プロローグ
息を切らして乗った夜行バス。彩乃は座席に身を預け、これでもう解放される、と考えた。
田舎育ちで、実家はその町の病院。幼い頃からお前は医者になるんだ、医者になれと言われてきた。彩乃は今医学部3年生。勉強以外のことをしてこなかった。
その反動なのかもな、と彩乃は考える。
大学3年の春、彩乃は家出した。
貯金や生活に必要なものを全部持ってきたと言えども、行くあてもない。彩乃はこっそりため息をついた。昔から行動力はあるが、その後のことを考えていないのだ。
東京行のバスは暗闇の中を揺れながら走る。
バスの中には彩乃の他に女の人が2人と男の人が1人、そして老夫婦が1組。
みんなは何故この深夜バスに乗って東京へ行くのだろうか、ふと彩乃は考えた。
今どき、彩乃のように家出して深夜バスは流行らない。
女の人2人は友人のようだ。隣どうしの席に座り、スマホを覗き込んでいる。旅行の計画でも立てているのかもしれない。
老夫婦と思われる2人は仲睦まじくお菓子を食べていた。こちらも同じく旅行に行くのかもしれない。
だけど、もう1人の男の人だけは雰囲気が違った。これから旅行に行くのだというような楽しい雰囲気ではない。どちらかと言えば、彩乃のようなこれからに不安を抱いているような、自分の境遇に腹を立てているような、そんな雰囲気を纏っていた。
男の人の傍にはギターや機材のようなものが山ほどあった。あれを担いでバスに乗ってきたのだろうか。細そうなのにすごいな、と彩乃は思った。
この深夜バスはいったいこれまでどれほどの人の思いを東京まで運んで行ったんだろう。
そしてこの深夜バスで東京に行った人達はどうなったのか、そして彩乃はどうなるのか。そう考えながら彩乃は深い眠りについた。
「お姉さん、着きましたよ。起きてください。」
彩乃は運転手さんに肩をたたかれて眠りから覚める。
「あっ、ごめんなさい」
彩乃は慌てて荷物を持って急いでバスから降りた。バスは次に行くところがあるのか、彩乃が降りるやいなやその場を去ってしまった。
東京に着くのは朝だと思ったのにまだ深夜4時だ。これからどうしようかと彩乃は本気で考える。ホテルにでも泊まるとしてもそんな生活ずっと続けてなんていけない。
彩乃は今日だけホテルに泊まって、明日家を探そうと考えた。
ふと、辺りを見回すとさっき同じバスに乗っていた男の人が重そうな機材を置いて立っていた。
何しているんだろう、と思ったがのちに、荷物が多すぎて運べないんだろうなと気がついた。
彩乃はすぐその場を立ち去ろうと思ったが、その考えをすぐに取りやめた。
「大丈夫ですか?」
彩乃の声を聞いたその人はびくりと体を震わせる。
「あ、ごめんなさい。荷物運ぶぐらいはお手伝いできるかなと思って。」
彩乃は慌てて謝った。迷惑だったらどうしようという考えがぐるぐると頭の中を駆け巡る。いつも行動してから後悔するのだ。
「いや、僕も困ってたので嬉しいです。ありがとうございます。」
その人はふっと笑って頭を下げた。彩乃はほっとして初めてその人の顔をまじまじと見た。
丸っこい瞳。すっと通った鼻筋。笑うとすこし大きいことが分かる口。
きっと美形と呼ばれる部類なのであろう。彩乃は息を飲んだ。
「実は僕、ミュージシャン志望で上京してきたんですけど、機材が多くて運びきれなくて…。バスに乗る時は友達が手伝ってくれたんですけどこっち来たら1人だったので。」
「そうだったんですね。ギター、やられてるんですか?」
「いや、これはベースです。ギターも弾けるけどあんまり上手くないんですよ。」
そう言って彼は自嘲気味に笑った。
やっぱり自分に似てる、でもそんな共通点いらないと彩乃は思った。
「これ、どこまで運べばいいですか?」
「えっと、アパート借りてるんでそこまで。ここから近いんで。」
彩乃はキーボードと自分の荷物を持って歩き出した。
桜が散った道を蹴って2人は歩き出した。
「ここです。」
2人は町外れの小綺麗なアパートの前についた。
「ここの303号室。」
3階建てのアパートは屋上があって、1部屋1部屋が広そうだった。
「角部屋なんですね。」
「はい。やっぱり住むところは大切ですから。」
ガチャリと鍵が開く。中は外見通り小綺麗で、思ったより広かった。
「玄関に置いて大丈夫です。ありがとうございました。」
その人は彩乃に向かって深々と礼をする。
「いえいえ。大丈夫です。あと、この辺りでビジネスホテルってどこにあるか知ってますか?」
「え、家無いんですか?」
あまりにも率直な言い回しに彩乃は吹き出してしまった。
「あ、ごめんなさい、思ったことがそのまま出てきちゃって…。」
男の人は申し訳なさそうに項垂れる。
「大丈夫ですよ。その通りなので。家出して来たんですけど、家とかそういうこと何も決めてなくて。」
「そうなんですね…。」
そう言って男の人は考え込む。
彩乃は辺りを見渡した。3階からは見晴らしがいいし、近くに公園もある。東京ではあまりないような静かな住宅街。さっき下から見た感じでは屋上も広かった。いいアパートだなと彩乃は素直に思う。
「あの、」
意を決したように男の人は口を開いた。彩乃は目を見つめる。
「あの、貴方の家が決まるまで一緒にここで暮らしませんか?」
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