第十話
「ねえ、白たん、何かあったの?」
白ちゃんはあれ以来塞ぎこんでしまい、三日経った今日にはとうとう欠席してしまいました。
涙未ちゃんはずっと気にしていたようでしたが、白ちゃんの前では聞くに聞けず、いなくなった今になってようやく問い質せた、というわけです。
「ええ、ちょっと」
わたしは、月島さんとのことを涙未ちゃんに話しました。
「な……。どんだけ……」
真顔で、涙未ちゃんは愕然としました。
いつもへらへら笑っているか、眠そうな顔をしている彼女ですが、ときどきこんなふうにとても真面目な顔をします。
白ちゃんの一大事は、涙未ちゃんの真面目モードを発動させるには十分でした。
「酷すぎない? 月島サンさ」
「そうですね……」
涙未ちゃんは、怒っています。気持ちはよく分かります。分かりますが――。
「もみじはそんなに、怒ってそうじゃないね」
「ええ……まあ」
「悔しくない? 好き放題言わせてさ」
「いえ、月島さんの言い方は確かに酷いですけど」
「じゃあ、どういうことなのさ」
「それよりも、今は白ちゃんに元気出してもらわないと……」
ふっと、涙未ちゃんの顔から怒気が抜けて、かわりにかなしげな表情になりました。
「……そだね」
「涙未ちゃんも、知ってますよね。白ちゃんが中学時代、ずっと一人だったこと」
「うん……」
白ちゃんの体の弱さは、今に始まったことじゃありません。ですから、中学時代も当然、今のように保健室常連という境遇でした。
ですが、中学時代には、今のわたしたちのような友達はいなかったそうです。
ついでに、保健室の先生もいまいちやる気に欠ける人物だったようで。
白ちゃんは、とても、寂しい思いをしていたと聞いています。
「ようやく、幸せになれそうだったのに。絶対放っておけませんよ」
「そうだね……」
「このままだと、白ちゃん、もう一生恋なんて出来ません。何がなんでも、元気付けてあげなければ」
「うん」
涙未ちゃんは、力強く、うなずきました。
わたしたちにとって、白ちゃんは無二の大切な友達です。
わたしも、白ちゃんと同じで、中学時代には孤立してました。お互いが、高校になって初めてできた、友達同士なんです。
わたしは忘れません。白ちゃんと、初めて会ったとき――いきなり腹痛を起こし、憂鬱で仕方なかった入学式。保健室で出会えた、わたしと同じ女のこのことを。
それは、涙未ちゃんも同じみたいで。
彼女の場合は、中学時代不登校気味だったみたいですけど、けっきょく友達がいなかったところはわたしたちと一緒です。
今でも半ば、不登校みたいなものですが……。
ああ、もしかして。実現不能な皆勤なんてただの口実で、じつは保健室に来ることこそが彼女の登校目的なのかもしれません。
「で、どうしよっか」
「そうですね」
わたしは思案します。でも、ここ数日ずっとそればっかり考えていて、それでも答えが出なかったのですから、すぐには分かりません。
そこに、涙未ちゃんの提案。
「先輩に慰めてもらうのは、どう?」
「うーん」
わたしの頭の中で、白ちゃんの声が再生されます。
――私、先輩のこと、好きになっちゃいけないのかな――
「……逆効果じゃないですかね。いま、白ちゃんの気持ち的には、むしろ先輩は避けたいんじゃないですか?」
「そうかもしれないけどさ。でも先輩がいいって言えばいい話でしょ?」
「そう、ですね」
涙未ちゃんの言うことには、一理あるような気はしました。
気はしたんですが、すぐにゴーというわけにもいかない気もします。
「でもそれって、先輩が白ちゃんとのことをOKするのが前提になりません?」
「そうかなあ? そうでもないと思うけど」
「中途半端な優しさは、逆に相手を傷つけると言いますよ?」
「……むう」
先輩に慰めてもらって白ちゃんが復活し、それでも先輩的には白ちゃんNG、ではあまりに白ちゃんがかわいそうです。
「正直オーケーみたいなもんじゃないのって思うけどね。あの態度だと」
「まあ、そうかもしれませんけどね……」
涙未ちゃんが言うことはもっともですが、どうも引っかかるものがあるわたしです。
「乗り気じゃない?」
「……いえ。あんまりいい方法も思いつかないですし、お願いくらいしてもいいかもです」
それもまた、わたしの本心です。涙未ちゃんの提案を断る、はっきりした理由があるわけでもなし。何もしないよりはいい、と思いました。
「じゃ、行ってみよ。生徒会室のほうにいるかな?」
先輩は、すぐ見つかりました。
わたしは、自分が一体何に引っかかりを感じていたのか、知ることになります。
「……やっぱり、だめです。行きましょう、涙未ちゃん」
「……うん……そだね」
わたしたちは即決で踵を返し、保健室に戻りました。
歩み去るわたしたちの、遥か背後には。
楽しげに会話する先輩と、
月島さんの姿が、ありました。
「何なんですかっあれはっ」
苛立ちのまま、わたしはベッドにダイブします。
「白ちゃんがたいへんだって言うのにっ」
「月島サンのほうがいいのかなあ、先輩的には」
「何言ってますか白ちゃんのほうがいいに決まってますし!」
「う、うん、ぼくもそう思うけどさあ」
わたしは枕でばふばふ、空気を叩きました。
「だいたい煮え切らないんですよ、あのひとは!」
「た、確かに……」
「あの人が最初からはっきりさせてれば、こんなことにはなりませんでしたし!」
「それは、そうだね……」
「悪いのは先輩です!」
「そうだ!」
「断固、断罪ですっ!」
「ダンザイだ!」
拳を振り上げ、喚くわたしたち。
浅川せんせに胡乱な瞳で見られるに至って、ようやく冷静になりました。
「……ふざけてる場合ではありません」
「……そだね」
少し座る姿勢を変えて、頭を冷やします。体温にあっためられていないシーツが、おしりに心地よいです。
「ていうか、誰が悪いのかって言えばさ」
涙未ちゃんはタオルケットを抱き締めました。手持ち無沙汰だと、何かを抱えたくなりますよねえ……。
「そもそも月島サンが悪いんだから、あのひとに謝らせればいいじゃん」
「……それは、ちょっと」
「そう?」
「あのときの剣幕からすると、彼女がそう簡単に謝るとも思えませんし。それに、今更謝ってもらったところで、白ちゃんが元気出してくれるとは……」
「ああ……そうかもね」
白ちゃんが今のようになったきっかけを作ったのは確かに月島さんですが、根本的な原因は別のところにあるように思えます。
月島さんに言われた、ということではなく、白ちゃんが月島さんの言ったことを正しいと思っている、ということが本当の原因なんじゃないでしょうか。
つまり――
「白ちゃんは、体が弱いのが悪いんだ、と思っています」
「うん」
「それは、間違いですよね」
「そうだね」
「だから、それが間違いだって、白ちゃんに分かってもらえばいいんですよ」
「おお。もみじ、頭いい!」
わたしはすこし、得意になりました。
「ふふん。見習いなさい」
「うん。見習う。で、どうやって分かってもらうの?」
「あ」
わたしは硬直しました。
「……そこまで考えてなかったんだ」
「こっ、これから考えますし」
顔が赤くなってるのが、分かります……。
「涙未ちゃんも考えてくださいよ。って、何してるんですかっ」
涙未ちゃんの指が、わたしの頬をつつきます。
「いや、別に?」
にやにや笑いながら、涙未すけはつんつくわたしの頬をつつきます。
「真面目にやりなさいっ」
脳天チョップ。涙未ちゃんは黙りました。
「……いたい」涙目。そんなに痛くしたつもりもないんですけど。
「さあ、考えるんですよ。白ちゃんのために!」
「う、うん……」
それからしばらく二人で考えましたけれど、けっきょくいい案は出てきませんでした。
+ + +
「足、あげて」
「……もう少し、力抜いて」
「そう。そのまま」
保健室にときどき浮かぶ、一咲ちゃんの指示の声。
ケガした運動部のひとの、手当てをしているのです。
日は明けて、白ちゃんは今日も休み。わたしと、涙未ちゃんと、何の用事で来たのか一咲ちゃんの三人が、今日の放課後保健室メンバーでした。
そこにやってきた、怪我人の男子。折悪しく浅川先生はおらず、かと言って放置するわけにも行かないし、どうしましょう……となったところで、一咲ちゃんが動いたのでした。
一咲ちゃんは迷い無い動きで棚から薬や包帯などを取り出すと、
「そこに座ってください。傷を見せて」
といつものような無愛想声で指示、てきぱきと傷の様子を検め、手当てを始めました。
消毒、薬の塗布、包帯。
とてもいち生徒とは思えない、流れるような動作で処置を進めていきます。
じっと手元を見詰める一咲ちゃんの視線は、いつもよりすこしだけ鋭く、つまりいつもよりすこし、格好いいです。
誰も一言も喋らない保健室には、わずかに一咲ちゃんの衣擦れだけがありました。
静かで、おだやかで、だけど少しだけ傷と病のかおりがする、今の保健室はちょっとした非日常的空間になっていました。
やがてピッと包帯が巻かれ、一咲ちゃんは動きを止めます。
「終わり」
運動部男子の足から手を放し、顔をあげてそう告げる一咲ちゃん。
相手の方は、硬直していました。
「……?」
怪訝そうに首をかしげる一咲ちゃんを見て、ようやく正気に返ったのか。そのひとは慌てて立ち上がると、連れ添いの方に微妙に支えられながら、そそくさと保健室から出て行きました。
「……あれは、惚れたね」
ぼそっとした涙未ちゃんの呟きを、一咲ちゃんが電光石火で否定します。
「そんなことないでしょ」
……表情、変わってません。ストイック。
それっきり黙々と、手当てセットを元の場所に片付けます。あ、手先が微妙に震えているのは、気のせいでしょうか?
「それにしても、見事な手際でしたね」
ずいぶん、手当てするのに慣れてた様子でした。
「……そうでもないよ」
「わたしだったらあんなふうにはできないですよ。一咲ちゃんが居てよかったですね、あの男子も」
「先生に……言われただけだから」
「あ、そうだったんですか」
そういえば前も薬棚の整理なんかしてましたが、生徒にそんなことさせていいものなんでしょうか?
わたしの訝しげな表情を見てか、一咲ちゃんがすこし早口で付け足しました。
「本当は、私がそうさせてくれって、言ったんだけれど」
「一咲ちゃんが?」
「うん」
「どうしてわざわざ?」
「……いいでしょ、何でも」
拒絶ではなくただの照れ隠しなことは分かっているので、わたしは更に突っ込みます。
「いいじゃないですか、聞かせてくださいよ」
「手当てマニア……? 実は傷が好きだとか」
茶化す涙未ちゃんをはたいて黙らせます。
ずいぶんためらった後で、
「……私将来、看護師になりたいの」
一咲ちゃんはぽつりと、そう漏らしました。
「へえ……そうなんですか」
白衣姿の一咲ちゃんを、わたしは想像してみました。無愛想に注射器を構え、嫌がる患者さんに容赦なく針を突き立てる……。で、患者さんが、「あ、痛くない」とか呟くハイスキルな一咲ちゃんの姿。
「似合いそうですね」
「ちょっと怖そうだけど」
涙未ちゃんの声はぼそりと小さなものでしたが、一咲ちゃんは耳ざとく聴きつけて視線を向けました。
「ひっ」
即座にわたしの後ろに隠れる涙未ちゃんです。怖がるくらいなら言わなければいいのに。
「一咲ちゃんなら、きっといい看護師さんになれますよ」
「……どうだろう」
「なれますって」
「でも、私には、体が弱い人の気持ちはよく分からない」
「体が弱い人の、気持ち?」
すこし深刻そうな表情で、一咲ちゃんは俯いてしまいました。
「私自身はあんまり怪我したこともないし、病気といえばせいぜい風邪くらい。だから、本当は体が弱い人がどういう風に考えているのかとか、そういうことが想像できない。
……だから今、白にどういう言葉をかければいいのか、私には分からないんだ」
「……一咲ちゃん」
わたしたちと同じように、一咲ちゃんの気持ちにも、白ちゃんのことはずっとのしかかっていたのでしょう。
「どうして白が落ち込んでいるのかは、私にも分かる。でも、どう言って慰めたらいいのかは、私には分からない」
一咲ちゃんは顔をあげて、わたしを見ました。
「白の気持ち、葉桜なら、分かるんじゃない?」
それはどこか、すがるような目でした。
すこし悔しそうでもありました。
一咲ちゃんの問いかけが、わたしの胸に染み渡っていきます……、
わたしに、白ちゃんの気持ちは、分かるのか?
白ちゃんの憂鬱に共感することは、できます。
でも、いま一咲ちゃんが言っているのは、そういうことではなくて。
つまり――白ちゃんを、助けてあげられるのか?
……という、ことだと思います。
できるとは、正直、即答できません。だけど。
一咲ちゃんは、わたしにならそれができるはずだと、言ってくれました。白ちゃんと同じ、わたしなら。
そうです、わたしにできなくて、誰にできるんですか。
まあ、そこまで言い切ってしまうのは、すこし傲慢かもしれませんけど、でも、それくらいの気持ちになったのは確かです。気合入ったというやつです。
だからわたしは、敢えて言い切りました。
「分かりますよ。白ちゃんの気持ち」
隣で涙未ちゃんが、おお、と小さな歓声をあげました。
一咲ちゃんはちょっと未練がましそうではあったけれど、すこしだけ微笑んでくれました。
言い切ったら、それが本当のことになりそうな気がしました。
本当になればいい。
いえ、むしろ、そうならないといけないんです。