第5章
そこは広尾の小さなスペイン料理のレストランだった。格式ばらないカジュアルな雰囲気の二十人も入れば満員になるようなこじんまりしたお店だった。チーク材なのか渋みのある茶色の木目を活かしたテーブルや椅子などのインテリアが自然な風合いを出し気分をなごませてくれた。
「はーい、八雲さん、ようこそ。これからも楽しくやっていきましょう。かんぱーい」かおるちゃんが威勢のいい声を出して音頭を取ってくれた。企画部の渡辺課長と課員のかおるちゃんに榛名由紀さん、寺田健一さんの三名、そして所長秘書の弓波真子さんと合計五名が僕の歓迎会に参加してくれた。前の職場は課だけで五十名近くの人がいて、いつも会社の宴会は庶民的な居酒屋の部屋を借り切って大勢で行うのが普通だったので、こんな風にしゃれたレストランで少人数でする飲み会が新鮮だった。
「かおるさんはこの店によく来るんですか?」
「よくって程でもないけど、これで三回目かな。スペイン料理って気楽な感じで好きなの。ここのタパスは美味しいし」僕は目の前に置かれたオムレツをつまんだ。オムレツと言ってもスペイン風なので、具材を入れてフライパンいっぱいに卵を重ねるように焼いた分厚いもので、中の具材にポテトと人参が入っていた。その分厚い卵の塊がショートケーキのように三角に切られてお皿に載っていた。口に運ぶとホクホクと柔らかい食感と薄めの味付けが美味しかった。
「うまいですね。僕、スペイン料理ってあんまり食べたことがないので初めて経験する味です」
「ね、美味しいでしょ。他にもいろんな具材のアヒージョや、最後にはパエリアも来るから食べてみて」
「アヒージョなんて食べたことないですよ」
「あんまりレストランとか行かないの?」かおるちゃんが訊いた。
「行きますけど、居酒屋とか和食の方が多いかな」
「そんなんじゃ女子にもてないぞ」渡辺課長が突っ込んできた。
「えーそんなことないですよ。和食もいいじゃないですか」秘書の真子ちゃんがフォローしてくれた。
「そうよ、次は和食の店にしましょう。八雲さんいい店知らない?」かおるちゃんが僕に振ってきた。
「いやー、僕は皆に紹介できるようなお店は知らないです。よく皆で食べに行くんですか?」
「うん、月に一回位、こうやって皆で出歩くの。会社だけじゃ、面白くないじゃない。真子とかいいお店よく知ってるし」
「いやいや、かおるには負けますよ。そういえばこの前、寺田さんが連れて行ってくれたベルギービールのお店もよかったよね」
「あそこのムール貝の白ワイン蒸し、美味しかったでしょ。また行こうよ」寺田さんは黒縁の眼鏡の下にきりっとした細面で、ジャケットの似合う三十歳位の好男子だった。こういう着こなしをしている人も前の職場にはいなかったな、と思った。
「いいですね、皆でこうやって仲良くやってるのは。前の職場ではこんなおしゃれなお店に来るようなことはなかったですよ。飲み会といえば、駅前の居酒屋とかでしたから」
「私も去年までは社長秘書室にいたのね。そこもこういう気楽な食事会とかはなかったからね。そういう意味ではこの職場は楽しいわ」かおるちゃんが社長室の秘書をしていたとは知らなかった。
「真子も同じフロアで専務の秘書してたの」
「へー、すごいですね。本社の最上階ですよね。あんなところに上がったことないですよ」
「質問していいですか? 八雲さんってまだ独身ですよね。どんな女性が好みですか?」真子ちゃんがからかうような笑顔で早速鋭い質問をしてきた。
「不躾にそれ聞いちゃう?」そう言いながら、かおるちゃんも興味津々という目つきで手を叩いて喜んでいた。
「いや、好みって言われても、言葉じゃうまく表現できないな。趣味というか波長が合って話が楽しい人がいいですね」
「そりゃあ、話が合わないとね。何が趣味なの?」
「映画とか観るのが好きです」
「じゃあ、由紀と気が合うんじゃない。由紀、映画好きだから」
「え、私ですか?」榛名由紀さんは口数が少なく今までずっと笑顔で話を聞いていただけだったが、真子ちゃんに話を振られ口を開いた。
「映画ってどんなのが好きなんですか?」かおるちゃんが聞いてきた。
「色々観ますけど、古い映画とか好きです。大体、いい映画に出会うとその監督を追っかけるんです。学生時代にはまったのはヒッチコックですね」
「ヒッチコック? 知らなあい」真子ちゃんは古い映画には興味がないようだった。
「ヒッチコック、いいですよね。『白い恐怖』とか私も好きです。真子さん、『サイコ』って知らないですか?」榛名さんがヒッチコックに反応してくれてちょっと嬉しかった。
「『サイコ』?聞いたことあるかも」
「ほら、LAのユニバーサルスタジオにも家があったじゃない、丘の上に」帰国子女の真子ちゃんとかおるちゃんは二人ともアメリカのLAに住んでいたことがあるとのことだった。
「あーあったかも」真子ちゃんが思い出しているのか目を上に向けながら言った。
「ヒッチコックはサスペンス映画の神様って言われる監督じゃない。俺も一通りは観たよ。展開がハラハラドキドキするよね」渡辺課長も乗ってくれた。
「後、女優さんがきれいですよね。グレース・ケリーにイングリッド・バーグマンとか」榛名さんが言った。
「僕、イングリッド・バーグマンが一番好きな女優なんです。憧れです」
「ちょっとイングリッド・バーグマンみたいな美女の彼女を探してないでしょうね。それは難しいよ」かおるちゃんが突っ込んできた。
「別に彼女にって訳じゃなくて、単なる憧れです」
「今は彼女いるんですか?」真子ちゃんが更に突っ込んできた。
「え? まあいないわけじゃないですけど……」
「どんなタイプ。年は?」
「まあ、いいじゃないですか。ご想像にお任せします」
「ちぇ、つまんないの」
「八雲さん、気を付けた方がいいよ。真子ちゃんにばれちゃうと会社中に広まるから。スピーカーって呼ばれてるんだから彼女」寺田さんがにやけた顔で僕に言った。
「寺田さん、ひどい。そんなにおしゃべりじゃないですよ、私は」
「真子も、来た早々八雲さんを突っ込まないで。職場が嫌になって辞めちゃうよ」かおるちゃんがフォローしてくれた。
「大丈夫です。楽しいですよ」僕はこの打ち解けて会話を楽しむ雰囲気が好きになった。