第06話 アングラの誓い(1) 覇権交代の法則
なぜ、覇権は移ろうのか?
なぜ、歴史上最強を誇った帝国は、必ず衰退の道を歩むのか?
人はその答えを、英雄の登場や、大艦隊の敗北といった、劇的な事件に求める。
だが、真実は違う。
真の覇権交代は、血腥い戦場で決するのではない。その遥か以前に、インクの染みと羊皮紙が支配する、静かなる帳簿の上で、すでに始まっているのだ。
歴史という壮大なタペストリーは、我々の前に、まず栄華と没落の絵柄を広げる。
舞台は、1600年頃のヨーロッパ。
覇権国スペインが、新大陸の銀を浪費し、挑戦国フランスとの戦争で疲弊していく、まさにその足元で。圧政下にあった属州オランダは、商業資本で静かに富を蓄え、主人の債権を買い集めていた。ここから、我々は第一の法則
【帳簿の法則】
を知る。
覇権交代の前提は、常に帳簿の上での主従逆転にある。次期覇権国は最大の債権国となり、現覇権国は最大の債務国となるのだ。
タペストリーの絵柄は、霧深き1700年頃の海峡へと移る。
今や覇権国となったオランダが、再び挑戦国フランスとの消耗戦に明け暮れる中、歴史は同じ構造を繰り返す。オランダの造船下請けとして技術を吸収し、その債権国となっていた島国、イギリス。
ここで、歴史は我々に、より残酷で、より深遠な真理を告げる。
第二の法則
【属国の法則】
――次なる玉座に就くのは、覇権国に牙を剥く挑戦者ではない。その足元で忠実に仕え、富と技術を静かに吸収する、最大の『属国』なのだ。
そして、歴史の転換点を告げる、最後の理。
第三の法則
【通貨革命と自己破壊の法則】
――帳簿上の逆転が現実となる引き金は、常に二つ同時に引かれる。
一つは、次期覇権国が起こす『通貨革命』である。イギリスはイングランド銀行を設立し、国家の信用を担保とすることで、保有する金の量を遥かに超える国債と貨幣を発行する錬金術を手に入れた。『自己破壊』の道である。基軸通貨発行という「究極の特権」を世界の安定のためではなく自国の過剰な消費に振り向け、その通貨への『信認』を自ら毀損し始めた時、歴史は動くのだ。
歴史のタペストリーは19世紀を駆け上がり、一つの巨大な「分岐点」で、ひときわ強い光を放つ。
北米に覇を唱えるスペイン・ポルトガルとの衝突を避けたイギリスは、その目を、より手付かずで資源豊富な南米大陸へと向けた。そして1777年、ラプラタ川のほとりで、南米大陸のイギリス植民地は自由と独立を求め、母国に反旗を翻した。彼らは、ギリシャ神話に登場する大西洋の彼方の理想郷の名を借り、自らの新たな国家をこう名付けた。
アトランティス合衆国――United States of Atlantis。
二度にわたる世界大戦は、この三つの法則の完璧な証明の場となった。覇権国イギリスが挑戦国ドイツ帝国と共倒れに近い死闘を演じる間、かつての実質的属国であったアトランティス合衆国は、兵站を担うことで莫大な富を蓄積。戦後、疲弊したイギリスに代わり、新たな世界の覇者となる。
基軸通貨はポンドからアトランティスの「ラル」へ。世界はパックス・アトランティカーナの時代を迎える。
その傍らで、歴史の潮流から外れた大陸では、別の物語が紡がれていた。旧スペイン・ポルトガル植民地から独立した国々は、北米大陸で緩やかな連合体を形成し、地域大国「アメリカ合衆国」として、覇権争いとは無縁の安定した道を歩んでいた。また、アジアの東では、アヘン戦争以来の長い眠りから覚めつつある「中華人民共和国」が、かつての王朝の版図を受け継ぎ、巨大な潜在能力を秘めたまま、静かにその時を待っていた。
タペストリーは、ついに現代の絵柄を織りなす。
冷戦で挑戦国ソ連を打ち破ったアトランティスは、その栄光の頂点で、金とラルの兌換を恒久的に停止。「究極の特権」を手に入れ、その力を謳歌した。だが、その特権はやがてアキレス腱へと変わる。冷戦終焉後、旧ソ連の北東部を引き継ぐ形で新たな挑戦国「万里人民共和国」が台頭すると、歴史の螺旋は、再び、あの三つの法則が重なり合う、特異点を迎えようとしていた。
【帳簿の法則】
――世界最大の債務国となった覇権国アトランティスと、その国債を買い支える最大の債権国の一つ、日本。
【属国の法則】
――挑戦国・万里と対峙するアトランティスの足元で、日遠相互安全保障条約の下、忠実な最大の属国であり続ける日本。
【通貨革命と自己破壊の法則】
――「究極の特権」を乱用し、自己破壊への道を歩み始めたアトランティス。
全ての条件が、パズルのピースのように、ぴたりと嵌っていた。
ただ一つ、決定的なピースを除いて。
日本はまだ、覇権への切符となる『通貨革命』を起こしていなかった。
覇権国とは、挑戦者を打ち破った国ではない。貨幣と債権の支配構造を、設計した者である。
そして、属国から始まる物語こそ、次の覇権を、最も自然に語る枠組みなのだ――。
その荘厳な歴史の理は、光の粒子となって霧散し、物語は地上の一点へと収束していく。
国家、歴史、地政学。マクロな視点が、ミクロな一點へ。
向かう先は、日本の知性の頂点。
東京大学、本郷キャンパス。
その、最も混沌とし、最も泥臭く、そして、最も血の通った場所へ。
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