天賦の才を持った村娘の話
英雄の出自は、壮大な叙事詩の序章を飾る神秘的、神話的な物語として描かれることが多い。
だが不世出の冒険者「雨のセリア」の冒険譚にその出自は描かれない。
わずかに近しい人に語った口伝が伝わるだけである。
セリアが生まれた地は大陸の東辺境といわれている。
かつてそこには、いにしえより荒野に根を張り大地と共に生きた村があった。
村の名は今に伝わらない。
セリアの出生ついて言及すべきものは見あたらない。
父はこの村の鍛冶師であり、母もこの村の生まれだった。
家には両親の他に、祖父と弟がいた。
家は貧しくもなく、素封家でもなかった。
代々鍛冶師の変哲ない家だった。
「人間には天賦というものがある。儂らの家は代々鍛冶の才を授かった。故に望むと望まざると、儂は鍛冶師になり、お前の父もそれに倣ったまでよ」
セリアが小さい頃、祖父はセリアにそう語った。
「じゃあ、私は?」
セリアは幼い目を輝かして祖父に尋ねた。
祖父は優しく微笑む。
「セリアにどんな才があるかはわからん。世の中には己にいかなる才が眠っているのか知らずに死ぬ者も多い。そしてその才もただ人並みよりかはあるものから、稀代の傑物となるものもおるし、神を上回ると云わる才もある」
「そうなの……」
セリアはわずかに目を曇らせた。それを見て取った祖父はセリアの頭を軽くぽんと叩いた。
「大丈夫。いつかセリアにも必ず自分のできる事が見つかろうて」
そして祖父は穏やかに笑った。
こんな昔の事を思い出して、セリアは自分の唇をきつく噛んだ。
暗く濁った雨が長い髪に降り注ぐ。
所々激しく破れた、動きにくい服が肌にまとわりついて気持が悪かった。
「こんなもの才能なものか!」
セリアは祖父の言葉を邂逅しながら、憤りを感じた。
そこにあるものは自分の持つ力への畏れと、苛立ちだった。
血色に染め上げられた柄を再び握りしめ立ち上がる。
「みんな……無事でいて……」
◆
その日の夜、村一帯に、久しぶりの雨が降った。
暑い夏を越える水を持たないこの辺境にあって、夏の雨はまさに天恵である。
毎年この季節になると、数日だけ雨が降る。
そのおかげで枯渇した井戸も再び満たされ、黄土色に萎びた草木もまた息を吹き返す。
しかし、今年その雨がもたらしたのは、恵みと呼べるような代物ではなかった。
悪辣な意志と、粗野な力。
そんな生々しい衝動が、雨霧の隙をついて村を覆ったのである。
彼らは数日前、遠い地で起こった国同士の争いによって生み出された。
戦いに敗れて土地を失った騎士の一団は、辺境に落ちのび、逃れた先で匪賊と化したのだ。
ただそれだけである。
それだけのために村は略奪されようとしていた。
ガンガンガン
表の玄関を外から激しく叩きつける音がしている。
「走れ、セリア!」
蒼白な表情の父がセリアに振り向きながら叫んだ。
一人で逃げろ。そういうことだ。
セリアは逡巡するが、直ぐに頷くと、父に背を向け、一気に裏口へと駆け出した。
「逃げろ。できるだけ遠くへだ!」
父の声が背中で響いた。
そこからは、もう息をつく暇はなかった。
ダンッと裏口の木戸を開け、篠突く雨の中へと踊り出る。
雨で靴が重く感じる。
脱ぎ捨てたい気分に駆られた。しかし脱いでしまえば早くは走れない。
頭の中が、白く濁り始めた、それでも全力で村の中を駆け抜ける。
村のあちらこちらから、まともには聞き取れない叫び声が、絶え間なく雨の空気を削っている。
セリアにとってそれは起こり難い現実だった。
村を支配していた日常と平穏が、何の前触れもなく、切り裂くような音を立てて崩れていくではないか。
いままでセリアが信じ切っていたあらゆる価値観の落下点が、もはや空想のもののように感じられた。
村を駆け抜けたセリアは崩れ落ちた村境の板門から、村の外へと出ようとしたが、その手前で石に足を取られて転んだ。
あっという間に、道の轍に出来たぬかるみに顔を飲まれた。
生暖かい濁った水が、顔や手足を覆い、全身に痛みが走る。
つっぷしたセリアは、しばらく動けなかったが、それでも力を振り絞って顔を起こした。
顔をわずかに上げるだけで、前髪から、泥水が大地にぼたぼたとしたたり落ちる。
それがセリアの絶望感に拍車をかける。
しばらくぬかるみの真ん中で、しゃがみ込み、呆けたように雨に打たれていた。
セリアはもう、走れなかった。
膝がずきずきと痛い。どうしようもなく、ただ座るしかなかった。
しかし、セリアにのしかかる運命は、迷いや戸惑いのなかで行き場を探している余裕など決して与えなかった。
◆
「おいっ、お前。何してる」
不意に背後から、低く、冷たい声が呼んだ。
セリアはぬかるみの中に沈んだ手で、柔らかくなった泥をぎゅうと握り、ゆっくりと振り返った。
「ほう、女か。若いが上物だな」
声の主は、見知らぬ男だった。
抜き身の大剣を肩で支え、崩れた大鎧を着こなしている。
髪を振り乱し、髭は伸ばすに任せているようである。
男の顔は餓えていた。ありとあらゆることに餓えている。
そして欲望を蓄えた鋭い眼で、セリアを支配するように見下ろしていた。
その表情に、セリアの感情は恐怖とともに、言い知れない暗い闇の塊を覚える。
その闇は、どんな光にも照らされない暗黒の色だった。
男は一度セリアの全身をなめるように見渡して、唇を奇妙に歪めた。
「美味そうだ」
これがセリアの宿命に対する答えなのか。
セリアは男から生み出される際限ない欲望に恐れ後ずさった。
闇が塊のなかからぬるりとあふれ出し、恐怖の感情で覆われたセリアの心を侵しはじめる。
男は大剣を大地にずんと突き刺すと、セリアにゆっくりと近づいてきた。
「い…いや……やめて」
男は、無理に立ち上がろうとするセリアの髪をぎゅっと掴んで、そのまま顔をぬかるみの中へと押し戻す。
ばしゃっという激しい音とともに頬が大地に押し込まれた。
「いや!」
身体の上に大男がのしかかり、身動きが取れなくなる。
それでもセリアは必死にもがいた。
抵抗をやめることは死ぬことに等しい。
いつの間にか恐怖の感情は薄れ、激しい衝動の中で男をにらみ返す。
男の唇はこれから始まるであろう至福を思い、無様に歪んでいた。
その顔を見たとき、セリアの中で何かが弾けた。
闇が洪水のように心を侵食し、行く当てをうしなったその闇がセリアの目や口や耳の穴からどろどろと体の外へとあふれ出すような。
そんな感覚に襲われた。
そして、次の瞬間セリアは見た。
男の腰にもう一本の細身の剣が差してあることに。
殺そう――
そう思ったときには、セリアは男に押さえられた右手を振りほどき、その剣の柄を握っていた。
「お、おい!」
男が驚いた声あげるが、セリアの握った剣は、男の胸に深々と突き刺さっていた。
剣の切っ先はちょうど鎧の継ぎ目を通って、男の胸を貫いている。
運が良かったのではない。セリアはそこを狙った。
みし
肉に異物を突き刺す感触にセリアの本能が歓喜した。
ああ。
なんと心地よい、触感なのだろう。
人の肉とはこれほどまでに柔らかいバターのようなものだったのか。
男は「があっ!」という言葉にならない叫びを上げで、両手を振り上げると勢い、セリアの首を握った。
そしてそれを締め付ける。
「うっ……ぐぐぐ……」
強烈な痛みの中、セリアは右手で男の胸から剣を抜き取ると、即座にその切っ先を男の首に向けた。
右手に渾身の力を込め、それを男に突き立てる。
再び肉の組織を断ち切る感覚を覚えた。
そして、最後に、ぐきりという音が右手から脳に響いた。
「ぐはっ!」
男は声を荒げ、そして、口からどばりと、真っ赤な血を吐いた。
血は、セリアの顔に降り注ぐ。男に押さえられて、動けないセリアは否応なく、その血を顔面に受け止めた。
視界が真っ黒になった。
口の中で鮮やかな血の味がして、それがセリアの意志など関係なく喉に流れ込む。
喉の奥から一気に嘔吐感がこみ上げてきた。
セリアは力が弱まった男を押しのけると、ぬかるみから這い出し、その場で勢いよく吐いた。血の味が無くなるまで。
しばらく無心に吐き続けたセリアは、胃液の嫌な味を口の中に覚え我に返った。
そして、振り返るとそこには男が事切れて、雨のぬかるみにうずくまっていた。
自分が殺した男を見下ろし、そして右手に握った血と雨水の滴る剣を見比べ、セリアは口角をあげた。
「あはっ……」
嗤った。
気持ちよかった。人を屠るという感覚に、五感が歓喜した。
そして啼いた。
平穏を奪ったおぞましい悪意に、死の淵にまで追い詰められた恐怖に。
そしてそれを容赦なく消し去った自分に。
突然セリアは、子供の頃に死んだ祖父が言った言葉を思い出した。
セリアに与えられた、天賦の才。
人を殺す力。
ほんの少し前この行為に歓喜した自分の本能に、恐怖を覚える。
これが、自分が生まれもって受けた才というのか。
ただ人を殺すことが。
「こんなもの才能なものか!」
何が天賦というのだろうか。精神のうねりと、理性の消失。呪われた力だ。
そして赤銅に染め上げられた剣の柄を握り直す。
しかし。しかしセリアは握った剣を離せない。
「どうすればいいの……」
これから自分はどうすればいいのか。
しばらく、その場を微動だにせず立ちつくすセリアは、不意に頭の中で忘れていた事を思い出した。
「……父さん」
セリアの脳裏に浮かんだのは父の顔であった。
そして、どうなったか分からない家族の顔が順に思い出される。
セリアは村の方へと振り返る。
夜の闇に沈んでいた村に放たれた炎の刃は、未だ鞘に納まることを知らず、目の前で蠢いている。
「みんな……無事でいて……」
セリアはもと来た道を駆け出していた。
痛いはずの足に痛みはなかった。
それよりも、体中の血が沸き立つ黒い闇の感情に、セリアは痛みを覚えていた。
彼女にとってこの感情を和らげてくれるのは、あの永遠の平静が支配する家族のいる家だけだと思われた。
家に帰ろう。ここは、自分のいるところじゃない。自分はもっと穏やかで、静かな……
◆
ばたんという音が耳を突き刺す。
セリアは家の扉を勢いよく開いた。
そして家の中を見渡して、その場にへたりこんだ。
――カエッテキテハイケナカッタノカモシレナイ――
帰ってきてはいけなかったのかもしれない。
判っていたことだ。
――コウナッテイルコトハ――
こうなっていることは。
ピシ。
ぴしり。という音が頭の中で木霊した。
しゃがみ込んだセリアの目の前の床に、弟の顔があった。
まだ幼い。
幼年期の終わりを示すそばかすをいつも弟は気にしていた。
そんな弟が今日は、顔に赤い血を塗りつけて、嫌な顔一つせずにセリアを見つめている。
弟の顔から下は、見あたらない。
「おい、鴨が飛び込んできやがった」
ふいにそんな声を聞いてセリアは顔を上げた。
そこには、数人の男がセリアの方を見ている。
「こいつらだ」
セリアの脳が呟く。
男達は全部で四人いた。
それぞれの服は沢山の返り血を浴びて赤く染まっていた。
何の芸もなく、生身の剣を嬉しそうに握っている。
男達の足下には、その服で僅かに父と判る肉の固まりが転がっていた。
そしてその背後の、セリア達がいつも食事をとっていたテーブルの上には、裸体で縛り上げられた母が八つ裂きにされていた。
あまり趣味のいい食事とはいえない。
怒り。絶望。恐怖。不快。
そして闇。
脳裏を覆いつくす雑多とした感情が、一瞬にして鼓動を駆り立てた。
胸が張り裂けるほど、心臓の動きが激しくなる。
「おうおう、こいつ血ぃかぶってるぜ」
一人の痩せた男がセリアに近づいてくる。何の警戒心も抱いていないように、剣を鞘に納めながら。
「へ、剣なんか握って。嬢ちゃん使えんのか」
男の言葉を聞いて、セリアは、初めて自分があの細身の剣を握り続けていたことに気づき、その剣に視線を下ろした。
剣だ。
理性が呟く。
振れ。
本能が囁く。
セリアの両手は、次の瞬間には、剣の柄をしっかりと握っていた。
そしてそれを横に引くと、勢い、近づいてきた男の首にめがけて払っていた。
男の首が宙を舞う。それが合図だった。
男の胴体の動脈より部屋中に飛び散る鮮血の霧をついてセリアは、一気に残る男達めがけて飛んだ。
全身に再び血の散花が踊り、本能を刺激する。
男達も突然の出来事にとまどいながらも、一様にセリアに向かって剣をかまえた。
しかし、圧倒的にセリアの行動の方が早かった。
セリアの剣の切っ先は、二人目の男の心臓を寸分違わず貫いた。
「あああ!」
セリアは、人を刺す感触に怯えて、喉の奥から叫び声を吐き出した。
勢いがあったセリアの剣は、その男の胴体を貫くと、肉の圧力でセリアの手を放れ、男を部屋の壁に串刺しにする。
セリアは男が壁に刺さる瞬間、背後から迫る剣風にその場を飛び退いた。
セリアの背後を突こうとした曲刀はそのまま壁に串刺しにされた男の胴を目がけて空振りし、それを真っ二つにした。
どばっという音と共に、臓腑が、串刺しにされた男の足になだれ落ちる。
「かわすだと!? ちっ」
曲刀を持つ巨漢の男は、刃にこびりついた臓腑を払い落しながら舌打ちする。
セリアは残る男二人と対峙する形で、壁の暗がりを背にして、肩で息をしていた。
手にはなにも握っていない。
ただ血反吐で汚れた彼女の顔で光る目は、闘争本能だけで生きる猫のように先鋭な輝きだった。
巨漢の男は手に持った刀の切っ先をゆっくりとセリアに向けて、にたりと嗤った。
低い声が、静かになった部屋に響く。
「どこの誰かは知らんが、小娘の分際で、よくここまでやってくれるものだ」
そして後ろに立っていたもう一人の男に目配せをした。
もう一人の男は、男に頷き返してから、退路を断とうというのか、ゆっくりとセリアを迂回しながら部屋の反対側へと歩き始めた。
「しかし、仲間を殺された借りは返してもらうぞ。こいつらも根はいい奴でな。儂らと共に、戦地を生きた仲だ。それを、」
巨漢の男がそこまで言った時、彼は不意に目の前で自分の標的として捕らえていたはずの少女が、忽然と消えたことに気付いた。
「何?」
男は驚いて、少女のいた場所へと駆け寄る。
男はその場に近づいて初めて、壁と思っていた部屋の暗がりが、その先へと続く通路であることに気付いた。
あの少女は暗闇になっている場所がまるで壁であるかのような仕草をしていたのだ。
「くそ、追うぞ!」
巨漢の男が、もう一人の方を振り向いてそう叫んだときである。
彼の頭を一振りの剣が貫いた。
暗がりの通路から、にょきりと出された幅広の剣は、男の耳から真っ直ぐ、頭に差し込まれていた。
彼は一瞬自分が何をされたか判らずに、暗がりの通路を目だけで見返した。
そこには、暗闇の中に剣の柄を握る少女の姿があった。
少女の瞳はあまりにも冷酷に、怯えていた。
「ひ、ひい……悪魔だぁ!」
最後に残された男は、巨漢の男が殺されたのを見て、腰を抜かし、背を向けて、出口へと駆け出した。
しかし、セリアの剣の行方はもはや彼に向けられていた。
男が出口までたどり着き、戸を開けようとしたとき、彼の背中に痛みが走った。
セリアの手にした剣が、男の背中を貫いていた。
男は、痛みの中、出口の戸をばたんと開けて、外へと飛び出た。
雨が男の全身に打ち付ける。
男は雨の中を2、3歩いたところで、膝を落とした。
「あ、ああ……」
何か呟きそうではあるが、声すらもでなくなった男にセリアが黙々と近づく。
そして、男の背中に刺さった剣を無言で引き抜いた。
ずずっという音を立てて剣はセリアの手に戻った。
男は、ぬかるみにばしゃりと倒れ込む。
しかし、まだわずかに息があるようで、その場で、虫のようになにか訴えながら蠢いていた。
セリアは手に持った剣を握り直すと、一閃、その剣を男の頸に突き立てた。
男の体が一度びくんとはねて、動かなくなった。
セリアは剣から手を離し、その場に膝を折ってしゃがみ込む。
ぱしゃりという音をたてて、膝が血のよどむ水たまりに沈んだ。
同時に自分の目から、とめどもなくあふれ出る涙を押さえられず、顔を両手で覆った。
雨が、全身に浴びた血を、洗い流すかのように、セリアに降り注ぐ。
セリアはほんの少し間に幾度となく自分に向けられた、先鋭的な感情に恐怖していた。
彼らが生み出した力が、自分に向けられるという事実は、彼女の理性が許容できるものではなかった。
しかし、何よりセリアが恐怖した者は、自分であった。
「なんなのよ……これ……」
どうして、自分に人を殺すという力があるのか。
どうして何のためらいもなく人を殺せるのか。
血を欲する自己の本能にセリアは恐怖を感じていた。
それでも、それが彼女に与えられた才なのである。
彼女の奪った血が、今もまだ彼女の髪に顔に、服にまとわりつき、彼女の小さな心の塊を喰らおうとしている。
どうしようもなかった。
ただ自分は生への執着のために人を殺した。
家族を嬲り殺された怒りに我を忘れて人を殺した。
殺し続けた。
これからもこの本能と才は、何の感慨もなく人を殺し続けるのだろうか。
そのとき自分は正気でいられるのだろうか。
少女のとめどなく溢れる涙が、夏の雨の夜、長い歴史を終え崩れゆく村の中の小さな路地で、静かに大地に落ち続けた。