第04話 灰色の教室(3) もう動かないショベルカー
停電は、何日も続いた。
テルは、弟のサクが、毎日、体育館の窓から、外のある一点を、心配そうに見つめていることに気づいていた。その視線の先にあるのは、数日前にシホとサクを救い出してくれた、あの黄色いショベルカーだった。
「様子を、見に行ってみようか」
テルが声をかけると、サクはこくりと頷いた。
二人が向かう道中、街は「灰色の復興」という名の、静かな絶望に覆われていた。復旧工事は全く進んでおらず、建設途中のまま錆びついた橋脚が墓標のように立ち尽くし、決壊した堤防は、破れた絆創膏のようにブルーシートで覆われているだけだった。「予算凍結」と書かれた冷たい看板が、この街の未来を物語っていた。
土建屋の小さな事務所のドアには鍵がかかっておらず、中から澱んだ空気が流れ出してくる。
二人は、事務所の奥にある、薄暗いガレージへと足を踏み入れた。油と金属の匂いに混じって、微かに、甘ったるい死の匂いがした。
そして、変わり果てた光景を目撃する。
ガレージの中央。天井の鉄骨から、一本の太いロープがまっすぐに垂れ下がっていた。
その先には、見覚えのある男の体が、力なくぶら下がっていた。
土建屋のオヤジだった。
「――ッ!」
テルは、とっさにサクの目を手で覆った。だが遅かった。サクは、自分を救ってくれた英雄の、命の光が完全に消え去った姿を、確かに見てしまった。
静寂が耳を圧迫する。サクは声も出さず、ただ、その光景をじっと見つめている。テルは弟の小さな体を強く抱きしめ、耳を塞ぐようにして囁いた。
「サク、見るな! こっちを向け!」
しかし、サクは兄の手をそっとどけると、震える指で虚空にぶら下がる男を指差した。その声は、恐怖よりも、純粋な疑問に満ちていた。
「おじさん、なんで、ぶらーん」
テルの全身から、血の気が引いた。九歳の頭脳では、この問いにどう答えるべきか、全く分からなかった。嘘をつかなければ。弟を守るための嘘を。
「……おじさん、疲れて……寝てるんだよ。うん、きっと、すごく疲れてるんだ」
あまりに稚拙な嘘だった。サクは、小さな首をかしげた。
「うえー(上で)、ねってるぅ?」
「……」
テルは、もう何も答えられなかった。弟の純粋さが、逃げ場のない現実を、容赦なく突きつけてくる。
テルはサクから目を逸らすように、古びた事務机の上へと視線を逃した。そこには、銀行からの赤いスタンプが押された督促状の束と、走り書きの遺書、そして、一枚の新聞が、無造作に置かれていた。
遺書にはこう記されていた。『復興のために、資材を前金で仕入れたが、国も市も、金はびた一文払ってくれねえ。もう無理だ。すまねえ』
そして、その横の新聞記事の見出しが、彼の死の背景を冷たい数字で物語っていた。
【復興関連倒産、月間500件超え 過去最悪】
【中小企業経営者の自殺者数、前年同月比300%増】
テルの中で、何かが音を立てて砕け散った。そして、その破片が、冷たく鋭い刃となって、再構築されていくのを感じた。
オヤジは、絶望して死んだのではない。殺されたのだ。
八百屋のおばあちゃんの死と同じだ。病気でも、事故でもない。
この国を支配する、理不尽な「カネの流れ」という、見えざる悪魔によって。
テルの瞳から、恐怖と混乱の色が消えた。代わりに宿ったのは、氷のような、静かな怒りだった。彼は弟の前に跪くと、その小さな両肩を強く、しかし優しく掴んだ。
「サク、行こう。ここはもう終わりだ」
その声は、九歳の少年のそれとは思えないほど、低く落ち着いていた。
テルは弟の手を強く握り、無理やりその場から引き離した。サクは一度だけ、ぶら下がる男の姿を振り返ったが、何も言わずに、兄の後に続いた。
帰り道、二人の間に言葉はなかった。
やがて、事務所の前に止められたままの、黄色いショベルカーが、サクの目に入った。
それは、数日前、瓦礫の中から自分たちを救い出してくれた、力強く、頼もしい英雄の姿ではなかった。ただの、動かない、冷たい鉄の塊だった。
サクは、立ち止まった。そして、ガレージの中で見た動かないおじさんの姿と、目の前の動かないショベルカーの姿を、その小さな頭の中で、ゆっくりと、しかし確実に、結びつけていた。
彼は、兄の手を握る力を強め、ぽつりと、呟いた。
「しょっべるかー、もう、なぁーい」
その声には、悲しみよりも、大切なものが二度と戻ってこないことを悟ってしまった、子供の、どうしようもない諦念が、満ちていた。
テルは、その言葉に何も答えず、ただ弟の手を、より一層、強く握りしめた。
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