第03話 理不尽な死(1) 72時間の暗闇
暗闇。
絶対的な、音も光も、そして希望すらも吸い尽くすかのような、完全な暗闇だった。
ヤマト・シホが意識を取り戻した時、最初に感じたのは、腕の中に伝わる小さな温もりと、全身を圧迫するコンクリートの冷たさだった。
「……サク?」
掠れた声で呼びかけると、腕の中で小さな体がもぞりと動いた。
「……おかーしゃん……」
か細い、しかし確かな息子の声に、シホは安堵と絶望が入り混じった涙を流した。生きている。二人とも、生きている。だが、ここはどこだ。
彼女は、崩落したマンションの瓦礫が奇跡的に作り出した、狭い隙間の中に閉じ込められていた。サクを腕に抱いたまま、身動き一つ取れない。上も下も、右も左も、硬く冷たいコンクリートの壁に塞がれている。まるで、現代の石棺だった。
時間が、溶けるように過ぎていく。
いや、時間という概念そのものが、意味をなさなかった。あるのは、喉の渇き、腹の飢え、そして体の芯まで凍えさせる寒さだけだ。
サクが泣き叫び始めた。
「ぴいぴい(お腹すいた)……」
その訴えに、シホは何もしてやることができない。自分の無力さに、胸が張り裂けそうだった。
彼女は、衰弱し、霞んでいく意識を必死で繋ぎ止め、息子に語りかけた。
「サク、いい子だからね……。もうすぐ、お父さんがね、ほかほかの、おっきなハンバーグを持ってきてくれるからね……。ケチャップ、いっぱいかけようね……」
「……うん……」
「ポテトも、あるよ。カリカリの、フライドポテト。サク、好きでしょ……」
「……うん……」
空想の食べ物の話。それが、シホが息子に与えられる、唯一の食料だった。
どれほどの時間が経っただろうか。
72時間。人間が、水なしで生きられる限界の時間。
もう、声も出ない。サクの泣き声も、とっくに聞こえなくなっていた。シホの意識も、死という静かな海の底へ、ゆっくりと沈んでいくところだった。
(ごめんね、サク……ごめんね……)
心の中で何度も謝り、彼女はそっと目を閉じた。
その、瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ……。
遠くから、地響きが聞こえた。それは地震の揺れとは違う、規則的で、力強い振動。
ガガガッ、ガリガリッ!
金属がコンクリートを削る、耳障りな、しかし、この世で最も美しい音楽。
そして――。
一筋の光が、暗闇を切り裂いた。
「誰か、いるかーっ!」
光の向こうから、野太い男の声が響く。
光が広がっていく。瓦礫が、巨大な力によって一つ、また一つと取り除かれていく。
やがて、瓦礫の壁が完全に開かれ、逆光の中に、巨大な黄色い機械のシルエットが浮かび上がった。ショベルカー。その運転席から、ヘルメットをかぶった土建屋のオヤジが顔を出し、シホとサクの姿を認めると、安堵の声を上げた。
「おおっ! 生きてたか! よく頑張ったな!」
彼は、巧みなレバー操作で巨大なアームを操り、慎重に周囲の瓦礫を取り除きながら、吐き捨てるように悪態をついた。
「ちくしょうめ、『公共事業は悪だ』だの『コンクリートから人へ』だの、さんざん言いやがって。おかげで今この町で、こんなデカい機械を動かせるのは、俺みてえな老いぼれ一人だけだ! 若いのはみんな、とっくに廃業しちまったからな!」
そのぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、彼の目は真剣そのものだった。
「待ってろ、奥さん! もうちょっとだからな! 今出してやるからな!」
サクは、衰弱しきった体で、その光景をただじっと見つめていた。
自分たちを72時間の暗闇と死の淵から救い出している、巨大な黄色い機械。その力強いアーム。鳴り響くエンジン音。そして、悪態をつきながらも、その瞳の奥に確かな優しさを宿した、一人の男。
それは、三歳の彼の魂に、決して消えることのない光景として焼き付いた。
恐怖も、悲しみも、飢えも、全てを圧倒する、巨大で、温かい、絶対的な救済。
彼は、それを「技術の光」として、魂の最も深い場所に刻み込んだ。
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