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第12話:財務大臣テル(1) コストプッシュインフレ

衆議院選挙前日ということで、予定を早めて、第三部を特別公開!!




 令化三十一年、晩夏。

 東京の空は、鉛を溶かしたような重苦しい灰色に覆われていた。湿度を含んだ生温かい風が、ビル風となってコンクリートの谷間を吹き抜ける。だが、この街を覆う閉塞感の正体は、気候のせいだけではなかった。

 二年前に発生した台湾危機。

 大和カイ率いる特殊部隊による「静かなる介入」によって、万里人民共和国による武力侵攻は未然に防がれた。しかし、その余波は世界を根底から揺さぶり続けていた。アトランティス合衆国の覇権の揺らぎが決定的となり、力の空白地帯となった中東や南シナ海では、シーレーンの安全神話が崩壊したのだ。

 タンカーの保険料は跳ね上がり、資源価格は乱高下を繰り返す。

 エネルギー自給率わずか一割、食料自給率三割。生存に必要なリソースのほぼ全てを海外に依存する日本にとって、それは「死刑宣告」に等しい事態だった。

 輸入物価の暴騰。

 ガソリン価格はリッター三百円を超え、電気代は震災前の五倍に達していた。スーパーマーケットの棚には、値上げされた食料品が並ぶが、それを手に取る人々の手は震えている。


「……また、上がってる」


 都内のスーパー。安売りのチラシを握りしめた高齢の女性が、卵のパックの前で立ち尽くしていた。彼女の年金は、マクロ経済スライドという名の調整弁によって実質的に減額され続けている。


「電気代が払えないから、クーラーもつけられない。今夜も、おかずを減らすしかないのか……」


 彼女の呟きは、誰に届くこともなく、店内のBGMにかき消された。

 それは、典型的な「コストプッシュインフレ(費用牽引型インフレ)」だった。

 国内の需要が過熱して物価が上がっているのではない。海外からの供給コストが上がり、それを価格に転嫁せざるを得ない「悪い物価高」だ。

 だが、今の日本には、この痛みに耐える体力は残されていなかった。

 半世紀にわたるデフレと緊縮財政。

 カネを使わないことが善とされ、投資は抑制され、人件費はコストとして削減され続けた。「失われた三十年」はいつしか「失われた半世紀」となり、国内の供給能力――モノやサービスを生み出す力――は、見る影もなく破壊されていた。

 賃金は上がらない。だが、物価だけが上がる。

 スタグフレーション。経済学における最悪の悪夢が、現実の地獄となって日本列島を飲み込んでいた。

 大田区、町工場街。

 かつては世界に誇る技術を支えたこの街も、今はシャッター通りと化している。その一角にある小さな金属加工工場の事務所で、一人の男が首を吊ろうとしていた。

 足元の椅子を蹴る直前、彼の目から涙が溢れた。


「材料費は三倍だ……。電気代は二倍……。でも、親会社は『一円でも上げたら海外に発注する』と言い放つ。国は何もしちゃくれない。融資も断られた。……俺は、真面目に働いてきただけなのに」


 ギシり、とロープが軋む音。

 それは、この国中で響いている、音なき断末魔だった。

 霞が関、財務省。

 重厚な石造りの庁舎を見下ろす位置にある、議員会館の一室。

 大和テルは、窓ガラス越しにその光景を見ていた。

 彼の目には、他の誰にも見えない「絶望の正体」が、はっきりと映っていた。

 巨大な、黄金色の鎖。

 財務省の本庁舎、そして日本銀行本店に、とぐろを巻く大蛇のように絡みつく、禍々しい金属の束。それは脈打つたびに光を放ち、霞が関全体を締め上げている。

 【貨幣の鎖】。

 国家が自らの手足を縛り、呼吸を止めさせている呪いの具現化。

 庁舎から出てくるエリート官僚たちの首にも、その鎖から分かれた細い蔦のような鎖が巻き付いているのが見えた。彼らの顔色は青白く、目は虚ろだ。


「予算がない」

「財源がない」

「将来世代へのツケを回すな」


 彼らはうわごとのように繰り返している。自分たちが何に縛られているのかさえ自覚せず、ただ「帳簿の均衡」という教義を守るためだけに、国民を見殺しにする政策を立案し続けている。

 テルは、強く拳を握りしめた。

 爪が皮膚に食い込む痛みだけが、彼を現実につなぎ止めていた。


「……待っていろ」


 彼は低く、地獄の底から響くような声で呟いた。


「そのふざけた鎖を、私が叩き切る」

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