第01話 幸福の在り処(6) 暗雲の研究室
夕暮れの国立大学研究室は、静寂に満ちていた。窓の外には、家路を急ぐ車のヘッドライトが光の川となり、街がゆっくりと夜の顔に化粧を施していく。その宝石を散りばめたような美しい光景とは裏腹に、ヤマト・ハジメの心は、晴れることのない厚い雲に覆われていた。
「――聞きました? 応用化学の木村先生、万里の『華星技術』に、今の三倍の年俸で引き抜かれたそうですよ」
休憩室の自動販売機の前で、疲弊しきった顔の同僚が、缶コーヒーを啜りながら苦々しく吐き捨てた。
「ここでは論文の引用数くらいしか評価されないが、向こうじゃ研究成果がすぐに金になる。……まあ、賢明な判断でしょうな。この国に夢を見るだけ、馬鹿を見る」
ハジメは曖昧に頷きながら、返事に窮した。日本の頭脳が、その価値を正当に評価されず、買い叩かれ、海外に流出していく。それはもはや、日常の風景となりつつあった。
研究室に戻り、窓の外に目をやると、一台の配達ドローンが音もなく滑るようにビル街を飛行していくのが見えた。その機体が描く滑らかな軌跡と、驚くべき静粛性。ハジメの胸が、どくりと痛んだ。あのドローンに搭載されている高効率モーターの基礎理論は、原型となる試作品は、間違いなく自分の研究室で生まれたものだったからだ。
数年前、
「短期的な実用化は困難」
「より予算を重点分野に配分すべき」
という理由で、研究は無情にも打ち切られた。あの時、あと一年、いや半年でも予算が続いていれば……。過去の無念が、亡霊のようにハジメの心に甦る。
「先生、失礼します」
背後から、澄んだ声がした。振り返ると、国費留学生である王が、興奮を隠しきれない様子で立っていた。彼の視線は、モニターに映し出されたハジメの最新の研究データに釘付けになっている。
「先生のこの新素材理論は、本当に素晴らしい。革命的です。これが実用化されれば、世界は変わります。万里でも、これほどの着想は見たことがありません」
その曇りのない尊敬の眼差しと、科学に対する純粋な情熱に、ハジメは指導者として誇らしい気持ちになる。だが同時に、その言葉は鋭い刃となって、彼の心を深く抉った。
なぜなら、あの空飛ぶドローンを開発し、今や日本市場を席巻している万里の巨大ベンチャー『飛龍創新』を創設したのは、かつて王の先輩であり、ハジメが手塩にかけて育てた最も優秀な留学生、李だったからだ。李は、ハジメの研究室でモーター理論を学び、帰国後、万里政府の全面的なバックアップを受けて起業し、ハジメが予算不足で諦めた技術を、わずか数年で完成させ、巨大な富を築き上げていた。
李に悪意はなかっただろう。彼はただ、日本で学んだ知識を、豊富な資金と機会を与えてくれる母国で花開かせたに過ぎない。善意の留学生が、結果として日本の技術を持ち帰り、日本の市場を奪う。このねじれた構造こそが、ハジメを苛む問題の根源だった。
その時だった。デスクの内線電話が、無機質な電子音を響かせた。学部長からの、聞き飽きた非情な通告だった。
「大和君、すまないが……来年度の研究予算、さらに15%の削減が決定した。財政健全化のため、国全体で痛みを分ち合わなければならない、ということだ。分かってくれるね」
ハジメは、受話器を置いたまま、動けなかった。
目の前の希望(王の才能)、過去の無念(流出した技術)、同僚の離散(頭脳流出)、そして、今突きつけられた未来への絶望(予算削減)。四つの重りが、彼の両肩にのしかかる。
(我々は、一体何をやっているんだ……?)
自らの手で未来の種を育てようとせず、乏しい水をさらに減らし、育ち始めた芽は、より豊かな土壌を持つ隣人にやすやすと刈り取られていく。そして、その隣人が育てた果実を、高い金を出して買っている。
この国は、自ら畑を耕すことを放棄し、緩やかに自殺しようとしているのではないか。
ハジメの中で、漠然としていた不安が、ひとつの明確な確信に変わっていく。
何かがおかしい。
この国の根幹が、どこか致命的に、狂っている。
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