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咲希が私を追いかけて来ることもなく、その後は一人で家に帰り着いた。
何となく、置いて行かれるのを嫌がっていたから付いてきちゃうかもと思ったけれど、お店に残ってあの子と話すことにしたのだろう。
少し時間は早いけれど、夕食の準備に取り掛かる。
今夜のメニューは咲希のリクエストでハンバーグに決めてある。
買い物も足りないものを揃えに行ったようなものだから、たいした荷物じゃなかった。
咲希の席から奪うように持ってきた買い物袋を開きながら、溜め息が漏れる。
やっぱり、あの子は咲希に好意を抱いていた。
最後に聞こえた言葉でそう確信した。
でも、それと同時に感じた居心地の悪さは何だろう。
振り切るように速足で家まで来たけれど、帰り着いた時より胸が苦しい。
この苦しさが、息苦しさだけじゃないことも分かっている。
咲希に好きな子を作って欲しいと思ったのも、今が良い機会だと思って実行したのも私だ。
それなのに、親しげに会話する様子に嫉妬するなんて。
自分がどうしたいのか分からない。
痛む胸を押さえて、キッチンの壁に背中を付ける。
この気持ちを、整理しなきゃいけない。
じゃないと、咲希と顔を合わせられなくなってしまう。
咲希が帰ってくる前に何とかしなきゃ。
そう焦る気持ちを落ち着けるために、ふうっ、と一息吐いて目を閉じた。
私の気持ち、苦しい理由。
それは、可愛がってきた弟を、見知らぬ女の子に取られたくないって、そんな独占欲だろうか。
それとも、私も咲希を……?
……ううん、そんなはずはない。
ついこの前まで大切な弟で、恋愛感情なんてあるはずもない存在だった。
確かに、最近は妙に距離が近くて落ち着かない気持ちになったこともある。
男の人らしい体つきになっていることを見せつけられて、変に意識してしまったのも事実だ。
だからといって、告白された途端に好きになるとか、そんな単純な感情なはずがない。
そう簡単に今までの関係性が消えてなくなる訳がないのだから。
咲希が帰ってきたのは、日が落ちて、せっかく用意していた料理も冷め切った頃だった。
「お帰り」と迎えた私の顔には、笑みを張り付けている。
気持ちの整理はついていない。
咲希を待っている時間が、実際に過ぎる時間以上に長く感じられて。
寂しいとか、苦しいとか、恋しいとか。
色んな感情がぐるぐると溢れてきて。
好きの種類を鑑みる余裕なんて、今は無かった。
私が居なくなった後、あの子と何があったのかは知らない。
今までずっと一緒だったのか、すぐに別れたのかも。
気にはなったけど、聞く気にはなれなかった。
色々考えることに、疲れてしまったから。
咲希は咲希で、帰宅早々、不機嫌なのを隠そうともしない表情と態度。
そのままの様子でご飯を食べ、帰りを待っていた私はその態度にイライラし、会話もなく食事を終えた。
咲希の不機嫌な理由は知らないけれど、何も私が不安定な時じゃなくてもいいのに。
心の中にある不安とか、咲希への定まらない気持ちを、───自分でも知らない私を晒してしまいそうで、怖かった。
それが、私と咲希の間に、今とは違う溝を作ってしまうと分かっているから。
これ以上、咲希との間に築いてきた関係を壊してしまうのは嫌だった。
例えそれが、ほんの少し動いた先で形を変えてしまうほど、危ういものだと分かっていても。
「風呂、空いたぞ」
背後からそう声を掛けてきた咲希は、お風呂上り。
また、裸同然の格好でキッチンに入ってきた。
それに気付いていたから、食器の片付けを口実に、背を向けたまま無言で頷く。
しばらくそのままでいると、溜め息が聞こえてきた。
それでも振り向かずにいると、今度は舌打ちの音。
それと同時に、咲希の気配をすぐ近くに感じる。
ふと、咲希の手が肩に置かれて、振り払う間もなく振り向かされた。
「何で無視するんだよ」
思ったより近くにいた咲希の顔は、真剣だった。
その追い詰めるような視線に何も言えずにいると、更に苛立つ咲希。
肩を掴む手にも力が入っていて、痛い。
「さっきだって、あんな女と二人にして、どういうつもりだよ」
言われて、咲希がずっと不機嫌だった理由も思い当たる。
良かれと思ってそうしたけれど、わざと女の子と二人にした私の狙いに咲希も気付いていて、それが気に入らなかったのだろう。
あんなに打ち解けたように話していたくせに。
あの時の二人の様子を思い出して、また嫉妬のような気持ちが蘇って、胸がむかむかする。
その感情をぶつける様に咲希を睨み返すために見上げると、そこには泣きそうな顔があった。
「俺の気持ち分かってて、あんなことするなっ」
「っ、ごめん……」
咲希の傷付いた表情が、罪悪感を私に突き付けてくる。
耐えきれずに俯くと、不意に温かな体温に包まれた。
それが咲希の体温だと───抱き締められていると気付いた時には、そこから動けなくなっていた。
咲希の息遣いや鼓動が、触れている場所から直に伝わってくる。
穏やかで、でも熱いくらいの温度。
不思議と恥ずかしさより、許されているかのような安堵を感じた。
客観的に考えれば、咲希に抱き締められ、肌に直接触れているこの状況は、顔から火が出る程恥ずかしいと思う。
きっといつもの私なら、間違いなく赤面し、突き飛ばしているはず。
そうしないのは───出来ないのは、独りの時に感じた不安や寂しさのせいもあるのだろう。
咲希が帰ってくるまでの間、色んな事を考え過ぎてしまったから。
安堵のためか、罪悪感からかは自分でも分からない。
理由もなく、涙が流れた。
それに気付かれないように、咲希との間に少しだけ隙間を空ける。
その僅かな距離さえ埋める様に、咲希の腕に力が入り、更にきつく拘束された。
「もう、俺の気持ちから逃げるな」
吐き出すように呟かれた言葉に、ドキリと胸が跳ねる。
そう、きっと私は逃げていた。
咲希の気持ちからも、自分の心からも。
咲希のことを考えるのに、悠都の存在は避けて通れない。
私は、悠都への気持ちを考えるのが怖かった。
流されるように婚約してしまった気がして。
今でも心から好きだと、自信を持って言えるか分からなくて。
逃げ道を塞いでくれた咲希に、しっかりと頷く。
逃げても、誰も幸せに出来ないと気付けたから。