恋人の練習なのでという理由で清楚で優しい後輩が寝かしつけてくる。~天使な後輩は辛そうな先輩を癒したい~
「――先輩、寝てますか?」
その声で、うたた寝から目覚めた。
◇
その日は就活からの帰り道、ふらっとサークルの会室へ寄っていた。
就活はうまく行っていない。今日の面接もだめだった。色々な質問を想定して、答えを考えてから向かっているのに、いざ面接の場に立つとすべて頭から抜け落ちてしまう。
疲れる。
都内から電車で帰りながらそう思った。
物事は思うようにうまくいかない。
もし運よく採用してくれる所があったとして、その中で自分が上手くできるとも思えない。
暗い考えが栓も無く溢れてくる。
(会室……誰かいるかな)
家に帰ろうかと思ったが、ふと、サークルの会室に寄ろうかという気持ちになった。
会室に行けば、もしかすると誰かいるかもしれない。
家に一人でいると、暗い気持ちばかりが募ってしまう。
僕は大学で映画研究会に所属している。映画好きで集まっては映画を見たり、それについて話したり、たまには自分たちで映画を撮ったりするサークルだ。
誰かとどうでもいい映画の話で盛り上がりたい。あるいは同じ境遇の奴と、就活の大変さを言いあって嘆いていたい。
そう思って会室に寄った。
……誰もいない。
「……いないか」
時刻は夕方だ。お昼時とかならもっと人も集まるのだろうが、この時間は人もまばらだ。何人かいる時もあれば、誰もいない時もある。今日は後者のようだ。
どっと疲れが襲ってきて、会室のソファにどかりと座った。革が所々剥がれてきている年季の入ったソファだ。
もうここで眠ってしまおうか。どうせ誰も来ないし、別にいいだろう。
誰か来ても、先輩が一人寝ているくらい日常だ。会室の椅子はこのソファだけではないのだし、いくらでも座っていられる。
そう思って、僕は寝る準備を始めた。
と言っても、特に大げさなものはない。スーツを脱いで、イヤホンを付ける。
スマートフォンから気に入っている配信者の動画を選んで、流した。
――『みなさん、お疲れ様です。今日も見に来てくれてありがとうございます』
静かで、透明感のある女性の囁きが耳元に届く。
睡眠導入用の音声を流す動画だった。いわゆるASMRだ。いつも眠る時はこういう音声を流していた。何もないと、暗い事ばかり考えて眠れなくなってしまうから。
――『うん、うん。よしよし。頑張ったね。辛い事は忘れて、ゆっくり眠りましょうね』
聞いてるうちに、意識が徐々に沈んでいく。辛い事は忘れたい。耳元で忘れてと囁いてくれると、自分の中から辛さが薄れていくのがわかる。誰か見も知らぬ人の優しい声が、わずかに安らぎをもたらしてくれる。
ただうまく寝付けない。最近はずっとこうだ。やっぱりここじゃ眠れないだろうか。
その時、会室のドアががちゃりと開けられた。
「――先輩、寝てますか?」
涼やかな声がして、思わず目蓋を開いた。
サークルの後輩、春見伊月が僕を見おろして、申し訳なさそうに肩を竦めていた。
「あ……ごめんなさい。起こしちゃいましたね」
春見は綺麗な女の子だ。さらりと降りる長い髪。細い体。ふわりとした可愛い顔立ち。学年は僕の一つ下。
大人しい雰囲気の優しい子で、サークルのメンバーからは人気があった。というより、色々な所で人気があるようだ。噂で聞いたくらいだが、彼女は一部で『天使』と呼ばれているらしい。それくらい目を惹く容姿の綺麗な子だ。
サークルでも特に女性陣は彼女を大切に囲っていた。曰く、こんないい子を男子に近づけられない! との事だ。顔には出さなかったが、男性陣はみんなしょんぼりしていた。
だから僕も春見と話した事はあんまりない。だいたい彼女の傍には他の女子がいて、その子と喋っている。
一回だけ。彼女が初めてサークルの見学をしに来た時に、ちょうど僕がいて説明をした。たぶんその時が一番長く喋ったタイミングだと思う。
「……忘れ物?」
「その、誰かいるかなと思って」
僕がここへ来たのと同じ理由だ。彼女の方はもう少し、気楽な気持ちで来ているんだろうけど。
「僕も同じ理由で来たんだけど、誰もいないみたいだ。今日は帰った方がいいかもね」
「でも先輩に会えましたね」
急に……距離の近いような事を言われて顔を見上げた。
目が合う。春見は悪戯っぽく微笑むと、僕がテーブルに置いたままにしていたスマートフォンの画面を覗いた。
あ。
「先輩、これは?」
「あー、その……睡眠導入の音声動画みたいな。寝る前に聞くとよく眠れる、ってやつなんだけど……」
「ふーん、そうなんですね……」
ちょっとそういう物を見ている事に恥ずかしさを覚えて、しどろもどろになりながら説明した。春見は特に軽蔑したような様子は無い。大丈夫だろうか。こういうのは、敬遠されがちなイメージがある。
「色々と優しい声をかけてくれるんですね」
「……うん」
「えらい、とか、お疲れ様、とか」
「……うん」
「先輩はこれを聞いて眠ろうとしていたんですね」
「…………はい」
なんだか尋問されているような気分になった。声は詰めてくるようなものではなく、あくまで静かだけど。
「これが無いと眠れないんですか?」
「……まあ、最近はそうだね。寝る前に色々考えちゃうから、そういう適度な雑音があった方がいいんだ」
「それって、私じゃ代わりになれないですか?」
「え?」
急に耳を疑うような事を言われて目を見張った。
春見はどこか照れの見える表情で、小さく笑顔を浮かべていた。
「さっき先輩を起こしてしまったので、お詫びです」
◇
「代わりに……ならない事はないと思うけど」
「先輩、さっき眠そうでしたよね。起こしてしまったので申し訳ないなと思って」
「いや、結局眠れなさそうだったし、わざわざ春見がしなくても」
「いえ、やらせてください。……やりたいです」
そう言う春見に圧されて、睡眠導入の代わりをやってもらう事になった。
しかも、寝るなら自分の家でと言われて、僕の家まで来る事になった。
電車で隣に座る春見は深呼吸したり、よし、とか呟いている。
たぶん春見は、ASMRみたいな動画にはそんなに詳しくない。
さっきの動画を見て、何をイメージしているんだろう。
何か高尚なものをイメージしているのだろうか。
考えている間に家に着いた。シンプルな一人暮らしの部屋だ。軽く部屋を掃除してから、春見を中にあげた。
「わ……ここが先輩のお部屋なんですね」
「うん、まあ……そういう事になっている」
自分の家に異性がいる事が見慣れなくて、なんとなく変な言い回しをしてしまった。
一応サークルのメンバーで集まって飲もうとなった時に、ここを場所として提供する時はある。でもその時は同期の女子も男子も一緒で複数人だった。
異性を一人だけ家に招くというのは初めてだ。
自分の家に可愛い女の子がいて、興味深そうに部屋を眺めているのを見ると不思議な気持ちになる。
「その辺、適当に座ってて」
「はい。……あ、いえ、違います。それじゃだめです」
「え?」
「先輩が私に気を使わなくていいんです。今日は私が先輩を寝かしつけるために来たんですから」
春見は気合を入れるみたいに胸の前で両手の拳を握っていた。
「先輩、寝る前にシャワーとか浴びますか?」
「え、まあ」
「では浴びちゃってください。私、ベッドを整えています」
ぐいぐいと背中を押されて、強引にシャワーを浴びさせられた。着替えて戻ると、布団が綺麗に敷かれている。布団の隣で、正座の春見が歓迎するみたいに両手を広げていた。
「お布団を用意しておきました。さあ先輩、ごろんしてください」
「ごろんはいいんだけど……本当にやるの?」
「本当にやります」
まったく引く様子の無い春見を見て、ここまで来て今更という感じではあるけど、躊躇いが出てくる。このままやらせていいのか。
「春見、もし無理をしているようだったら……」
「無理なんてしてませんよ。本当は、学校で先輩を見るたびに、何かしてあげたいなって思ってました」
「……そうなの?」
……あんまり納得はしきれなかった。僕なんかに。本当にそんな事を思うものだろうか。
「もし他に理由が必要なら、恋人の練習という事にしてください」
「練習?」
「はい、練習です。恋人なら、そういう事をしても……変じゃないですよね?」
薄く微笑んで、春見が窺うみたいに見つめてくる。
……恋人同士なら別に寝かしつけとか、自由にすればいいと思う。
でも当然だが、僕たちは恋人同士ではない。練習とか、そんな理屈が通るのか?
「先輩、眉間に皺が寄ってますよ。おねむが足りないかもです」
「え」
「ごろんしましょうね。難しい事ばかり考えてると、皺がついたままになっちゃいますから」
そのままなし崩し的に寝かされた。仰向けになって、枕に頭を乗せる。
春見は思っていたより強引だ。いいんだろうか、恋人とか、そうじゃないとか、曖昧なままで。
部屋がなんとなく違って見える。いつも寝ている布団。いつも見ている天井。サークルでたまに見かけるだけの優しくて可愛い女の子。
「私は隣にいますね」
春見は隣で床に寝転がった。腕を枕にして、僕の顔を眺めている。
「目……閉じてもらえますか。見つめられると、ちょっと恥ずかしいです」
「ご、ごめん」
反射的に目を閉じた。布団を被って、目をつむっている。
意図的にか、そうでないのか、これで僕が寝る時の姿勢ができてしまった。
「それじゃあ……寝かしつけをしますから。体の力を抜いてくださいね」
「……ああ」
もうここまで来て断ろうとは思わなかった。なるようになれ。ある程度経った後で、やっぱり難しいね、とか言って帰したらいいだろう。
急に寝かしつけをされて、不眠が解消するわけがないのだ。
まさか即興の寝かしつけで眠れるなんて、そんなわけ……。
「はい……先輩。声は出さなくていいですからね」
さっき目を閉じてから、意識が音に向いている。春見がかすかに動く音とか、息遣いとか。そういう細かい音を拾おうとしている。
「先輩。体とか、触ってもいいですか。軽くなので」
囁くように言われる。
返事をしようとして、声は出さなくていいと言われた事を思い出して、小さく頷く。
「いつも先輩は体に力が入ってますよね。今から力が入っていそうな所を触るので、触られたら先輩はそこから力を抜いてください」
催眠みたいだなと思う。そういうタイプのASMRもある。普段、そういうものはあんまり入り込めずに聞かない。たぶん今もそれで眠るのは難しいんじゃないだろうか。
「まず、肩からです」
とんと布団の上から手が置かれる。たしかに強張っているような気がする。力を緩める。
「次に、お腹……」
春見がとん、とん、と色々な所に手を置いていく。言われるがままにその箇所から力を抜いていく。そうすると幾らか楽になったと感じる。いつの間にか、そういう所に力が入ってしまっているのか。
「お顔も失礼しますね……。おでこと眉間です。まだ少し、皺が寄ってるので」
顔は特に力が入ってしまう。そうしているつもりは無いが、考え込むといつの間にか皺が寄っていたり、表情が硬くなっていたりする。
「最後に……目蓋も」
指先で触れられて、そこから吸い込まれるように力が抜けていく。全身がほぐされたような感覚があった。
「よしよし……。先輩はえらいですよ。……私はいつも見てますから……」
髪を撫でられながら、春見の穏やかな声が耳をくすぐる。
童心に帰ったような気分だった。これだけ誰かに体を許したのはいつぶりだろう。
「ゆっくり眠ってくださいね。難しい事は忘れましょう……」
自分でも驚くほど早くに眠気が降りてきて、そのまま一気に眠りに引き込まれた。
◇
「先輩……?」
「寝ちゃいましたか?」
「…………」
「せんぱーい?」
「…………」
「……」
「だいすき、です」
◇
ぐっすり寝た。本当に。
どうせ眠れないだろう、とか思っていた自分がちょっと恥ずかしいくらいすごい寝た。
気づいたら夜になっていて、優しい表情の春見に見降ろされていた。
「起きましたか?」
状況を思い出せずに固まっていたら、春見がくすりと笑って、ゆっくりと立ち上がった。
「遅い時間なので、名残惜しいですけど、私はそろそろ帰りますね。……先輩、鍵は閉めてもらっていいですか?」
「……あ、うん」
「ではよろしくお願いしますね。お邪魔しました」
春見が立ち去った後、ようやく何があったか思い出した。
僕は春見に寝かしつけられたのだ。
そして熟睡した。……こんなにすっきり眠れるなんて。
翌日になって、報告とお礼のメッセージを春見に送った。
一応、春見に寝かしつけてもらって、寝不足を解消できたのだから、お礼くらいはしておくべきだ。ちなみに夜もしっかり眠れた。
『ありがとう。これで一日元気に過ごせるよ』
『よかったです。それで先輩、今日は何をしましょうか?』
え。
想定外の返事で、指が固まる。
あれきりで終わりかと思っていた。
『練習の続きをさせてください』
練習。そうか。そういえば、そんな事も言っていた。恋人の練習。
何をするんだろう。練習って言うけど、練習になるんだろうか……?
◇
「――お邪魔します、先輩」
などと考えている内に春見が家にやってきてしまった。
今日は休日だ。何をする予定も無かったから、暇が埋まるのは別にいい。ただ、二日連続で女の子を家にあげるというのが意外過ぎて、目の前の春見の存在を疑ってしまう。
「……どうしたんですか。じっと見つめて」
「いや……なんでも」
そんな幻覚なんて見るわけない。昨日だってしっかり寝たのだ。
でも家に春見がいるのは少し違和感のある光景だ。
「先輩、今日は……もしよかったら、耳かきをしてもいいですか?」
「耳かき?」
「はい。先輩の見ていた動画、私も調べてみたんです。そうしたら、耳かきの動画がたくさんあったので、私もやってあげたくなりました」
耳かきの動画は確かに多い。それがスタンダードと言ってもいいくらいだ。
春見はどこかわくわくするように目を輝かせている。
「どうでしょうか?」
「うん……お願いするよ」
今日は素直に頷いた。ここまであげて断るのもどうかと思ったのもあるし、もし春見が本当に善意でやってくれているとしたら、躊躇いを見せるのも悪い気がした。
頷く僕を見て、春見が嬉しそうに笑う。
「はい。心を込めて、やらせてもらいますね。……では、ここに頭を乗せてください」
正座の春見が、自分の太ももを叩いた。
「…………」
「どうしました? 遠慮しなくていいですよ」
動画で膝枕をするシチュエーションはよくあって、聞いていて癒される感覚もあった。
けど、実際に自分がやるとなると流石に固まってしまう。
「でも」
「だめですよ、逃げたら。ごろんしてください」
引っ張られて、その弱い力に抗えずに体を倒してしまう。
春見の膝枕に頭を乗せてしまった。
「力を抜いて。頭を預けてください。……先輩にはリラックスしていてほしいです」
お願いされると断りづらい。
頷いて、昨日みたいに力を抜いてみる。
「はい。じゃあ、始めますね」
持ってきたらしい竹の耳かきで、耳を触られる。くすぐったいようなむずがゆさを覚える。
「私、おばあちゃんによく耳かきをしてもらってたんです」
独り言を呟くような感じだった。そういえば、春見の事を僕はよく知らない。
「うちは両親が共働きで、よくおばあちゃんに面倒を見てもらってて。こういう風に耳かきとかしてもらうのも結構好きで、よくせがんだりしてました」
春見の声は明るさもあって、落ち着いていて、聞いていて心地が良い。
「……おばあちゃんっ子なの?」
「はい、おばあちゃんっ子ですね」
そういえば、春見はサークルでたまに渋い和菓子をお土産として持ってくる事があった。おばあちゃんからの影響だったりするんだろうか。
「先輩には、私がおばあちゃんに昔やってもらって、気持ち良かったなって事をやってたりもします」
話しながらも、ゆっくりと耳かきをされている。
段々慣れてきて、くすぐったさが気持ち良さに変わってくる。僕自身も春見に慣れてきたように感じる。春見が自然体でいてくれるからかもしれない。
「先輩も私の事、おばあちゃんみたいに思ってくれていいですよ」
「おばあちゃんでは無いな……」
おばあちゃんと思うのはちょっと無理がある。後輩だし。年下だし。
「そうですか? うーん……もっとおばあちゃんっぽいことをした方がいいでしょうか……」
春見は考えるように手を止めて、それから僕の頭をぎゅっと両腕で抱え込むようにした。
「ぎゅー……。よしよし、いい子だねー。安心してね……いつも見てるからね……って、これはおばあちゃんっぽくないでしょうか?」
……春見の言う通りだ。どちらかというとお母さんっぽい。
「でも先輩、今ので少し力が抜けましたね」
嬉しそうに言われる。
たしかに。そうかもしれない。意外だ。これだけ接近されたら、緊張しそうなものだけど。
「緊張しないで、体を預けてくださいね。よしよしもしてあげますから……」
春見に優しい声をかけられたり、髪を撫でられたりするたび、また体から緊張がほぐれていく。
意識より体が先に春見の言う事に素直になってきている気がする。
そうして結局また眠るまで耳かきをしてもらうのだった。
◇
「せんぱーい」
「先輩、寝てますか」
「寝てますよね……?」
「…………」
「起きてない……ですよね?」
「すき」
「先輩……すき……」
「……えへへ」
◇
春見はその後も何度か家に来て色々としてくれた。
単純に話相手としてだったり、また耳かきをしてくれたり、添い寝をしてくれたり。全部、僕を癒すような事を目的としてくれていた。
たまに、何を参考にしたのか、予想外の事を提案される時もあったけど――。
◇
ある日。
「先輩、今日は語尾に『にゃ』を付けて耳かきをやりたいと思います」
「な、なんで?」
「誰もが癒されるものってなにかなって考えて、悩んだ結果、猫という結論に至ったんです。なので、猫の声真似をして耳かきをすれば、もっと癒されるんじゃないかと思いまして」
春見の自信満々な顔に「どうです、この考えはすごいでしょう? 先輩もそう思いますよね?」みたいな文字が見えた。当然、首を振るなんてできない。
「じゃ、じゃあ……やってもらおうかな」
「はい!」
その日は話す語尾が『にゃ』になる耳かきをしてもらった。
「せんぱーい♪ お耳掃除をしますにゃ~♪」
「ここは気持ちいいですかにゃ?」
僕はずっと素数の事を考えていた。
翌日、冷静になったのか、僕の顔を見る度に春見は顔を赤くしていた。
◇
また別の日。
「先輩、今日は私の事をママだと思ってください」
「……?」
「そして、先輩は私の可愛い息子です。ほらおいでー♪ 一緒におねんねしようねー♪」
「……いや、急に入り込むのは難しいけど」
流石に厳しいと思ってしまう。僕の中の春見は後輩のままだ。ママにはならない。
「先輩……だめですか?」
悲し気な目で見つめられる。
考えてみれば、断るという選択肢は初めから無かった。色々やってもらっているのに、今日だけだめだと言うのは気が引ける。
僕が赤ちゃんになればいいのだ。
「わ、わかった」
「はい♪ 精一杯甘やかしをしますね。じゃあ、おねんねの時間だよー♪ ぎゅっとしててあげるからねー♪」
ノリノリだ。楽しそうだからいいか……。
その後、ちょっと引くぐらい熟睡した。
◇
睡眠のために、耳かき以外の事もやっていた。
「今日は……動画で見たものを色々やってみますね」
「うん」
「まずはタッピングというのをしてみます」
「タッピング?」
何か叩くような感じだろうか。寝転がった僕に、春見が手を伸ばす。
「はい、お耳の周りをとんとん、と叩いたりするみたいです。やってみますね」
春見の人差し指が、両耳の周りを叩いている。とことこと早いテンポで叩いたり、とん、とん、とゆっくり同じリズムで叩いたりする。
「どうでしょうか……?」
「うん……気持ちいい」
「よかったです。あとは、お耳を塞いだり……」
春見の声がこもる。密閉感が意外と気持ちいい。
「ぐにぐにマッサージをしたり……」
耳がぐにぐにいじられる。耳周りがあたたかくなってくる気がする。
「あとは、耳に息を吹きかけたりします。ふー……」
「おわ」
春見が顔を移動させて、耳に息を吹きかけた。ぞくぞくして声が出てしまう。
春見の表情が心配そうなものに変わった。
「あ……お耳にふーはだめでしょうか……?」
「……いや。慣れたら、いけると思う」
「そうですか、わかりました。……そうしたら、もう少し優しくやりますね」
そんな感じで、色々と耳の周りをいじられながら過ごす日もあった。
◇
そういう風にいくつかの日々を過ごしていた。今日もまた、家に春見がいる。
「おねむですよー……。まず足から力を抜いていきましょうねー……」
最近はほとんど毎日のように春見に寝かしつけられている。
「息を吸って……吐いて……」
初めの頃と比べて、だいぶ春見に慣れたと思う。
家に春見がいる事も見慣れてきたし、最近は膝枕にも抵抗を感じなくなった。自分を明け渡していると言ってもいい。気づいたら、眠る事を考える前に眠れている。
春見のおかげだ。
――ただ、一個だけ、どうしても。
ずっと聞きたいと思っているが、聞けないものがあった。
「あれ……先輩? 顔が硬いです。最近また寝つきが悪くなってますね……」
「……そうかな」
「私の寝かしつけが良くない……でしょうか?」
「いや、春見の寝かしつけは完璧だよ」
「では、悩みとかでしょうか? 私に言える事でしたら、言ってみてください。……先輩がよく眠れないのは、私にとっても深刻な問題です」
春見は心配そうに僕を見おろしている。
……言えない。言えないけど、言わなければ今後もずっとこんな顔をさせてしまうだろう。
今、言うしかないか。
きっといつかは言わざるを得ない事だ。
「……聞こうか迷ってたんだけど」
「はい」
「春見って僕が寝たあと、何か喋ってるよね……?」
「――へ?」
春見はぽかんと口を開いて、それから急速に顔を真っ赤に染めあげた。
「しゃ、喋って……!? 喋ってないです……!」
「え、ほんと……? 『好きですにゃー♪』とか言ってない……?」
「~~~~っ!」
たぶん僕の口から出たら一番恥ずかしいであろう台詞を選んで言った。
案の定、春見は声にならない声をあげている。
気づいたのは偶然だった。たまたま、眠る所とそうでない所の境目くらいで微睡んでいた時があって、その時に囁き声が聞こえたのだ。
その後も何度か、眠った後に囁かれる事があった。内容は同じ。
それを知ってから、どうしても眠る時にそわそわしてしまう。
「せ、せせせ、せんぱいは」
混乱しすぎて、台詞が壊れたビデオみたいになっている。
「その、い、いつから……?」
「一週間前くらい……?」
「い、いっしゅう……」
絶望の表情だ。言葉を失っている。
この一週間の間も何度か聞いていた。早めに眠れてしまえば知らんぷりもできるけど、眠ろうとすると眠れないのは睡眠の常だ。春見を止める事もできないし。
眠り切れずにいるたびに、耳元で囁かれていた。すき。すき。すき……。
「……すきっていうのはさ」
「ひゃ、ひゃい」
「……そういう意味?」
しばらくしてから、か細い声で、「はい」と認められる。
「せ、先輩」
「ん?」
「もう、あれなので、言わせてください」
潤んだ瞳で見つめられる。
「私は先輩のことが好きです」
感情を抑えるような、静かな声。
「前からずっと好きでした。先輩、気づいてなかったですけど」
それはそうだ。そんな事、まったく気づいてない。前までは思いつきもしなかった。春見が僕を好きとか。
「時間が過ぎる度に、私の好きだけが増えちゃって、悩んでました。……もし伝えたとしても、急に自分を好きだって後輩が出てきたら、先輩はびっくりしますよね」
たしかに前までの僕が、急に春見から好きだと言われたらびっくりする。
接点も無いし、信じきれないかもしれない。
「この前、先輩の辛そうな姿を見て、このままじゃ倒れちゃうと思ったんです。どうしても何かしてあげたくて。……なので練習って事に」
春見の目に、僕が映っている。
きっと少し前の、辛い顔をしていた僕を思い出している。
「あの時は結構出まかせでしたけど、意外とあっているかもしれません。……私はずっと……先輩と恋人になった時にしたい事を練習していて……」
そこではっと気づいたように、春見が手で僕の目を覆った。
視界が阻まれ、春見の顔が見えなくなる。
「……その、返事はしなくてもいいです。知っておいてもらえたら、それで」
声音には照れとか、恥ずかしさとか、混乱とか、色々とない交ぜになっていた。
その様子に微笑ましくなる。
「返事はいいの?」
「え……!? いえ、その、私は今のままで満足と言いますか」
ここまでしておいて、現状維持は逆に難しいんじゃないだろうか。
「先輩、笑ってませんか……?」
「いや、そんなことないよ」
「絶対笑ってます……!」
焦った春見は珍しいなと思った。いつも僕の方が寝かしつけられて、子供みたいな立場なのに。
春見を安心させるために、僕を口を開いた。
◇
――そうして、僕たちは恋人になった。
◇
付き合いを始めた後も、春見は暇を見つけては同じようにうちまで来てくれた。
今日も、いつものように隣同士で寝ている。
春見の息が触れている。優しい目で見つめられている。時折、肌が触れ合って、わずかにくすぐったさを覚える。
「先輩、狭くないですか?」
「大丈夫だよ」
添い寝をする距離は付き合う前と同じか、それよりも少し近い。
以前も距離は近かったが、これ以上はだめだという無意識の境界みたいなものがあった。心の中で抑えていたそれが、今はない。
告白をして、受け容れてくれた。
恋人とかいう、どこにでもいるのに、自分には遠いと思っていた関係になった。
彼氏彼女とか、まだ実感がわかない。
この幸福な空間を、ふわふわしたまま漂っている。
ふと、不安が口をついて出る。
「春見は……本当に僕でいいの?」
「当たり前ですよ」
優しくて、落ち着いた声だ。春見の声はいつも落ち着いていて、安定している。最近は声を聴くだけで力が抜けてくる。
「先輩はきっと、自分をだめな人だって思ってるんですよね」
そうだと思う。折に触れて、どうしてこんな何もない僕が、と考える事がある。胸とか頭のどこかに、ずっと前からそういう思考が巣食っている。
「自分をだめだって思う事自体は……だめではないと思います。自分が自分の事をどう思っても、それは自由です」
春見は否定をしない。ただ囁いて、頷いてくれる。
「でも私は、自分をだめだって思ってる先輩を好きになりました。私が先輩を好きなのは、伝わってますか?」
楽しそうに言われる。当然だと頷く。
春見はくすくすと笑った。
「私は先輩でいいんです。いえ……先輩がいいんです。だめだめな先輩でもいいですよ。それなら、私以外の人は見ないと思いますし」
幸せだなと思う。隣で彼女が……春見がこうして静かな声をかけてくれて、様々な物から救われている。
「だめな先輩が好きです。先輩はそんな私だけを見ていてください。自分をだめだと思っても、私は先輩を好きでいますから」
だから今日も、安心して眠ってください。
そう囁いて、緩い力で抱きしめられた。
やがて微睡みが降りてくる。今日もまた深く眠れる事だろう。
目が覚めた時も、春見が傍にいてくれる。その事を思うと、何か大きなもので包まれているような安心感も覚える。
そのまま二人で眠りに落ちた。
何か幸せな夢を見た気がしたけど、よく覚えてはいなかった。
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