第一話
作中、若干のガールズラブ描写があります。苦手な方はご注意ください。
はぅ〜、おなかいたいです……。
ようやくトイレから脱出できました。うぅ、三十分も経ってますし。
今日は慢性ごろごろ型でしたから。トイレに行ってもスッキリしないという点で、慢性ごろごろ型はだいぶ厄介な部類に入る腹痛モードです。いつまたおなかのキカン坊共が暴れ出すか分からないので、トイレ三十分の激闘をくぐりぬけた今とて全く安心できません。
いつものこととは言え、わがおなかの不甲斐なさには呆れるばかりです。だめな子です。
「……はふぅ」
ため息つきながら、わたしはよろよろと歩き始めました。
目指す先はわたしたちの憩いの場。そこにさえ辿り着ければ、ひとまずの安心が得られるのです。
けれども、
「ううっ」
おなかを襲う鈍い痛みに、わたしは思わずうずくまりたくなります。今日のはちょっとタチ悪いようです。むう……。
心配です。ちゃんと辿り着けるでしょうか。現在地・トイレ前から目的地である憩いのあそこまでは、校舎の端から端へ延びる廊下を渡り、さらに一階分の階段くだりというハードワークをこなす必要があるのです。弱ったいまのわたしに、果たして無事やり遂げられるかどうか。
しかし――やらねばならない。
とどまっていても事態は進展しないのです。ひとは挑戦によって進歩してきたのです。歴史の必然です。前進あるのみです。前のめりで死ねよです。
ゆえに、わたしは大いなる第一歩を
「はぅ〜、」
踏み外してがくりと膝をつきました。
とゆうか、前進必須が歴史の必然ならば、ひとは一人では生きて行けないというのが社会の理ですし……。いまのわたしは孤独、留守番中にトイレのドアノブが外れたかのように心細い気持ちでいっぱいです。
どうしよう。
「さ、さくらちゃん、大丈夫?」
と思っていたら、天上から救いの声が降ってきました。
すこし細くて、やわらかい感じの、この声は。
「し、白ちゃんですか?」
「う、うん。おなかいたいの?」
「ええ……。ちょっと油断しました」
「えっと、立てる? 肩貸そうか?」
そうして欲しいのは、やまやまなんですが……。
わたしは、顔を上げました。
見慣れた女のこがわたしを心配そうな面持ちで見ています。その肩はとても細くて頼りなく、脱力気味のわたしがよりかかれば二人もろとも倒れてしまいそうなほどです。
「さくらちゃん、無理しないで」
「そ、そう、ですね」
いつもならば遠慮するところなのです。
でもいまは状況がよろしくなかった。おなかいたいんです。心の余裕なしです。そんなところに優しい言葉をかけられたら、心が揺らぐのも当然です。背に腹は代えられませんし……。
だから、気付けばわたしは口に出していました。
「た、助けてください」
白ちゃんはうん、と笑顔で頷いてくれました。
「えっと……どうすればいいかな」
「すこしだけ寄りかからせてくれれば、大丈夫です」
「こう?」
「うん、いい感じです。白ちゃんのほうも、負担になってませんか?」
「大丈夫。もう少しだけ寄りかかっても大丈夫だよ」
「はい……」
白ちゃんの細やかな心配りが、心に……というよりおなかに染み渡ります。だいぶ楽になりました。持つべきものはともだちです。友情ぱわーで腹痛マイナスごじゅっぱーです。友情ぱわー。甘酸っぱい響きです。恥ずかしいときの気持ちにも似ています、とゆうかまんまです。
「もっとゆっくりがいい?」
「いえ、ちょうどいいです」
つらかったら声に出さなくてもいいよ、と言ってくれます。うぅ、やっぱり白ちゃんはいいこです……。
わたしは白ちゃんに支えられて長い廊下を渡りきり、階段を何とか降りることに成功しました。
そして到着した、わたしたちの憩いの地。
それは保健室です! むやみにテンションが上がります。もう安心です。
白ちゃんが横引きの扉をがらりと開きます。
「失礼します」
中にいた白衣の先生が振り向いて言いました。
「やあ、衣花、……とハザか。今日は調子悪そうだね」
保健の浅川先生です。
「薬いる?」
「ぃぇ、だいじょぶです……」
「そか、あんまり無理しないようにね。ゆっくり寝ていきな」
「はい」
返事もそこそこに、わたしたちはベッドに向かって歩きます。
心配そうな声をかけてくれた浅川先生には申し訳ないのですが、衰弱し切った今のわたしには何より休息が必要なのです。
もうゴールすなわちベッドまでは数歩の位置。早く、横に、なりましょう。
視界の先で、ベッドを囲うカーテンが、窓からの風にゆるくそよいでいます。
白ちゃんがそれを開けてくれて、「あ」一声あげて固まりました。わたしも白ちゃんのちいさな体ごしにベッドを覗きます。
「……空気読めです」
思わずそんなことを呟いてしまったのは、そこにひとが寝ていたから。
タオルケットにくるまってすやすやと、よだれ垂らして寝ている女のこ。
「ああ、そこ、相坂が寝てるんだ」
先生の言う通り、わたしのベッドを奪って寝ている不届き者は相坂涙未ちゃんでした。
「起してどかそうか?」と、先生は言ってくれますが、
「ぃえ、だいじょぶです……」涙未ちゃんならば遠慮問答、一切無用。
「さ、さくらちゃん?」
わたしの行動に驚いた白ちゃんが声をあげますが、わたしは早く横になりたいのです。
「うー、」
とか唸りながら、寝ている涙未ちゃんの体を押し出します。外へ、外側へ。軽いからわたしの力でも何とかいけます。こにゃろう早く落ちろです。
どしーんというよりはずるずるだらーという感じで、涙未ちゃんはベッドからずり落ちていきました。ざまあみやがれです。
「る、涙未ちゃん……」
白ちゃんの呟きを後ろに、わたしは勝ち取ったベッドに潜り込みます。
そっとあおむけに体を横たえ、ほっと一息。
そして保健室の天井を見上げました。
そこは真っ白でまっさら。空気まで、何だか漂白されているような気がします。
背中にはやわらかなシーツの感触。それがゆっくりとお腹の痛みを吸い取ってくれます。痛みに眩んでいた視界がすぅっと元に戻っていって、ようやくわたしは落ち着きました。
「はふぅ」
ごろりと寝返り。せかいは四分の一回転。
横倒しになった身長体重計。
大小さまざまな薬瓶の並べられた棚。
流し台と湯沸しポット。
大きな窓には夕陽のだいだい――いつもの、ふつうの保健室。
何となく安心するわたしです。
「落ち着いた?」
じぶんのベッドに上がって体育座りとなった白ちゃんが、声をかけてくれます。
「ありがとう白ちゃん、助かりましたよ」
うん、と頷く白ちゃんは、こんとひとつ、咳をしました。
タオルケットを羽織った背中はちょっと曲がっていて、肩はびっくりするくらい細く、ときたま出る咳に合わせてちいさな体が揺れています。
白いを通り過ぎてわずかに蒼い顔には、わたしを気遣う表情が浮かんでいました。
白ちゃんは、いわゆる虚弱体質というやつなのです。そのせいでしょっちゅう調子を崩して保健室で休んでます。だからさっき、助けてもらうのにわずかな遠慮があったわけですけど……。
ちなみにわたしは腹痛持ちで、同じく保健室常連だったりします。
「横になったおかげで、ずいぶん楽になりました」
白ちゃんの表情がすこし、やわらぎます。青く儚い微笑み。いつもの白ちゃん。
「白ちゃんのほうは、調子どうですか?」
「私は、いつも通りだよ」
「……そうですか」わたしはその返事に、ただ笑顔を返します。
「そういえば今日は一人でしたね。一咲ちゃんは?」
「たまたま用事があるって。すぐに帰っちゃった」
「それは珍しい」
そんなふうに話をしていると、
「うぅ」
ベッドの下からうめき声。涙未ちゃんが頭をおさえながら起き上がってきました。
ていうか起きるの遅っ。ベッドから落っこったらすぐ目覚めてくださいよ人として。
「んぁ……」
寝ぼけた声を出して、左右を見回します。
「……めがね」
めがね、めがねともはや出典不明な伝統台詞を呟きながら、わたしの枕のあたりをまさぐる涙未ちゃん。わたしは顔を撫でられる前にめがねを渡しました。
「あ、ありがとう」めがねが頭の上にあったら完璧だったのに。
「おはよう涙未ちゃん」
「あ、もみじだ。おはよ」
愛用の下ぶちめがねをかけると多少しゃっきりしたのか、涙未ちゃんはゆるい笑顔でご挨拶。口元にくっついたよだれをぐいぐいぬぐいながら。
「ベッド、もらいましたよ。おなか痛かったので」
「うん。もみじなら許す」
偉そうな涙未ちゃん。あなたのじゃないですし。
「いつから寝てたんです? 昼休みくらいから消えてましたね。それからずっとですか?」
「うんそう。お昼ごはん食べたら、なんか眠くなったからさ」
「……今日来たの、いつでしたっけ」
「……いつだったかなぁ」
もう覚えてないんですか。三時間目の終わりでしょうが。
「あれ、今って何時?」
「もう三時です。授業も、ホームルームも終了。放課後ですよ」
「そっか。ガッコも終りだね。お疲れさま」
二時間未満しかまともな学校生活を送ってないひとの言っていい台詞じゃありません。
「うーっ、眠気も覚めたかなぁ」
盛大に伸びをしながら、心底気持ちよさそうな声出されたら何も言えません。
「ふふ、涙未ちゃん、寝癖できてるよ」
白ちゃんが楽しそうに笑って、涙未ちゃんの頭を軽く撫でます。
「んあ、白たん、くすぐったい」
涙未ちゃんは気持ちよさそうに目を閉じて、されるがまま。
白ちゃんに撫でられる涙未ちゃんは、なんだかペットちっく。イメージ的には逆なんですが……というか、わたしが白ちゃんを撫でたいです。わたし、白ちゃん、涙未ちゃんのなで連鎖。いいかもです。今は位置関係的にむりなのが悔やまれます。今度わたしが元気なときにでもやってみるとしましょう。
「ふふ、涙未ちゃんの髪の毛、わたぐもみたい」
白ちゃん楽しそう。
「ところでさ」
ふいに、涙未ちゃんが意地悪げな声を出しました。
「白たん、最近先輩の件はどうなのよ?」
「えっ」
驚き目を瞠る白ちゃん。
撫でていた手が引っ込みます。
俯き、見る見る内に顔が桃色に染まっていきます。
見てるこっちが恥ずかしくなるくらい、ものすごい変化です……。
「ううん、相変わらず……だめだめです……」
なぜか丁寧語で現状報告する白ちゃんの体が、すこし小さくなったように見えました。