吸血鬼の末裔と生傷の絶えない恋人の話
鮮やかな赤色。糸より細い赤い線。極小サイズのビーズより小さな赤い玉。
伸ばしすぎたか、と考えていた前髪の隙間から見えたその赤色に、思わず視線が吸い寄せられる。
「っつー、」
作業を続けるか、という一瞬の躊躇いの後、
ぱくり、と小さな切り傷がついた指先が薄紅色の唇に覆い隠される。
すい、とこちらを向く焦げ茶の瞳に、逃げるように目を逸らした。
「何見てんのさ」
追いかけるように揶揄混じりの問いかけが飛んで来る。
見ていなくても声を聞くだけで容易に表情が想像出来る。眩しげに細められた目とへらりと緩められた口元。吸血鬼混じりとは違うかぶりつきたくなるような薄桃色の肌。
「見てないって」
「嘘吐け。バレバレだよ」
「むぅ」
言葉に窮して背を向けるように寝返りを打つと、包丁が金属が擦れる音と共にシンクに置かれ、パタパタと足音が近づいて来る。
「なんだよ」
問い掛けのつもりでも警戒でもなんでもない言葉。
スリッパを脱いだ靴下から僅かな汗の匂い。
顔にかかる影と髪の黒を感じて、仰向けに向き直る。
「舐めて」
こちらの顔を覗き込む焦げ茶色の瞳には、からかいの色が浮かんでいる。
本気で睨んでいる訳でもないが、こちらの視線は全くと言っていい程度には気にされていないようだ。
無意識的に半開きになった唇に、唾液に濡れた指先が押し込まれる。
先程の一瞬で鮮烈に網膜に染みついてしまった傷を舌で撫ぜる。
唾液が傷口に染み入る。ほんの少しだけ血を抜き取りながら、傷を奥から塞いでいく。
細胞間を引き寄せ、縫い付け、切り開かれた傷を無かった事にしてしまう。
単なる鉄や錆とは明らかに違う、僅かな塩気と甘さを感じさせる血の味。
自分の中の人の部分が感じる僅かな背徳感と、吸血鬼の部分が叫ぶ耽美と歓喜。
自分の血が頭の方に上るのを感じる。
あぁ、思考が茹りそうだ。
そういえば、さっきアイツは傷口を口に含んではいなかったか。
『間接キス』という言葉が頭をよぎり、余計に顔が熱を帯びる。
頭の中でその味を何度も何度も反芻しながら飲み下し、感情が溢れるように溜息が漏れた。
「相変わらず、お前は血を舐めると色っぽくなるね」
からかうような調子の声。 一度見せられたので覚えているとも。
鏡の前に立たされ、無理矢理口に指を突っ込まれた事もだ。絶対に許さない。
「うるせぇ」
涎が垂れてしまった訳ではないが、口元を拭ってそっぽを向くように寝返りを打つ。
「うーむ、何度見ても不思議だ」
追撃の言葉はなく、代わりにただの独り言が降ってくる。
傷の消えた唾液濡れの指をしげしげと眺めているのだろう。
舐めさせた痕を眺める。昔からの癖だ。見なくてもわかる。
不愉快な、埃混じりの砂と塩素混じりの水の匂い。
その中に混じる、只人には感じ取れないであろう血の匂い。
砂を流した後のぺったりと肌に張り付いた産毛が舌に触れる感触。
驚いて丸く開かれた目。今よりも黄色味の強い肌の色。
初めて舐め取った己以外の、余計な妖の臭いがしない只人の血の味。
10年前のあの時から何度も繰り返してきた事だ。今更意識する必要はないだろうに。
靴下がカーペットに擦れる音。その後、機嫌よくぱたぱたと足音が離れていく。
「ありがとね」
再び包丁が野菜を切り始め、まな板にぶつかるトントンという音に混じって聞こえてきた言葉。
その指先にはもう芳しい赤色は滲んでいないだろう。