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「咲希ー、まだ出ないのー?」
なかなか浴室から出てこない弟に、扉の外から声を掛ける。
昔から長風呂だったけど、最近更に長くなった気がする。
ストレス解消だなんて言っていたことがあったけれど、本当だろうか。
咲希は就職組で、秋以降じゃないと本格的な就職活動は出来ない。
まだ夏休みに入ったばかりの今の時期、候補の会社をネットで調べたり、その情報をもとに高校の担当職員に相談したりと、下準備程度のことしか出来ないはずだ。
私もそうだったから、咲希の状況はよく分かっている。
それとも、就職や勉強とは別の悩みなんだろうか。
無駄に大人びていて自分の中に溜め込んでしまう咲希は、普段から私を頼ってくれない。
思春期のせいもあるのかもしれないけれど、自分のことをなかなか話したがらない弟に、いつも勝手に不安になる。
うんうん唸っている自分に気付いて、ハッとする。
これじゃ、子どもの心配をする母親だ。
「はあ……」
高校生の子どもなんて、まだずっと未来のことでいいのに。
ふと、影が差して顔を上げる。
「なに溜息吐いてるんだか」
目の前には咲希がいた。
お風呂上がりで、色白の肌色もいつもより少し上気している。
バスケで付いた筋肉が、引き締まった体を作ったのだろう。
普段見ているよりもずっと、がっしりとした体つき。
それが見えるのは、……何も羽織っていないから。
「……っ、咲希……っ、なんて格好してるのっ」
かあっと、顔に熱が籠るのを感じる。
咲希は、腰にタオルを巻いただけのほぼ裸の状態。
以前はこんな風にラフな格好でうろうろしている事がなかったから、見慣れない状況に動揺してしまう。
急に咲希が知らない人になったようで、意識せずに普段通りを装う事は出来なかった。
両親が亡くなってからは、二人で父が遺した家に住んでいる。
お風呂上りに顔を合わせるなんて状況は日常茶飯事。
でも、必ずパジャマなり服を着て出てくるのが彼の習慣だった。
いつからだろう、咲希がこんなことをするようになったのは。
「呼んだのはそっちだろ」
言葉の出てこない私に、呆れた様な咲希の声。
そんな態度を取られる謂れはないのだけれど、私には言い返すような余裕はない。
「ご飯っ、出来てるからねっ」
なるべく咲希の肌を見ないように、視線だけで顔を見上げて伝えると、逃げるようにキッチンに戻った。
最近こういう場面が増えている気がする。
キッチンに逃げ込んで一息吐いてから、そう思った。
ちょっと前には、今とは逆に、私がお風呂場に逃げた。
さっきの格好の咲希が、キッチンに水を取りに来たせいだ。
わざとかどうか私には判断がつかないけれど、心臓に悪いことだけは確か。
咲希を意識してしまい、ぎこちなくなるのは、距離が出来たようで嫌だった。
不意に、血が繋がっていないんだってことを考えてしまうから。
考えたくないのは、私の後ろめたさゆえ。
咲希にいつまでも本当のことを伝えられずにいる私のエゴかもしれない。
両親が亡くなってからは、この家に悠都を連れて来たことはない。
咲希と悠都は外で何度か顔を合わせていて、早く入籍すればいいのに、とも言われている。
だから、咲希が悠都を嫌っていないのは分かっているけれど、何故か招き入れる気になれない。
この家が、今はない家族団欒の思い出そのものだから。
それが悠都であっても、この場所には入って欲しくない。
今では自分の感情の出処を、そう解釈している。
でも、もともと四人で暮らしていたこの家は、私と咲希だけでは広すぎるのかもしれない。
どうしても、暇が出来ると咲希の居場所を探してしまう。
姿を見つければ、別々のことをしながらも同じ部屋で過ごす。
咲希が夏休みに入ったこともあって、その時間は確実に増えた。
私の気持ちが固まったうえで、話そうと思えばいつでも伝えられる状況。
だからこそ、余計に追い詰められている気がする。
口では早く家を出ろ、俺に遠慮するなと言う咲希が、寂しがりなことを知っているから。
結婚を先延ばしにしたのは、そんな弟への気兼ねや心配もあるが、私が、もう少しだけ咲希の傍にいたいと思ったから。
それが、こんな風になるとは思ってもみなかった。
二人きりの家族で、姉弟である咲希との生活はやっぱり居心地良くて、何にも代え難い。
だからこそ、この五年間、一緒に生活してこられた。
でも、同じように咲希にとって居心地良い場所だったかは、正直に言って分からない。
今どきの高校生の男の子。
彼女くらいいてもおかしくないはず。
でも、思い返すと今まで一度も紹介されたことはなかった。
こうして夏休みになっても、たまに男友達を何人か連れて来たり、遊びに行ったり。
私が休みの日は特に、家から出ないことが多い。
そういう私が、休みの日を家事に充てていて、咲希の手伝いを期待しているせいもあるのかもしれないけれど。
それにしたって、今は保護者でもある私に彼女を紹介もしてもらえないことに、少しだけ寂しさを感じていた。
遅くとも、来年の四月の終わりには家を出る私。
この広い家に一人では、咲希だって寂しいはず。
そう思っていたのは婚約前からで。
夕食後、いつもの通りリビングに向かった咲希。
食器を片付けて、私もソファの咲希の隣に腰を下ろす。
どうすれば、この秘密主義の弟から彼女の存在を聞き出せるのか、頭の片隅で考えながら。