第12話:財務大臣テル(2) 老獪なる決断 ― 鎖を断つ人事
首相官邸、総理執務室。
部屋の空気は凍り付いていた。
革張りの椅子に深く腰掛けた内閣総理大臣、藤堂善信は、目の前のテーブルに置かれた分厚い書類の束を、忌々しげに見つめていた。
その書類の表紙には『物価高騰に対する緊急経済対策案』と記されている。
作成者は、財務省と日本銀行。
藤堂の前に直立しているのは、財務事務次官の黒田篤紀と、日銀総裁だ。二人の表情は硬いが、その瞳には「これが唯一の正解である」という揺るぎない確信が宿っていた。
「……つまり、だ」
藤堂は、書類を指で弾きながら、押し殺した声で言った。
「物価が上がっているから、金利を上げろと。そして、財政出動の財源を確保するために、消費税をさらに増税しろと。そう言いたいのかね?」
黒田が一歩前に出た。隙のない身なり、理知的な眼鏡の奥の瞳。彼こそが、この国の財政規律を守る最後の砦を自任する男だ。
「御意にございます、総理。現在のインフレは通貨の信認を揺るがしかねない水準です。欧米諸国も利上げに動いております。我が国だけが緩和を続ければ、円は暴落し、ハイパーインフレを招く恐れがあります。痛みを伴いますが、今は需要を抑制し、財政の健全化を示すことで市場の信頼を繋ぎ止めるしかありません」
藤堂は、ふっと息を吐いた。
それは溜息ではなく、嘲笑だった。
「需要を抑制する、か。黒田君、君は今の街を見たことがあるかね? 国民はもう、爪に火をともすような生活をしている。これ以上、何を抑制しろと言うんだ? 生きることをやめろと言うのか?」
「それは……しかし、国家財政が破綻すれば、元も子もありません」
「財政破綻……」
藤堂は、手にした書類を、無造作に放り投げた。
バサリ、と乾いた音を立てて、エリートたちが徹夜で書き上げた「英知の結晶」が床に散らばる。
黒田の表情が凍り付く。
「これは経済政策ではない。国民への死刑宣告だ」
藤堂の声が、雷鳴のように執務室に響いた。
「手術は成功したが患者は死んだ、では意味がないのだ! 帰れ! 二度とこんな紙屑を持ってくるな!」
追い出されるように退室していく官僚たちの背中を見送りながら、藤堂は椅子に深々と体を沈めた。
老いた宰相の顔に、深い疲労の色が浮かぶ。
「……どいつもこいつも、狂ってやがる」
彼は知っていた。財務省の連中が悪人なわけではない。彼らは彼らなりに、この国を憂いている。だが、その「憂い方」が根本的に間違っているのだ。彼らは「国家」という有機体を守ろうとしているのではなく、「バランスシート」という死んだ数字を守ろうとしているに過ぎない。
このままでは、日本は死ぬ。
インフレという熱病にうなされている患者に、財務省は冷水を浴びせ、血を抜こうとしている。
必要なのは、既存の常識を、教義を、そして構造そのものを破壊できる「劇薬」だ。
藤堂は、机の上の直通電話に手を伸ばした。
迷いはなかった。この老いぼれの政治生命など、くれてやる。この国が生き残るためなら、悪魔と契約することさえ厭わない。
彼が呼び出す相手は、ただ一人。
二年前の台湾危機で、誰にも気づかれずに世界を救った男。
冷徹なまでのリアリズムと、燃えるような情熱を併せ持つ、若き怪物。
「……私だ。今夜、公邸に来てくれ。誰にも見られずにな」
深夜。総理公邸、奥の間。
大和テルは、藤堂と向かい合っていた。
三十一歳。その若さには似つかわしくない、深淵を覗き込むような静かな瞳が、老宰相を見据えている。
「総理。単刀直入に申し上げます」
テルは、挨拶もそこそこに切り出した。
「現在のインフレの本質は、『カネのばら撒きすぎ』ではありません。そんな事実はどこにもない。原因は二つ。『供給能力の欠如』と『海外への過度な依存』です」
テルは、何もない空中に指を走らせる。彼にだけ見えている【鎖】の図式をなぞるように。
「半世紀にわたるデフレで、国内の工場は潰れ、技術者は散逸しました。モノを作る力が痩せ細っているところに、海外からの輸入価格高騰が直撃した。今の日本は、基礎体力が落ちた老人が、インフルエンザにかかったようなものです」
「……財務省は、熱を下げるために解熱剤、つまり利上げと増税が必要だと言っているが」
「それではショック死します」
テルは断言した。
「今必要なのは、解熱剤ではありません。体力をつけるための栄養剤――すなわち、積極財政による徹底的な供給能力の強化です。カネを刷り、国内に投資し、工場を動かし、エネルギーを自前で作る。それしか助かる道はない」
藤堂は、じっとテルの目を見た。
「だが、それをやれば……」
「ええ。副作用が出ます」
テルは隠さなかった。
「海外が利上げをする中で、日本だけが緩和を続ければ、金利差により強烈な円安が襲います。輸入物価はさらに上がり、メディアは大合唱で政権を叩くでしょう。『日本売り』『通貨崩壊』と」
それでも、とテルは続けた。
「座して死を待つよりは、嵐の中へ船を出すべきです。その嵐を抜けた先にしか、生存の道はない」
テルは、窓の外の闇を見つめ、静かに呟いた。
「この国は、【貨幣の鎖】に縛られています。財源がないから何もできない、借金は悪だという呪い。それが、我々の手足を縛り、呼吸を止めさせている。……私は、それを断ち切りたい」
【貨幣の鎖】。
藤堂は、その言葉を反芻した。
「……鎖、か。言い得て妙だ」
老宰相は立ち上がり、テルの前に歩み寄った。
「私はもう長くない。だが、君には時間がある。そして、力がある」
藤堂は、孫ほども歳の離れた若者の肩に、重い手を置いた。
「毒をもって毒を制す。君という劇薬を、財務省という伏魔殿に投下する」
藤堂の目に、凄絶な光が宿った。
「財務大臣を引き受けてくれ。そして、その『鎖』とやらを、粉々に砕いてくれ」
テルは、その重圧を真正面から受け止めた。
そして、静かに口を開いた。
「――謹んで、お受けいたします。ただし、一つだけ条件があります」
「条件?」
「私が財務省で財政のアクセルを全開に踏み込んでも、日銀が利上げというブレーキを踏めば、車体はバラバラになります。今の総裁では、私の政策は実現できません」
テルは、冷徹な目で藤堂を見つめた。
「日銀総裁の首を、すげ替えていただきます。後任は、私が指名する人物で」
それは、日銀の独立性を無視した、あまりに強引な要求だった。通常なら政権が転覆しかねない人事介入だ。
だが、藤堂はニヤリと笑った。
「面白い。やはり君は、ただの優等生ではないな。……いいだろう。これまでの失策の責任を取らせる形で辞任させよう。誰を据えるつもりだ?」
「氷室麗華。東大経済学部の教授です」
「氷室……あの若き天才数理経済学者か。君の同期だったな」
「ええ。彼女なら、市場という怪物をねじ伏せられます」
「よかろう。人事案は私が通す。……存分にやれ」
この夜、日本の歴史が大きく転回した。
三十一歳の財務大臣と、史上最年少の日銀総裁の誕生。
それは、戦後日本の経済体制に対する、宣戦布告だった。




