第1章
登り坂を歩くのは暑かった。なんで朝からこんなに暑いんだ、ちくしょう、と思いながら道の端の日陰を選びながら坂を登った。僕の新しい職場は駅から十五分程歩く小高い丘の上にあった。前の職場に通う道にはこんな登り坂はなかったので、この坂は異動した後のネガティブポイントだった。
「おはようございます」玄関に立つ警備員に挨拶しながら会社に入った。僕の職場は社屋の中でも一番古い建物にあった。その建物は会社の成長に合わせてつぎはぎのように建て増しされたので、中の通路はまるで迷路のように分かりにくかった。三階に上がって迷路を彷徨ようと奥まったところに職場はあった。異動したての頃はどの道を行けばいいのか迷ったが今ではまっすぐ迷わずに玄関から数分で職場に着くことができた。
「おはようございます」
「よっ、おはよう」端の席に座っている渡辺課長が挨拶を返してくれた。
「おはようございます」隣にはかおるちゃん、鏑木かおるが座っていた。この大きな会社で会った女性の中で一番の美人だと僕は思っていた。既に旦那さんがいると聞いたときは恋愛の対象にはならないのかとちょっと残念だった。
「今日、十時から部内ミーティングですよ」かおるちゃんが笑顔で教えてくれた。
「はい、昨日、課長からも聞いたよ。とは言っても何にも用意してないけど大丈夫かな」
「大丈夫ですよ、まだプロジェクトが具体的になってないから。八雲さんはまだ先週、来たばかりだし」
「はい、了解」
僕、八雲まことは、この職場に先週、異動してきたばかりだった。1992年の夏、僕はまだ携帯電話なんていうものは持ってなく、一部のエンジニアが電子メールを使い始めていたが、将来、インターネットで生活が変わるなんて想像もできていなかった。ここは商品ラボと呼ばれ、組織変更で半年前に作られた部隊だった。会社自体は既に社員数万人もいる電気メーカーの大企業だったが、大きい組織では生まれにくい新しい発想の商品を開発するという趣旨で設立された組織だった。所長を任された錦戸博さんという取締役は、今迄に多くのヒット商品を開発し市場に送り込んできたやり手だった。
「僕はこの組織には百名以上のメンバーを入れるつもりはない。少数のメンバーで自由な発想で皆に開発してもらい商品を作り上げたいんだ」僕が異動してきた初日に錦戸さんはそう語った。僕は先週、新たに補強された十名のメンバーの一人だった。僕は既に大きな事業を担う商品の設計部隊の一員として五年間ほど働いていたが、この組織の存在を知り、新しい商品にチャレンジしたいと思い志願してここに異動してきた。配属先は企画部だった。開発テーマを企画したり選考をするラボのブレインに当たる部署だった。僕には今まで経験したことのない職種で不安はあったが、商品の元になるテーマを企画することにやりがいを感じていた。年もまだ三十歳と若かったのでやれば何でもできるという自信も心の中にはあった。
「この前、所長のところに紹介があったんだけど部品開発部が小型のアクチュエータを開発したらしいんだ。それで所長からそのアクチュエータを利用した商品を検討してくれという話がきた」企画部の部長の尾上さんが部ミーティングで語った。
「そのアクチュエータってすごいんですか?」渡辺課長が聞いた。
「実は俺もよく知らない。八雲君さ、最初のテーマとしてちょうどいいと思う。ちょっと調べてみてよ。資料や連絡先は後で渡すから」尾上さんが僕を指名した。
「はい、わかりました」僕にはいいのか悪いのかよくわからなかったが、部長からの指示だからまずは引き受けるしかなかった。
「所長の指示だからしょうがないけど、僕はあんまり技術から企画するのって好きじゃないんだよな。それをやっていると、今できることからしか発想ができないからな」渡辺課長がミーティングを終わった後、歩きながら僕に話してきた。
「でもユニークな技術ならヒトにできないことができますよね」新入りが生意気と思われるかとも思ったが反論してみた。
「ほんとにユニークならな。でも社内の開発ってダメなことも多いから」
「そうなんですか?」
「そんなに研究開発に費用をかけていないから、うちは。まあ、まずは確認してみて」
「はい」