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監視

作者: クロカワ

 私はこのマンションに越してきてまだ日が浅い。鉄筋コンクリート造りのそれなりに立派な建物で、エントランスにはオートロックと監視カメラも備えられている。一見すると治安も良さそうで、静かな環境が気に入ってここに決めたのだった。住民同士の関わりは希薄で、プライバシーが保たれると聞いていた。

 実際、引っ越しの挨拶に数件の部屋を訪ねたが、どの住人も礼儀正しく丁寧ではあるものの、どこかよそよそしく感じられた。必要以上に踏み込まない距離感——それは私にとって居心地の良いもののはずだった。


 しかし、引っ越して数週間が経つころからだろうか。私は時折、奇妙な違和感に襲われるようになった。

 最初は本当に些細なことだった。例えば、夜遅く仕事から帰宅し、静まり返った廊下を歩いているときのことだ。ふと、背後に誰かの気配を感じた気がして振り返った。白い壁と無機質な照明に照らされた長い無人の廊下が奥へと伸びているだけだった。天井の蛍光灯が等間隔に白い光を落としているが、人の気配のない空間ではその光さえ冷たく無機質に感じられた。もちろん、視界の先には誰の姿もない。気のせいかと自分に言い聞かせて部屋のドアを開け、中に入る。ドアを閉めた直後、ほんの一瞬だけ遠くの方で扉がそっと閉まるような音が聞こえたような気がした。まるで私が入室するのを見届けてから、誰かが自分の部屋に戻ったかのように。


「気のせいだろう」そう思おうとして、嫌な予感を振り払った。

 疲れて神経過敏になっているだけだ、と自分に言い聞かせてベッドに倒れ込む。慣れない環境での新生活の緊張もあるのだろう。その夜は布団にくるまりながら、今住んでいるマンションについて思い返してみた。


 ここは築年数こそ多少経っているものの管理は行き届いており、毎朝エントランスや廊下は清掃されている。管理人の男性は初老で物静かな人物だ。小柄で細身の体格に薄いグレーの作業服を着ており、顔立ちは穏やかで優しそうに見える。入居の日に挨拶したときには穏やかな笑みを浮かべ、「何かあればいつでも言ってください」と柔和に声をかけてくれた。そのときは親切そうな印象を受けたものだ。住人は全部で十数世帯ほどだろうか。私と同じような一人暮らしの若い社会人から、年配の夫婦まで様々だ。ただ、どの住人も必要最低限の会釈以外、親しく言葉を交わすことはない。お互い干渉しない——プライバシーを重んじるこのマンションでは、それが暗黙の了解のようだった。


 私は元々人付き合いが得意ではないし、忙しさにかまけて隣人と親しくなる余裕もなかったから、その距離感はむしろ望むところだった。

 それなのに、最近になってなぜか、その静かすぎる生活に不安を覚えるようになっていた。まるで見えない薄膜が周囲との間に張られているような孤立感。そして、その膜の向こうからじっとこちらを窺う無数の視線——そんなありもしない想像が頭をもたげるのだ。疲れているせいだ、と思う一方で、一度芽生えてしまった疑念はなかなか消えてくれなかった。本来、静寂を好んで選んだ住まいのはずが、安堵どころか言い知れぬ孤独と不安に包まれつつあった。皮肉なことに、一人でいることがこれほど心細いとは思いもしなかった。


 ある日、仕事に出かけようと玄関の扉を開けた時だった。扉の蝶番がきしむ音とともに、かすかな物音が廊下に響いた気がした。隣の部屋の扉がそっと閉まる音——そんな気がしたのだ。しかし、実際に廊下に出てみると、隣室の扉は固く閉ざされたままだった。もちろん誰の姿も見えない。

 不思議に思いながらも、その時は深く考えずにエレベーターへ向かった。エレベーターを待つ間、何とはなしに背後に視線を感じた気がして振り返る。長い廊下の奥、曲がり角になって見えない先から、誰かがこちらを見ているような気がしてならなかった。しかしそこにはやはり何もない。気のせいだろうか。心なしかエントランスに降りるまでの間、背中にひやりと冷たいものが張り付いていた。


 そんな小さな出来事が積み重なっていった。

 夜、部屋でくつろいでいると、廊下から足音が聞こえることがあった。それ自体はおかしなことではない——同じフロアの誰かが帰宅したり出かけたりすることもあるだろう。

 しかし、その足音が妙に気にかかるのだ。私の部屋の前で一旦立ち止まったように思えることが何度もあった。立ち止まって、そしてまた動き出す。まるで私の気配を窺うかのように。ドアスコープから外を伺ってみても、タイミングが悪いのか誰も映らない。もしかするとドアスコープの死角に立っているのではないか——そう考えると居ても立ってもいられない。結局、扉を開けて確かめる勇気も出ず、息を殺して立ち尽くすしかなかった。扉越しに耳を澄ませても、静寂が広がるばかりだった。


 別の日にはこんなこともあった。

 疲れて夜遅くに帰宅し、ポストから郵便物を取ろうとしたとき、中身が半ば飛び出した封筒が混じっていたのだ。ポストに雑に押し込まれていたのかとも思ったが、他の郵便はきちんと収まっている。不審に思って手に取ると、その封筒は明らかに一度開封された痕跡があった。封を閉じるノリの部分が剥がれている。差出人は市役所で、住民票関係の書類だった。重要な書類なのに、配達員がこんな杜撰な扱いをするだろうか?ひょっとして悪戯で誰かが中を覗いたのではないか——そんな考えが頭をよぎった。とはいえ、結局は証拠もなく、ただの想像でしかない。私は気味悪さを覚えつつも、見なかったことにして部屋へ戻った。封筒の中身を確認すると、書類自体は無事で欠けているものもない。ただ、一度誰かの手に渡ったと思うと落ち着かなかった。

 結局その夜は、何度もチェーンロックを確認してからでないと眠りにつくことができなかった。布団に入ってからも神経が高ぶってしまい、わずかな物音にも飛び起きてしまう。廊下で誰かの靴音が響くたびに心臓が跳ね上がり、結局浅い眠りを幾度も繰り返すばかりだった。


 徐々に私は、日常の些細な出来事に過敏に反応するようになっていった。

 例えば、廊下ですれ違う住人の何気ない視線にも、何か含みがあるように感じられて仕方がない。先日エレベーターで乗り合わせた中年の男性住人は、じろりと一瞥をくれただけで挨拶もせずに背を向けた。それ自体は無礼というほどではないし、都会では珍しくもない。しかし、その一瞥がまるで私を値踏みするかのような冷たい光を帯びていたように思えて、胸がざわついた。管理人に至っては、私と顔を合わせるたびににこやかに挨拶をしてくれるものの、その眼光は笑っていないように見えてしまう。時には「お仕事、いつも遅くまで大変ですね」といった声を掛けられることもあった。こちらが何も言わずとも私の帰宅時間を把握しているかのようで、背筋に冷たいものが走る。管理人室には監視カメラのモニターが設置されているのを見たが、もしかすると四六時中それで見張られているのではないか——そんな疑念さえ頭をもたげた。


 最近では、私は用心のために部屋のチェーンロックを常時掛けて過ごすようになっていた。就寝中や留守中どころか、日中でさえ部屋にいる間は常にだ。まるで何かに怯えているようで我ながら馬鹿げていると思うが、それでもそうせずにはいられなかった。外出時も戸締まりをこれでもかというほど確認する。ドアノブを何度も回し、引き抜いてみて、鍵がかかっているか確かめないと落ち着かないのだ。


 そんなある日、私は思い切って会社を休んだ。体調が悪いと嘘の連絡を入れ、一日中自宅にこもってみたのだ。

 理由は自分でもはっきりとは説明できない。ただ、どうしても確かめておきたいことがあった。私が留守にしている間に何か起きているのではないか——そう考えると、居ても立ってもいられなくなったのだ。


 カーテンの隙間から外を窺いながら、私は午前から午後にかけてじっと息を潜めていた。

 平日の昼間だけあって、マンション内は驚くほど静かだった。遠くで掃除機の音がするほかは、人の気配すらない。

 私はソファに腰掛け、本を手に取ったものの内容は頭に入ってこなかった。神経が研ぎ澄まされすぎて、かえって些細な物音にも過敏になっている。冷蔵庫の微かな唸り、壁越しに聞こえる水道管を流れる音……普段なら意識しない生活音が妙に大きく感じられた。自分が何をしているのか、馬鹿げているとも思った。しかし、確かめずにはいられなかったのだ。この不可解な不安の正体を。


 正午過ぎ、孤独に耐えかねて学生時代からの友人に電話をかけてみた。自分の身に起きていることを誰かに聞いてほしかったのだ。

 しかし、電話口でいざ説明しようとすると、自分でも何をどこまで話せばいいのかわからない。結局、郵便物が勝手に開封されていたことや、昨日見知らぬ誰かが部屋に侵入しようとした形跡があったことなどをかいつまんで話し、「正直怖い」と本音を漏らした。友人は驚いて「大丈夫か、それは怖いな」と心配してくれた。

 しかし、電話越しの声はどこか半信半疑にも聞こえる。「疲れているんじゃないか?思い過ごしじゃなければいいけど…」と気遣うように言われ、私は言葉に詰まった。確かにどれも決定的な証拠はないのだ。さらに友人は「念のため管理会社に相談してみたらどうだ?それか、引っ越しも検討した方が……」と提案した。よりにもよって、その管理側こそが疑わしいのだとは言えなかった。私は曖昧に礼を述べて電話を切った。話したことで幾分か気が晴れることを期待していたが、受話器を置いた後に残ったのはむしろ重い孤独感だった。結局、誰にも頼れない——そんな思いが胸に沈んでいった。


 外出する勇気もなく、空腹も感じない。ただ時間だけが過ぎ、夜になった。マンションの廊下や上下階から生活音が微かに聞こえ始め、住人たちが帰宅していることがわかった。

 それら一つ一つが、今の私には脅威の予兆に思える。隣の部屋でドアが閉まる音さえ、この部屋の前に誰かが立ったのではないかと不安になる。壁越しにテレビの笑い声が聞こえれば、自分が嘲笑われているのではないかと感じてしまう。神経を尖らせすぎて、何もかもが疑わしく思えてくるのだ。


 それから数日間、私は極力周囲と関わらないようにしながら過ごした。

 用事で外出するときも、誰とも顔を合わせないよう細心の注意を払った。エレベーターは使わず階段を利用し、廊下で人の足音が聞こえたら物陰に身を隠してやり過ごすほどだった。

 それでも管理人だけは避けようがない。毎朝エントランスを通る際、管理人室から彼が出てきて挨拶をしてくる。私はぎこちない笑みで会釈を返すのが精一杯だった。相手はそんな私を不思議そうに見つめていたが、それすらも何か裏があるのではと疑ってしまう。あの日以来、管理人の穏やかな笑顔もどこか作り物じみて見える。裏で何を考えているのかわからない。そう思うと薄気味悪くなった。


 そんな中、決定的と言える出来事が起きた。


 ある晩、コンビニへ買い出しに行って部屋へ戻る途中のことだった。

 普段から人の気配などしない静かな廊下に、珍しく小声の話し声が響いているのが耳に入ったのだ。それは階段の踊り場付近から聞こえてくるようだった。

 私は足音を忍ばせ、壁越しに様子をうかがった。


「……三階の彼、最近様子がおかしいんじゃないか?」

「ええ。顔色も優れないし、挙動不審というか……」


 心臓が大きく跳ねた。

 間違いない、私のことを話している。声の主は管理人と、聞き覚えのある女性の声——向かいの部屋に住む主婦だ。二人は私の知らないところで私の様子について話し合っていたのだ。息を呑んで耳を澄ます。


「何かトラブルを起こされても困るし、注意した方がいいかもしれませんね……」と管理人がくぐもった声で言う。

「ええ、この前も夜中に廊下で物音がしましたし……少し気味が悪いわ。監視しておいた方がいいわね」主婦の女はぞっとするような冷たい口調で答えた。


 監視——今、そう言ったか?私は思わず壁に手をついて体を支えた。がくがくと膝が震えだす。やはり、やはり彼らは私を監視しているのだ!廊下の隅で立ち尽くしていると、不意に話し声が途切れた。

 しまった、気配に気付かれたのか。私は慌てて足音を忍ばせ、自室のドアへと急いだ。しかし運悪く、その途中で管理人と女性が姿を現した。彼らは一瞬ぎょっとしたように私を見つめ、それから管理人が先に笑顔を作って近づいてきた。


「こんばんは。随分遅いお帰りですね」

「……こんばんは」私はかろうじて声を絞り出した。胸の鼓動が早鐘のようだ。耳に残る“監視”という言葉がこだまする。私は二人の顔を直視できず、足早に自分の部屋へ向かった。背中に管理人の視線をひしひしと感じる。女性の方も、何か言いたげにこちらを見ていたが、私は逃げるようにその場を離れた。部屋のドアを閉め、チェーンを掛けてからも、しばらく心臓の高鳴りが収まらなかった。盗み聞きしていたことが知られたかもしれない。

 しかし、もはやそんなことは些細な問題だ。彼らが陰で私を“監視”していると話していた——その事実だけで十分だった。


 確信は恐怖へと変わり、理性を吹き飛ばした。

 もはや私は完全に疑心暗鬼の渦中にあった。マンションの誰も彼もが私を監視し、嘲笑い、弄んでいる——そんな妄想が頭を支配する。いや、妄想ではない。現に彼らはそう話していたのだ。私の一挙一動がどこかで監視されているとしたら? 壁の向こうで、天井の上で、いつでも誰かが目を光らせているとしたら?


 私は部屋の明かりを全て消し、カーテンの隙間から外を窺った。夜の闇の中、廊下は非常灯の薄明かりに照らされて静まり返っている。だが、どこかに人の気配が潜んでいるのではないか——そう思うと、

 一瞬たりとも気が抜けなかった。私はキッチンから包丁を取り出して手に握り締めた。自分でも馬鹿げているとは思う。しかし、こうでもしなければ不安で気が狂いそうだったのだ。

 部屋の明かりは全て消してある。暗闇の中で耳を澄ましていると、自分の鼓動や荒い呼吸の音ばかりがやけに大きく感じられた。時計の秒針が刻む音さえ耳につき、一分一秒が途方もなく長く思える。建物が軋むかすかな音ですら、人が忍び寄る足音のように思えて胸が竦んだ。


 やがて午前零時を回った。

 普段なら深夜には物音ひとつしないはずの時間帯だ。しかし私は、確かに聞いたのだ——廊下で誰かが話している声を。抑えた声で何か指示を出すような、男の低い声。そして複数の足音。私の部屋の前で止まった。心臓が張り裂けそうなほど脈打つ。

 息を潜め、耳を澄ますと、コンコン、とノックの音がした。二度、三度……。小さなノックだったが、この静寂の中ではひどく大きく聞こえた。私は恐怖で声も出せず、ただ震えていた。ドアの向こうで管理人の声がした。


「田中さん、いらっしゃいますか?」


 穏やかながら緊張をはらんだ声色だった。

 私は返事をしなかった。ドア一枚隔てた先に管理人がいる——そう思うだけで膝が笑い、床に崩れ落ちそうになるのを堪える。するとドアノブがゆっくりと回された。チェーンが掛かっているため開かないが、金具がガタガタと震える音が部屋に響く。

 やはり入って来ようとしているのだ!私は喉の奥で細い悲鳴を上げ、ドアからできるだけ遠ざかった。


「大丈夫ですか? 田中さん、返事をしてください」管理人が呼びかける。まるで私を気遣うような口ぶりだが、信じられるはずもなかった。背後には他の住人たちの気配も感じる。ひそひそと囁く声、押し殺した笑い声……それらがすべて私を嘲笑っているように思えた。私は耳を塞ぎ、ただ時間が過ぎ去るのを待った。

 やがてノックも声も止み、静寂が戻った。


 どれほどそうしていただろう。

 気が付けば窓の外が白み始め、小鳥のさえずりがかすかに聞こえていた。私は丸一晩震え続けていたのか、体は酷く強張り、関節という関節が痛んだ。顔を洗おうと洗面所に立つと、鏡の中に映った自分の姿に息を呑んだ。目は血走り、顔色は青白い。ひどくやつれたその顔はまるで別人のようだった。

 夜が明けたことで少しだけ安堵したものの、頭は朦朧としている。結局一睡もできなかった。立ち上がろうとしてふらつき、壁に手をついてなんとか体を支える。

 カーテンをそっと開けると、朝の光が差し込んできた。穏やかすぎるほど静かな朝だった。昨夜のあの悪夢じみた出来事が嘘のように、廊下からは何の物音もしない。


 私は意を決し、恐る恐るドアのチェーンを外した。静かな廊下に顔を出す。昨夜あれほど感じた人の気配は嘘のように消え去っていた。

 人気のない廊下、いつもと変わらない朝の空気。しかし私の中の緊張は解けない。何事もなかったかのように振る舞わなければ——そう自分に言い聞かせ、玄関を出た。

 エレベーターへ向かおうと数歩踏み出したところで、不意に背後から声をかけられた。


「おはようございます」


 はっとして振り返ると、管理人がにこやかに立っていた。いつからそこにいたのか、私が部屋を出たことを見計らったようなタイミングだった。私はぎくりとしながらも、なんとか挨拶を返す。


「……おはようございます」声が強張ってしまう。

 管理人は相変わらず柔和な笑みを浮かべているが、その目がじっと私を観察しているのに気付いた。


「昨夜はどうなさったんですか?」管理人が尋ねた。「ノックしたんですが、ご在宅でしたよね。お具合でも悪いのかと心配しました」


 喉が引きつる。昨夜、やはり管理人はドアの向こうにいたのだ。私は慎重に言葉を選んだ。

「すみません…昨夜は眠っていて、気付かなかったもので」震えそうになる声を必死に抑える。管理人は笑顔のまま軽く首を傾げた。


「そうですか。ならいいんですが…」どこか含みのある言い方だった。

 気のせいか、その眼差しには薄い不信感のようなものが宿っている。

「何かお困りのことがあればいつでもお知らせくださいね」


「ええ…ありがとうございます」私は視線を逸らしながらそう答えるのが精一杯だった。

 管理人の言葉は一見すると親切なものだが、その裏に別の意味が隠されているように感じてしまう自分がいる。

「いつでもお知らせくださいね」——まるで常にこちらの事情を把握していると言外に示しているようではないか。私は早くこの場を離れたい一心で、「それでは失礼します」と足早にエントランスへ向かった。背中に管理人の視線を感じる。振り返ると負けになる気がして、そのまま前だけを見て歩く。


 外へ出ると、朝の眩しい陽射しが容赦なく降り注いだ。私は思わず目を細める。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、心を落ち着けようとする。外の世界は何も変わらない日常だ。車のエンジン音、人々の話し声、遠くで響く工事の音——すべてが現実味を帯びて聞こえる。まるで昨夜までの狂気が自分の中だけの出来事だったかのように。


 しかし、私は知らず知らずのうちに背後を振り返っていた。そこには先ほど別れたばかりのマンションのエントランスがある。

 ガラス張りの扉の向こうに、人影が立っていた。管理人だ。こちらを見ているのかどうか判然としない距離だが、私には彼がじっとこちらを見つめているように思えた。逆光で表情はわからない。ただ、彼の姿はまるで建物そのものが目を持って私を見張っているかのように感じられ、私はぞっとして視線をそらした。

 心臓の鼓動がまた速くなる。外に出られたというのに、まだ見えない鎖であの建物につながれているように感じた。やはり私は監視されている——? それとも、これも思い過ごしなのか?


 わからない。何が現実で何が妄想なのか、もはや自分でも判断がつかなくなっていた。ただ一つ確かなのは、あの閉ざされたマンションに戻る足がどうしても重いということだった。玄関の自動ドア越しに、まだ管理人の影がこちらを見ている気配がする。私は足早にその場から立ち去った。街の雑踏へ紛れながら、背後に突き刺さるような視線の記憶が頭から離れなかった——それがたとえ自分の妄想に過ぎないのだとしても。




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