第00話 深海のプロローグ
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歴史とは、螺旋である。
一つの出来事は、時を経て、全く異なる舞台と役者によって、再び繰り返される。
だが、その螺旋が天へと昇るのか、あるいは奈落へと堕ちるのかは、いつの時代も、そこに生きる人間の意志に委ねられている。
――これは、その螺旋が、最も激しく軋みを上げた、ある時代の記録。
永和九年、冬。
太平洋、日本南東沖。
水深千五-百メートルの、光も音も届かぬ絶対暗黒の世界。
鋼鉄の鯨は、深海の圧力にその巨体を軋ませながら、最後の審判の引き金を引こうとしていた。
オハイオ級戦略原子力潜水艦『ヘンリー・M・ジャクソン』。旧時代の遺物にして、人類が作り出した最も愚かで、最も強力な暴力の象徴。その艦内は、異様なほどの高揚感と、選民思想に満ちた静かな狂気に支配されていた。
「見事なものだな。敵の防衛網とやらは、我々が仕掛けた陽動に面白いように食いついてくれた。まんまと鳥籠は空になったというわけだ」
艦長デヴィッド・ライアンは、戦術スクリーンを満足げに見つめていた。その中央には日本列島の三次元地図が映し出され、心臓部である東京の首都圏が、禍々しい赤色のターゲットサークルで点滅している。
「歴史は再び我々の手に戻る」ライアンは嘯いた。
「偽りの平和に、終止符を打つのだ」
彼は、艦内に響き渡る声で、厳粛に、しかしどこか悦に入ったように命じた。
「――核ミサイル発射シーケンス、開始」
『了解。核ミサイル発射シーケンス、最終段階へ移行。ターゲット、東京首都圏。着弾予測時刻、十八分後』
冷徹な合成音声が、任務の開始を告げる。
艦橋のクルーたちの顔に、勝利の笑みが浮かんだ。彼らは皆、失われた時代の敗者たち。自分たちの栄光を奪った新しい世界を、心の底から憎んでいた。この一撃は、歴史の振り子を、あるべき場所へと力ずくで戻すための、聖戦なのだ。
『ミサイル発射ハッチ、開閉シーケンス開始』
『最終安全装置、解除。発射承認コード、待機』
ライアンが、発射承認コードを入力するためのコンソールに手を伸ばした、まさにその時だった。
ソナーを担当していた若いオペレーターが、ヘッドセットを抑えながら、訝しげに呟いた。
「……なんだ、この音は…?」
聞こえるはずのない音が、聞こえていた。
それは、歌だった。
何百、いや、何千もの鯨が、同時に鳴いているかのような、荘厳で、しかし、どこか物悲しい、深海のレクイエム。
『発射まで、あと十五秒』
無機質なシステム音声が、迫りくる終焉を告げた。
その瞬間、オペレーターの声が、恐怖に引きつった絶叫に変わった。
「な、なんだ!? 周囲に無数の高速移動物体を探知! 馬鹿な! こんな数はありえない! これは…これはまるで…――幽霊の、群れだ!」
直後、艦全体が、何か巨大で柔らかなものに、ふわりと、しかし、抗いがたい力で包み込まれるような、奇妙な感覚に襲われた。
激しい衝撃ではない。まるで、巨大な揺り籠に優しく抱きしめられるかのような、静かな圧迫感。
間髪入れず、艦内のあらゆる場所で警告灯が点滅し、アラームが鳴り響いた。
『推進システム、停止!』
『ソナー、潜望鏡、全滅!』
悲鳴のような報告が、次々とCIC(戦闘情報センター)に叩きつけられる。
動けず。見えず。聞こえず。
だが、最後の牙は、まだ残っている!
『発射まで、あと六秒』
システム音声が、無慈悲に最後の時を刻む。
ライアンは、悪夢から覚めたように我に返ると、絶叫した。
「構うな! 撃て! 撃てぇぇぇっ!」
彼は、震える指で承認コードを叩き込み、最後の発射ボタンに、その人差し指を、力任せに叩きつけた。
艦橋の誰もが、息を呑む。
一瞬の静寂。
だが、ミサイルが放たれる轟音は、永遠に響かなかった。
代わりに、コンソールに、冷たい、絶望的なテキストが、赤く点滅した。
『ERROR: LAUNCH HATCH, PHYSICALLY LOCKED』
(エラー:発射ハッチは物理的にロックされています)
ミサイルは、発射されない。
艦内は、時が止まったかのような、死の静寂に包まれた。
その、絶対的な沈黙を破り、最後の声が、静かに、しかし、絶対的な力を持って響き渡った。
それは、敵からの、初めての通信だった。
――獣には、獣の言葉で語りかけるしかない。だが、我々は旧時代の獣ではない』
その声は、若く、冷徹で、そして、底知れぬほどの、静かな怒りを宿していた。
『貴官らが信仰する『力』そのもので、その歪んだ思想を、完全に粉砕する。降伏せよ。さすれば――』
『――貴官らの心臓を、暴走から解放し、その命を、保証する』
――この、歴史の記録には決して残らない「静かなる鎮圧」が完了する、四十三年前。
螺旋の歯車が、まだ静かに回り始めたばかりの頃。
全ての始まりは、ありふれた日本の、完璧な朝の食卓にあった。
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