第六話
「失礼します」
穏やかだけれど、よく通る低い声。
「いらっしゃい。おや、夕足? 珍しいね、ここに来るのは」
正しく詰襟に包まれたからだはすこし細身で。
「ええ、色々とありまして」
その整っていなくもない顔に、優しげな表情を浮かべている。
わたしはほっと、息を吐きます。
ようやく、来てくれました。
「夕足……せんぱい?」
白ちゃんが、隣で、ちいさく呟きました。
そのときの、白ちゃんの表情を――わたしは、きっと、忘れません。
驚きに目をいっぱい見開いて、白い頬を桃に染め、口もとに手を当てて固まっている。わたしの位置からなら見えます、その手の裏側で、彼女の口が、うれしさにゆるんでいるのが。いつもすれ違いでしかなかった好きなひとが、いま目の前にいる「幸運」。それだけで、白ちゃんは、しあわせになれると分かります。
そう、これに比べれば、いつもわたしたちに向けて先輩のいいところを話していた白ちゃんの表情など、まったくしあわせの内に入りません。こんなことなら、もっと早く同じことをしていればよかったです。すこしだけ、後悔しました。
「こんにちは。来たよ」
「ありがとうございます」
そんなやりとりをするわたしたちを、白ちゃんはすこし怪訝そうな様子で見ています。
「こんにちは、衣花さん。からだの具合は、どう?」
「はっ、はい。だ、だいじょうぶです」
先輩は白ちゃんに挨拶します。自分がここに呼ばれた理由を心得ているのか、それとも自然な流れとしてか。どっちかは、分かりません。
「えっと……先輩……どうして、ここに?」
きょろきょろと、わたしや先輩の間に視線を彷徨わせながら、白ちゃんは何が起きたのか分からないみたいな顔をしています。
「先輩は、白ちゃんと話しにここに来てくれたんですよ」
すこし得意げに説明する、わたしです。
「えっ? ……えっ?」
あ、いいです。嬉しいけど信じられないみたいな、その顔。
「ほら、遠慮なく。いろいろ、話したいこと、あるんですよね?」
「えっ……うん……でも」
余りの急展開に、ついていけてなさそうです。あんまりたくさんのひとが一度に扉から出ようとすると、詰まるのと同じ理屈でしょうか。話したいことが多いけど、どこから始めていいか分からないみたいな。
「いいお友達だよね」
すると、先輩のほうから、声をかけてくれました。
「あっ、はい」
白ちゃんは、わたしを見て、涙未ちゃんを見て、一咲ちゃんを見ました。ゆっくりと。
「そうですね……さくらちゃんたちが居なかったら、私、寂しくて泣いてたかも。うさぎさんみたいに」
ふふっと笑って言う、白ちゃん。ちょっと冗談めかした態度でした。
「大げさですねえ」わたしも笑い返します。
「なに、うさぎって」涙未ちゃんもわたしに同じ。「白たんはかわいいなぁ」
ただ、意外とそれは冗談でもないかもしれません。白ちゃんの、中学時代の話を聞いた身としては。あと、わたし自分の身を省みても。
「それに、一咲ちゃんがいつもついてきてくれるから」
「……私は、保健委員だから」
やや早口の返答。不意打ちされたスズメみたいな顔です。
妙にうろたえた一咲ちゃんの態度を見て、白ちゃんまで慌て始めました。
「って、何言ってるんだろう、私……いますごく恥ずかしいこと、言ったような」
ちょっと俯く白ちゃん。でも元々顔が赤くなっていたので、見た目にはあんまり変わりません。
「でも、そんなふうに思えるひとがいるって、いいことだと思うよ」
先輩はあくまで穏やかです……穏やかすぎというか。このひとも、たいがい動じないですね。白ちゃんが恥ずかしいこと言ったというのは、事実だと思うんですけど。
「あっ、あのっ!」
そんな雰囲気を払拭しようとしてか、白ちゃんがすこし大きな声を出しました。
「もう、ずいぶん前のことになっちゃいましたけど。あのとき、助けてくれて……ありがとう、ございました」
「ううん、いいんだよ。困ってるときはお互い様っていうし」
「でも、ちゃんとお礼、言えなかったから……」
「そんなに気にすることないよ。そんなに大したことも、してないし」
「大したことだったと、思いますよ……あっ、さくらちゃん、ちょっと!」
そろりそろりと白ちゃんベッドのカーテンを閉めようとしていたわたしの手を、白ちゃんが掴みました。
「あれ、なんです?」
「何してるの?」
「いえ、二人きりがいいかなぁと」
カーテンが囲う、二人の世界を演出してあげようと思ったのに。
「え、うん、ちょっと……うん……」
困ったように、口をあうあうさせる白ちゃんです。
「まだ、勇気が足りませんか?」
「う、うん……もうちょっと、一緒に居てほしいな」
そんなふうにお願いされたら、聞かないわけにも行きません。
「分かりました。じゃあ、もうちょっとだけ」
とりあえずカーテンを脇に押しやります。
「ぼく、白たんと先輩の馴れ初め話が聞きたいなぁ」
涙未ちゃんが寝っ転がったまま、そんなことを言います。そういえば、このひとはまだ聞いてなかったかもしれません。わたしは、聞いたことがあるんですけど。
「そうですね、わたしも聞きたいです」
先輩がいると、また違った印象になるかもですし。
「えっ、うん、」
白ちゃんはちょっと先輩を気にしたふうです。話してもいいですか、なんてお伺いを立てたりして。先輩は大らかに承諾していますけど、わたし的にはだめって言っても話させちゃうつもりでした。
「えっとね……」
そうして、過去を見るように視線を上向かせて、語り始める白ちゃんです。
「入学して、すぐの頃にね」
「うんうん」
「ちょっと、学校の中で気分悪くなっちゃったことがあって……」
「ふんふん、それで?」
「これ、ちょっと静かに聴きなさい」小うるさい涙未すけを軽くはたいて黙らせます。
「ひどいなもみじ……」涙目で訴えても知りません。
「それで、トイレとかここに行く元気もなくなっちゃって、廊下で私、もどしちゃったの。
でも、気持ち悪くて、目の前はぐるぐるして……、掃除しないといけなかったんだけど、どうしてもダメで」
わたしにも、似たような経験があります。
できれば自分だけでどうにかしたい、けど自分ひとりではどうにもできないとき。誰も助けてくれなかったりすると、いっそ泣きたくなります。
いつも気をつけてますけど、どうしても避けられないときがあって。
「そのとき助けてくれたのが、先輩」
先輩はすこし照れているのか、あさっての方向を向いていました。
「僕はただ、衣花さんを保健室に連れていっただけだよ」
「でも、私が戻したもので制服が汚れるのも、ぜんぜん気にしてなかったじゃないですか。それに、跡を掃除してくれたのも、先輩なんですよね?」
「うん……それは、そうだけど」
遠慮がちに受け答えする先輩。
先輩自身は大したことないと言いますが、実際、見ず知らずのひとにそんなことができるのって、ずいぶん大したことだと思います。
「ついでに言うと、汚れた衣花の顔とか手を拭いていったのも、夕足だよ」
「先生、それは」おっと、先輩がすこし動揺しましたよ。
「いいじゃないの、悪いことじゃないんだし。私がやるって言ったのに、ついでだからって言ってやってったんだよね。もうね、こいつ惚れてるんじゃないか?ってくらいの献身っぷりでねえ」
言葉が炸裂するというのは、こういう感じでしょうか。
白ちゃんの顔が真っ赤に染まり、涙未ちゃんは何やら裏返った奇声をあげ、先輩は今まで見た中で最大級にうろたえました。
白ちゃんの頭のてっぺんから、湯気が見えます……。
「まあ、それは冗談だけど」
今更訂正しても、白ちゃんを夢の世界から引き戻すには足りませんよ。
「先輩、カッコイー」
涙未ちゃんの言葉にも、今回ばかりは同意です。そんなふうにされたら、わたしだってどうにかなってしまうかも。いえ、もしもの話ですけどね?
ふっとオーラを感じて、わたしは保健室の端を見ました。
そこにいるひと、一咲ちゃんはこんなときにも静かです。そっぽでも向いて話し聞いてないのかと思いきや、意外というか、先輩を見ていました。
ガン見です。
睨み付けてる、と言ったほうがいいくらいです。
なんでしょうね、これは。ちょっと悔しそうにも見えます。白ちゃんを助けた云々の話をしているので、保健委員としてのプライドとかそんなものでも、あるんでしょうか。
彼女に関しては、ありそうな気も、しますが……。
しばらく見ていると、向うもこっちに気付いたようで、視線をついと逸らされました。なんか、あやしいです。
視線を戻せば、涙未ちゃんがいつのまにかむこうのベッドに飛び移って、白ちゃんの頭をぐしゃくしゃしていました。テンションあがりすぎたみたいで、白ちゃんに劣らず、顔真っ赤です。
わたしも何だか楽しくなって、ふふっと笑いました。
楽しくないわけ、ないです。白ちゃんがこんなにしあわせそうにしてるのに。
「うへぁぁ、涙未ちゃん、せかいが回るよお」
くるくる回る、さくらんぼのような白ちゃんの顔を見て、先輩を呼んで本当によかったなあと思うわたしでした。
+ + +
先輩も、もう何度か来てくれていますが――、
「あ、あの」
「うん?」
「ええと、ですね」
「うん」
「その……、ご、ご趣味は……なんでしょうか……」
お見合いですか。
未だにカタい、白ちゃんです。
「ううん、そうだね……」
すこし考え込む先輩。
「あんまり趣味らしい趣味もないけど、本を読むのはけっこう好きかな?」
「ほん」白ちゃん、ぽやっと鸚鵡返し。
「どんな本を、読むんですか?」
「あんまりこれって言うのはないけど、たまに本屋に行って、話題の本コーナーにあるやつとか。あとは何となく題名が気に入ったとか、表紙が格好いいとか、そういう大したことのない理由で決めてるよ」
「文学とかですか?」
先輩がとつぜん文学青年に見えたので、わたしはそう聞いてみました。
「いや、どっちかというと娯楽小説みたいなのが多いかな。文学も、読まないでもないけど」
そう言えば、月島さんとも何かのお話の話しををしていましたね。あれはドラマじゃなくて、もしかして小説の話しだったんでしょうか。……でも話してるのが月島さんだったから違うかも。彼女、本とか読みそうには見えませんし。
「衣花さんは本なんか、読む?」
「えっと、私は」ちょっと残念そうな表情で、「漫画くらい……かな」
「僕も漫画は読むよ」
微笑む先輩に、すこしほっとした様子の白ちゃんです。
「どんな漫画を読むの?」
「ええと、少女漫画が多いと思います。ふつうの女のこが、ちょっと幸せになるようなお話とか?」
シンデレラ系でしょうか。
「ふつうで、ちょっと憂鬱な毎日を過ごしてる女のこが、ある日素敵な男性に出会って、色々あるけど最後は幸せになるような話?」
「そうそう、そんな感じです。男のひとだけじゃなくて、誰か素敵なひとに会って……幸せになった、っていう瞬間があるじゃないですか。開けないままに枯れかけていた可憐なお花が、一気にぱあっと咲き誇るような……せかいの開けるシーンが、すごいすきで」
「衣花さんって面白いね」
先輩がきゅうにそんなことを言うものだから、白ちゃん目をぱちくりさせています。たぶん白ちゃんの詩人部分を指していると推測。先輩、それたぶん天然です。
「でも、いいよね、そういうの」
その言葉で、白ちゃんの頬がすこし赤みを増しました。共感してもらえて嬉しそう。
「先輩は、こういうシーンがすき、ってありますか?」
「そうだね……」
ちょっと考え込む様子の先輩。
「……あ、手紙」
「手紙?」
「うん。最近ちょっといいなって思ったんだ」
「メールですか?」
「いや、紙に書いて送るほう。ちょっと前の話しなんだけど」
そう前置きして、先輩は手紙に関わる本の内容について話し始めました。
「その物語は、二人の女の子の友情を描いたものなんだ。片方は元気なかんじで、もう一人は病弱な女の子」
病弱、という単語に思わず反応してしまうわたしです。
ふと見れば、白ちゃんの様子もすこしだけ真剣さを増していました。いえ、先輩相手なので元々真剣ですが、より雰囲気が鋭くなったというか……。
「二人は色々あって親友って言えるくらいに仲良くなるんだけど、ある日けんかをしてしまう。お互い本当は相手のことが好きなんだけど、でも口に出しては伝えられない。素直になれないんだね」
「見ていてやきもきしそうなお話ですね」
思わず茶々を入れてしまうわたしに、先輩はゆるく、そうだねと相槌を打って先を続けました。
「けっきょく仲直りできないまま、病弱な女の子の容態が変わって、専門的な治療ができる遠い病院に転院することになるんだ」
「そこで、お手紙を?」と、白ちゃん。
「うん、そう。遠く離れてしまった後で、病弱な子から、その親友のところへ手紙が届くんだね。そこに、ごめんなさい、ずっと親友でいてね、って書いてある」
手紙を読んで泣き出す女の子の姿が目に浮かぶようです。
「今だったら、メールでやりそうですね」
「うん……」白ちゃんもわたしと似たようなことを想像したのか、すこし目が水っぽい気がしました。「でも、メールもふつうの会話の延長っていうかんじだし、案外むずかしいかも」
「そうだよね」先輩はそんな白ちゃんの様子を、満足そうに見ています。「手紙だと、ふだんとは違った口調……というか文体になるし、想いが伝わりやすいっていうのかなあ」
月並みな意見だけど、と笑う先輩です。
「時差があるっていうのも、いいのかもですね」
「ああ、そうだね。もう会えないと思ってたのに……っていうところに、不意打ちで来たら嬉しいよね」
意外と手紙にも、色々といいところがあるのかもしれません。
「でも私、文章書くのは苦手だなあ」
「……確かに、ちょっと面倒かもしれませんね」
と言いつつ、ポエミイな物言いと文章力の関係について考えるわたし。
「まあ、手間がかかるだけに、価値があるのかもね」
先輩、ポジティブです。
でも確かに、そういうものかもですね。
それから白ちゃんと先輩は、ぽつぽつと、こんな本を読んだ、こんな話しが面白かった、と話し始めました。ときどき先輩が何かを言って、白ちゃんが一生懸命に頷きます。
先輩の話しは、正直、わたしにとっては何てことのない言葉の連なりですが、白ちゃんにとってはきっと、その一つ一つが輝く宝石のような、甘い果物のような、そんなふうに思えているのでしょう……。
こういう時間が、白ちゃんにとっては、宝物であるに違いないのです。