第01話 幸福の在り処(1)
プロローグ:朝凪の食卓
令化八年六月、長く続いた梅雨がほんの束の間だけ空に道を譲った、穏やかな朝。
名古屋港に程近い緑豊かな住宅地にヤマト家はあった。ダイニングの大きな窓からは、磨かれたガラスを透かして柔らかな光が惜しみなく降り注ぎ、空気中を漂う微細な塵の粒子をきらきらと輝かせている。香ばしいトーストの匂いと、ドリップサーバーから立ち上るコーヒーの湯気が空間を満たし、壁に飾られた子供たちのカラフルな、しかし何を描いたのか判然としない絵が、この家の幸福の総量を雄弁に物語っていた。
それは、ありふれているが故に完璧な、日本のどこにでもある朝の食卓風景だった。
「――だからね、お父さん」
利発そうな大きな瞳を持つ長男のテルが、真剣な面持ちで口火を切った。小学三年生にしては妙に理路整然とした口調である。彼はすでに自分の分のトーストを綺麗に平らげ、静かに戦機をうかがっていた。その視線の先にあるのは、父ハジメの皿に乗せられた、ひときわ分厚く、見るからに脂の乗った鮭のハラスだった。
「昨日も研究室に泊まりだったでしょ? 疲れてる時に脂っこいのを食べると、胃が疲れちゃって、もっと大変になるんだよ。テレビの偉い先生が言ってた」
国立大学の研究者である父、ヤマト・ハジメは、広げた新聞から少し眠たげな顔を上げた。その視線は、テルの言葉の真偽を測るというより、息子の小生意気な企みを面白がっているように優しい。「そうか?」と、彼はわざとらしく半信-疑の声を出す。
好機、と見たテルは畳みかけた。
「だから、テルが代わりにこのお魚を食べてあげれば、お父さんは病気にならずに、もっといっぱい研究ができる。これが一番の親孝行なんだ!」
見事な三段論法だった。母親のヤマト・シホがキッチンから「こら、テル! お父さんを言いくるめるんじゃありません」と、その声色に笑いを含ませながら咎める。彼女は三人の子供たちの世話をしながら、手際よく朝食の準備を進めている。その動きには一切の無駄がなく、淀みなく流れる水のように美しい。彼女こそが、この家の、そしてこの家族の営みを支える太陽のような存在だった。
ハジメは声を上げて笑った。「ははは、一本取られたな。しょうがない、お父さんの健康のために食べてくれ」
彼はフォークでハラスを掬い、テルの皿へと優雅な弧を描いて乗せる。
「ありがとう、お父さん!」
勝利を確信したテルは、満面の笑みでハラスを頬張った。彼にとって、ルールとは守るものではなく、その抜け穴を見つけ出し、交渉によって自らの望む結果を最大化するためのツールに過ぎなかった。
その一連のやり取りを、次男のカイはまったく意に介していないようだった。小学一年生のカイは、兄とは対照的に、背筋を伸ばした美しい姿勢で、自らの皿にあるスクランブルエッグを一口一口、丁寧に咀嚼している。その子供離れした集中力は、まるで外界から自らを遮断する結界のようだった。
食卓に迷い込んできた一匹のハエが、ブゥン、と羽音を立ててカイの牛乳コップの縁に止まった。家族の会話が続く中、カイの視線だけが、音もなくハエをロックオンする。彼の瞳には、獲物を見据える猛禽の光が宿っていた。
ハエが飛び立ち、宙でほんの一瞬、静止したように見えたその刹那。
カイの右手が、鞭のようにしなった。
パシッ、という生々しい音すら立てず、彼の小さな手は空中で的確にハエを握り潰していた。彼は無表情のまま、ポケットから取り出したティッシュで手を拭い、再び牛乳を、何事もなかったかのように飲み始める。その神業的な動体視力と、殺意を匂わせない静かなる実行力に、家族は誰も気づかない。彼の内なる聖域を侵す者は、たとえ虫けらであろうと、容赦なく排除される。それが、彼の世界の絶対的な掟だった。
一方、食卓のもう一つの王政は、三男によって敷かれていた。
チャイルドチェアに鎮座するヤマト・サク(三歳)が、自らの皿にあったミニトマトを全て平らげると、小さなフォークで皿をカン、と鳴らした。それは、謁見の終わりと、新たな要求の始まりを告げる合図だった。
そして彼は、おもむろに家族全員の皿を順番に指さしながら、短く、しかし絶対的な命令を発した。
「ブゥ!」
それはサク語で「トマト」を意味する。家族は皆、その絶対君主の要求に苦笑しながらも逆らうことはない。
「はいはい、王様」
「サクはトマトが好きだねえ」
父、母、そして兄たちから、それぞれの皿に乗っていたミニトマトが一つずつ、サクの皿へと「献上」される。サクは満足げにそれを頬張り、小さな口をいっぱいに動かしながら、やがて「ごっぉ(ごちそうさま)」と呟いた。そして、満腹の王は、その玉座から母シホに向かって両手を広げ、抱っこをねだるのだった。
やがて、時計の針が登校時間を指し示す。
「「行ってきます!」」
テルとカイがランドセルを背負い、玄関で元気よく叫んだ。
「気をつけてねー!」
サクを腕に抱いたシホが、その二つの小さな背中を見送る。
そこには、明日も、明後日も、十年後も、永遠に続くかのように思われる、完璧な幸福の風景が広がっていた。