第12話:財務大臣テル(4) 守護者との対決
会見を終え、大臣執務室に戻ったテルを待ち構えていたのは、怒りに震える財務事務次官、黒田篤紀だった。
彼は机の前に仁王立ちになり、入ってきたテルを睨みつけた。
「……大臣。正気ですか」
黒田の声は低く、殺気立っていた。
「消費税撤廃。国債の無制限発行。あんなデタラメを公言して……。市場はパニックになります。国債の格付けは暴落し、金利は暴騰する。財政破綻への直行便だ!」
テルは、黒田の剣幕を柳のように受け流し、執務机に座った。
彼の目には、黒田の全身に幾重にも巻き付いた【貨幣の鎖】が見えていた。その黄金の鎖は黒田の肉体に食い込み、彼の思考と行動の全てを支配している。黒田自身が、鎖の傀儡であり、同時にその守護者なのだ。
「黒田さん。座ってください」
「座っていられません! 撤回してください、今すぐに!」
「金利は上がりませんよ」
テルは静かに言った。
「日銀がYCCで抑え込むからです。中央銀行が『買いオペ』を行えば、国債価格は維持され、金利は上がりようがない。それが金融のメカニズムです」
「それは理論上の話だ! 実際には投資家が逃げ出し、制御不能になる!」
「投資家が逃げても、日銀が買えばいい。自国通貨建て債務で破綻することなど、あり得ないのです」
黒田は唇を噛んだ。MMT(現代貨幣理論)のロジックだ。彼はそれを異端の宗教として軽蔑していた。
「……百歩譲って、カネの問題はいいとしましょう。ですが、日本にはもっと根本的な問題がある」
黒田は最後の砦に籠もった。
「人口減少です。労働人口が減り続ける国で、経済が成長するはずがない。財政を出しても、使い道がないのです。だからこそ、身の丈に合った縮小均衡を目指し、将来のために財政を温存すべきなのです!」
人口減少デフレ論。
それが、財務省が緊縮を正当化するための、最強の盾だった。
テルは、ふっと笑った。
「人口減少、ですか。……黒田さん、これを見てください」
テルが手元のコンソールを操作すると、空中にホログラム・グラフが浮かび上がった。
『世界GDPに占める日本のシェア』。
昭納六十四年の15.4%から、現在は見る影もなく3.8%へ。急降下する折れ線グラフが、残酷な現実を示している。
「見てください。かつて、この国は世界経済の二割近くを占めていました。ですが、貴方たちが『規律』を守っている三十年、いや半世紀の間に、国はここまで痩せ細ったのです」
黒田は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「それは……時代の変化です。人口ボーナスが終わった国の宿命だ」
「違います。国が投資を怠り、カネを回さなかったからです」
「ぐっ……! しかし、人口が減れば経済が縮むのは自然の摂理だ!」
黒田が叫ぶ。
テルは、冷徹に二つのグラフを並べて表示した。
一つ目。横軸に「人口増加率」、縦軸に「一人当たりGDP成長率」をとった散布図。
点はバラバラに散らばっており、右肩上がりでも右肩下がりでもない。
「ご覧の通り、世界各国のデータを見れば、人口の増減と経済成長率には、統計的な相関関係は全くありません。人口が減っても成長している国は多数ある。人口が増えても貧しい国もまた然りです」
そして、二つ目のグラフ。
横軸に「政府支出の伸び率」、縦軸に「GDP成長率」をとった相関図。
こちらは、驚くほど綺麗な右肩上がりの直線を描いていた。
「一方で、政府が支出を増やせば増やすほど、経済が成長するという相関は、極めて明白です。政府が投資すれば、民間も潤い、国は富む。当たり前の事実です」
テルは立ち上がり、グラフの左下、原点付近にぽつんと孤立している一つの点を指差した。
「見てください。世界中で唯一、この二十年間、政府支出を減らし続け、そして唯一、経済成長しなかった愚かな国があります」
その点の横には、『JAPAN』と記されていた。
「……っ!」
黒田は言葉を失った。冷酷なデータが、彼の信条を粉砕していた。
テルは黒田に歩み寄り、その目を射抜いた。
「経済を決めるのは、人口ではありません。政府が国民に投資したか否か、それだけです。貴方は、『人口が減るから成長できない』と言った。違う。貴方たちがカネを出し渋り、成長の芽を摘み続けてきたから、国民は貧しくなり、子供を産むことさえ諦め、結果として人口が減ったのです」
テルの背後に、巨大な圧力が立ち上る。
「貴方は、国の帳簿を守るあまり、国民を見殺しにしてきた。その罪は重い」
黒田の顔色が蒼白になる。
彼の耳には聞こえないが、テルの耳には、はっきりと聞こえた。
パキン、という硬質な音が。
黒田を縛り上げていた黄金の鎖に、亀裂が入った音だ。
「その鎖は、今日、ここで私が断ち切る」
テルの宣告に、黒田は崩れ落ちるように椅子に手をついた。
反論は、もう出てこなかった。
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