学者としての彼女のキャリアを賭けさせる、無謀な依頼だった。
だが、麗華はグラスの中の琥珀色の液体を揺らしながら、妖艶に微笑んだ。
『……相変わらずね、テル。学生時代から、あなたの無茶に付き合うのは私の役目だったわね』
彼女は、テルの瞳を覗き込んだ。そこにあるのは、個人的な野心ではなく、国を背負う者特有の、孤独で強靭な覚悟だった。
『いいわ。引き受けてあげる。あなたの背中は、私が金融の盾で守ってあげる』
『恩に着る』
『恩なんていらないわ。……結果で返しなさい。この国を、本当に救ってみせて』
現在。
麗華は、モニターの中で暴れる金利のグラフを見据えた。
市場という名の怪物が、日本という国を食い破ろうと牙を剥いている。
「面白い。かかってらっしゃい」
彼女は、静かに、しかし絶対的な命令を下した。
「指値オペ。金利0.0%で、無制限に買い入れなさい」
ディーラーたちが息を呑む。
「む、無制限!? 予算枠はありません! いくら買うつもりですか!?」
「いくらでもよ」
麗華は言い放った。
「市場に出る国債は、すべて日銀が買い取る。一兆円でも、一〇〇兆円でもね。札束で市場の顔を叩きなさい。投機筋が『もう売る国債がない』と泣いて詫びを入れるまで、徹底的に買い占めるのよ」
彼女の瞳に、凄絶な光が宿る。
「一円たりとも、金利は上げさせない。これは、国家の意志よ」
ディーラーたちの指が、キーボードを叩き始めた。
日銀砲の発射。
数兆円単位の買い注文が、瞬時に市場へと投下される。
モニター上の金利グラフが、まるで巨大な手で押し潰されたかのように、急降下を始めた。
0.25%……0.10%……0.05%……。
そして、0.0%のラインで、ピタリと張り付く。水平線のように。
売り浴びせていたヘッジファンド勢が、画面の向こうで悲鳴を上げているのが聞こえるようだった。彼らは日銀という「無限の資金力を持つプレイヤー」とのチキンレースに、完敗したのだ。
麗華は、その水平線を見つめながら、満足げに微笑んだ。
「さあ、テル。後ろは安全よ。……思う存分、暴れてきなさい」
通貨の女神は、鉄壁の要塞を築き上げた。
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