序
彼岸過ぎの風は仄かな涼やかさを帯びつつあった。
その記者は、ネオ鎌倉の外れに在る庵へと向かっていた。
鶴岡八幡宮の傍を抜けて建長寺方面へと歩みを進め、その途中の小径へと足を踏み入れる。
人がすれ違えるくらいの小径の脇には苔生した石仏がポツポツと並んでいて、星霜を経た曖昧な微笑みをその顔に浮かべていた。
質素な冠木門の前へと辿り着いた記者は、「御免下さい!」と声を上げる。
秋風が柔らかに吹き抜けて緑も褪せつつある木の梢をさわさわと揺らす。
一昨日に髪結所にて剃り上げた月代へ冷ややかさが沁み入るように思えてしまい、記者はぶるりとその身体を震わせる。
下駄の音をからころ響かせながらひとりの尼僧が姿を現す。
白い頭巾から覗く面相は古寂びた庵とは不釣り合いなまでの瑞々しさを湛えていた。
おそらくは二十代の半ばなのだろう。
然れど、その表情は柔和な諦念を浮かべているようであって、道すがら目にした石仏の佇まいを思い起こさせるものであった。
「ようこそおいで下さいました」
その目をやや伏せながら挨拶の言葉を口にする尼僧。
「いえ。唐突にお邪魔してしまって申し訳ありません」と言葉を返す記者。
そして彼は、尼僧に導かれて庵へと足を踏み入れる。
庵は尼が独り住まうには十分な広さであって、庭に面した仏間には一抱えほどある盧舎那仏が安置されていた。
記者に座布団を勧めてから尼僧は姿を消す。
彼は手持ち無沙汰気味に庭の様を見遣る。
手狭であるものの丹念な手入れが為されたその庭では早くも紅葉が色付き始めていて、虫の声が心細げに響いていた。
「お待たせ致しました」
柔らかな声音と共に尼僧が姿を現す。
その手には、湯飲みを載せた盆が捧げ持たれていた。
記者は差し出された盆の上から湯飲みを受け取る。
芳しい番茶の薫りが薄らと立ち昇る湯気と共に鼻孔を擽る。
「これは重畳!」と礼を述べた彼は湯飲みへと口を寄せる。
ほろ苦い味わいの中には微かながらも香味が漂っているようであって、彼はやや小首を傾げる。
「少し、変わった味わいでございましょう?」
悪戯めいた尼僧の声が響き来る。
「はい……。些か角の立った香りを孕んでいるようで。
何とも物珍しく、お茶の味わいを緩急あるものにしているようで」
その顔に曖昧な笑みを浮かべた尼僧は、こう口にする。
「このところ急に冷え込んで参りましたので、お身体を暖め血の巡りを促す漢方を僅かでございますが含めております」と。
お心遣い痛み入りますとの記者の言葉に心持ち頭を垂れた尼僧は、今度は問い掛けの言葉を口にする。
その鼻をひくつかせながら。
「嗚呼……、実に芳しき鬢付油で御座いますね。
この秋の新作で御座いましょうか?」と呟くように問い掛ける尼僧の顔は、微かながらも陶然の色を帯びつつあった。
「ご明察! 如何にもご察しの通り、秋の新作のフレグランス鬢付油にて御座います。
一昨日にネオ青山の直営髪結所にて贖って参りました」と、記者は言葉を返す。
「矢張り、あの御方のプロデュースなので御座いましょうか?」と、やや急いた様にて尼僧は問う。
「左様、伊勢屋様がプロデュース為さった逸品にて御座います。
店の前は伊勢屋様に焦がれる善男善女で溢れ返っておりました。
それはもう、ネオお伊勢参りのような活況で」
「ふぅ……」と吐息を漏らす尼僧。
それは恰も胸中に湧き上がりつつある情念が自から溢れ出たかの如き響きであった。
記者は飲み終えた湯飲みを傍らへと置き、携えていた風呂敷からタブレットを取り出して取材の準備を為す。
それから尼僧へと語り掛ける。
「然れば、貴僧が目の当りになされた伊勢屋様のご活躍の有様についてご教示賜りたく」と。
尼僧はその眼差しを庭へと向ける。
夕に差し掛かる頃であって、庭を照らす陽はやや力を喪いつつあるようであった。
然れど、未だに隠然とした熱を湛えているようでもあり、その様は尼僧が胸中に抱く波乱に満ちた日々の想いを暗示しているようにも感じられた。
「拙僧が伊勢屋様と相見えたのは、かれこれ三年ほど昔のことになりましょうか……」
そう語り始めた尼僧の眼差しは、しっとりとした熱を帯びつつあるようにも感じられた。
時は西暦202X年。
これは、新たなる丁髷時代の物語。
丁髷の艶やかさ、そして醸す鯔背さが男のステータスとしてアッピールされる時代の物語。
それは、『ネオ元禄時代』とも呼ばれる華やかなりし時代の物語。
華やぎに満ちた時代であろうとも、社会の片隅に闇は在り、その中にて悪は密やかに蠢いているのだ。
世が華やかなればこそ、其処に潜む悪の影もまた色濃くあるのが世の定めなのであろう。
そして、その悪を糾す者の猛々しさもまた艶やかなものになるのであろう。
これは、華やぎと闇に満たされた『ネオお江戸』の夜を駆け抜ける丁髷英傑・伊勢屋清輝が繰り広げるバイオレンスでデンジャラス、そしてスタイリッシュな丁髷活劇である。
暫し、お付き合い賜れたら重畳である。