第七話
「……で、検査の直前に飲んでくださいって言われた下剤の量が、な、なんと」
「なんと……?」
「二リットル!」
「え、えーっ!?」
「ふわーそんなに飲んだらお尻からお水が出るよう」
リアルに想像してしまったのか蒼くなる涙未ちゃんと、冗談なのか本気なのかよく分からないことをいう白ちゃん。
「出ますよお水。お腹の中がきれいになるまで飲むわけなので」
「うええ」
「大変だね、呉内さん」
「あれは出来れば、もう二度と勘弁してほしいですよ」
まあ二リットルも飲まなくていい種類のもあるんですけどね。
というわけで何日か経っていますが、先輩は相変わらず保健室に来てくれています。白ちゃんはまだすこし緊張しているみたいですけど、だいぶ慣れてきている様子。先輩を含めて今や生徒数は五、保健室同好会が保健室部に昇格する日も近いかもしれません。
「今日はあったかいね」
先輩がふと、そう呟きました。
その通り、今日はとてもあったかい日です。窓さえ開いてたりします。そこから射し込む光はふわふわと優しく、床を照らしています。
と、かつ、と硬いものを叩くような、ちいさな音が響きました。
「あ、ねこ」
真っ白で、すこし太り気味のねこが、開いた窓の隙間から保健室の中に入ってきました。見覚えのあるねこでした。
「この子――」
ときたま保健室にやって来る子でした。保健室以外でもよく発見されているらしく、教室の中でもときどき話題になっています。たぶん生徒がよくえさをやるので、住み着いてしまったのでしょう。
「シロ」
「えっ?」
先輩がとつぜん白ちゃんを下の名前を呼んで、驚いた彼女は首がねじれそうな勢いで先輩のほうを見ました。
でも、先輩の視線はねこに向いています。
「あっ、ごめん。衣花さんのことじゃなくて、あの猫の名前なんだ」
「あっ、そ、そうだったんですか」
そう言いながら、胸に手を当てる白ちゃん。そりゃ、どきどきしますよね。
「生徒会ではそう呼ばれててね。野良だから、人によって呼び方が違うみたいなんだけど」
なるほど。猫と同じ名前というのも、何だか……。
前に犬みたいな名前だと言って気にしていたことがありましたね。確かにペット系の名前ですけど。個人的には、かわいくて良い名前だと思うんですが。
ねこのシロは、にゃーにゃーみーみー言いながら保健室内部を闊歩しています。
「何がしたいんだろうね、この猫って。たまに来るけどさ」
「遊んで欲しいんじゃないですか? ほら涙未ちゃん、あなたならうまく遊べますよきっと」
「どういう意味かな、それ?」
「いえ別に深い意味はありませんことよ?」
とか言ってる間に、シロは帰って行きそうです。入口にした窓の隙間のほうへ、ゆるゆる戻る素振り。
いつもはそれを、黙って見送るだけでした。
ところが今日は、先輩が一言。
「外、行ってみない?」
――そんな提案は、すごく久々に聞いたかもしれません。
今まで、そんなことを言い出すひとは誰もいませんでした。それはそうです。わたしと白ちゃんは体調に不安を抱え、涙未ちゃんは引きこもり気質というか寝てるだけだし、一咲ちゃんは黙って話しを聞いてるのが常でしたから。
のらねこが入ってきて、思わせぶりに歩き回ったのち外へ出ていったくらいでは、誰も外に出ようなんて言わないのです。
「天気いいし、暖かいし。シロも遊んで欲しそうだし」
先輩が何を思って、そんなことを言い出したのかは分かりません。
だけど、そうしてもいいかな、という気になったのは確かです。それは、たまには外もいいかなと思ったとか、ねこと遊んでみるのも楽しそうだなとか、そう言ったこともありますけど、
何より、白ちゃんが、こんなに行きたそうな顔をしていたら。
わたしには良いも悪いも、ないんです。
「よし、行こう!」
涙未ちゃんが勢いよくベッドから降りて、歩き出しました。
向かう先は、一足先にシロが到達した、保健室の窓。
「涙未ちゃん?」
「ねこのシロと遊ぶんでしょ? 見失っちゃうよ!」
シロは窓の隙間から、外へ出て行きました。確かに、今から保健室を出て、校庭側から保健室の窓に周りこんだら見失うかもしれないですけど……。
涙未ちゃんは窓を開け放つと、よっこらせとか女のこらしくない掛け声をあげてよじ登り出しました。そして、ひらりと向こう側に着地。保健室は一階だから、べつに危険はありません。
「相坂は元気だな」
浅川せんせの、呆れたような声。でも顔は面白がってます。
「それじゃ、わたしたちも行きましょう」
「う、うん」
わたしと白ちゃんと先輩とで、涙未ちゃんとシロを追います。一咲ちゃんは相変わらず、不参加。ちょっと行きたそうに見えたのは気のせいでしょうか。
昇降口から表に出ると、携帯が着信。涙未ちゃんでした。
『校舎裏のほうに向かってるよ』
「分かりました。ゆっくり行くので見張っててくださいね」
『わかったよ。何とか捕まえてるから』
あったかい空気、青空の下。校庭で歓声をあげてる運動部のひとたちを横目に、わたしたちはねこと遊びに校舎裏に向かいます。ゆるゆると。
すこし後ろでは、先輩と白ちゃんが、あのねこオスなんですかメスなんですか? なんだかメスらしいよ、なんて会話をしています。今日はせかいがふわふわしてますね、と白ちゃんが言って、先輩がうんそうだね。なんて返していたり、って先輩意味わかってるんですか。
清澄な風がかすかに吹き抜け、わたしの頬を涼やかに撫で去ってゆきました。
うーん、なんだか、気分いいですね。たまには外を出歩くのも、悪くないです。
「あれ、涙未ちゃんどこいったんでしょう」
校舎裏にたどり着いてみれば、ねこのシロはいたんですが、涙未ちゃんがいません。
滅多に人の来ないせいか、妙に寂しい感じのする場所でした。表と違って雑草生え放題で、背の高い草むらが敷地の中まで浸食しています。
うらぶれた日陰の中にいるのは、ねこのシロだけです。
しばし三人できょろきょろしますが、見当たらず。
「ま、あのひとのことですし、放っておいても大丈夫でしょう」
「う、うん」
白ちゃんの同意をもって、わたしたちはねこのシロを取り囲みました。
「かわいい」
白ちゃんがおそるおそる手を伸ばして、シロの頭を撫でました。シロは気持ちよさそうに、目を細めてされるがまま。にゅうーとか細い鳴き声が漏れてます。
わたしもしゃがみこんで、背中をなでました。ふさふさして心地よいです。太り気味だから、いっそうそう思えるのかも。
「この猫、ずいぶん人慣れしてる感じがするよね」と、先輩。
「どれくらい前から、ここにいるのかな」
「僕が入学した頃にはもう居たよ。シロって名前も、何年も前に決まったみたい」
「そうなんですか……だったらもう、随分長いですよね」
だとしたら、この妙に貫禄あるというか、どっしり構えた感も納得いくというものです。
「猫のほうからすると、人間と遊んでやってるって気持ちなのかもしれないね」
「なるほど」
そう言われてみると、小にくらしい顔に見えてくるから不思議です。ほれもっと撫でろ、苦しゅうない。わたしの脳内でそんな音声が再生されました。偉そうです。
でもかわいいから許す。
「お、来たね」
振り向くと、涙未ちゃんが立っていました。
「どこ行ってたんですか? 探してはいませんけど」
「ひどいなすこしは探してよ。せっかくナイスアイテムをゲットしてきたのに」
「ナイスアテイム?」
そういえば涙未ちゃんの右手には、何やら草らしいものが握られています。
「ねこじゃらしー」
国民的すこしふしぎアニメのイントネーションだけ真似しながら、涙未ちゃんはその草を掲げました。
「ほれほれ」
そしてシロの前で、それをふりふり。
シロはびくりと耳を立てると、ねこじゃらしを凝視。
「ほーら」涙未ちゃんが右に振ると、右へ。
「うーり」涙未ちゃんが左に振ると、左へ。
もう完璧にねこじゃらしの虜です。
右、左、上、下、とぶんぶん振り回すごとに、シロの首ががくがく揺れます。
「あはは、面白いねこれ」
偉そうにしていても、ねこの本能からは逃れられないのでしょうか。それともこのねこが、実はとくべつ子どもっぽいんでしょうか。
「おいっちにーさんし、にーにっさんし」
調子に乗った涙未ちゃんが、ねこじゃらしを指揮棒にして四拍子を描き始めました。余裕でついていくシロ。がくんがくんと頭が三角形に動きます。
BPMが一五〇を越えた辺りで疲れたのか飽きたのか、シロの反応がなくなりました。丸まって睡眠の体勢です。
「ちっ、もうついてこれなくなったか。根性のないやつじゃ」
肩で息をしながら、涙未ちゃん。何そんなに疲れてるんですかあなたは。
「かっ、かわいい……っ。ねこは天使さまのおどりこだよう」
意味不明なことを呟きながら、白ちゃんが代わりに近付いてシロの喉元を撫でました。目がちょっと潤んでいます。指揮棒につられるシロの姿を見たなら、無理もないと言えましょう。
白ちゃんは本当に楽しそうに、ねこのシロと戯れています。
たかがねことのお遊び、ですけど。白ちゃんにとっては、あまり経験できないことなのです。
ねこと遊んだことなどほとんどないから、新鮮で。
たまにしか遊べないから、めいっぱい楽しもうとして。
だから、白ちゃんはこんなに楽しそう。
「夕足先輩も、一緒になでませんかっ?」
興奮気味な白ちゃんの姿を、先輩も微笑ましそうに見ています。いいかんじです。
遊んでるときって、楽しそうにしてるひとが近くにいるともっと楽しくなりますよね。白ちゃんはそういう意味では、べストパートナーと言っていいと思います。
すこしずつ陽は傾き、あったかかった気候も、段々と肌寒いものとなりつつあります。
いま先輩が、涙未ちゃんの威嚇によって逃げ出したねこを、シロ、シロ、と呼びかけながら追いかけていきました。
「はぁ……」
隣で白ちゃんが、そっとため息をつきました。
見れば、軽く胸の辺りを押さえて先輩たちを見ています。ぽやっとした目付き。
先輩がシロ、と言う度に、手がぴくりと動きますね。
「やっぱり、シロって言われると落ち着きませんか?」
「えっ、う、うん……」
白ちゃんの頬は、はっきりと赤くなっています。
「ちょっと、どきどきし過ぎて胸が苦しいかな」
あはは、と照れ笑い。白ちゃんの心臓に悪いです。先輩は罪。
「いつか、ねこじゃなくて白ちゃん自身に向けばいいですねえ」
ちょっと冗談めかして言ったのに、
「……うん」
白ちゃんが真面目に頷くものだから、わたしは逆に恥ずかしくなってしまいました。
「そ、そろそろ寒くなってきましたし、帰りますか?」
「あ、そう、だね。――うっ」
立ち上がった白ちゃんの体が、ぐらりと、揺れました。