表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/15

第9片 薄氷

お詫び

公開当初〈~2018.04.08〉と順番を大きく入れ替えた部分があります。

ネタバレを避けるため、詳しくは後書きにてお知らせします。

内容自体は変わっていないので影響はないかと思われますが、読み手への配慮が足りなかったことをここにお詫び申し上げます。


新年度が始まってから、ノットは多忙を極めていた。

新人の育成、特に手のかかる幼い双子の世話、書類チェックに冥王・ハデスへの定期連絡。

自由に使える時間など最低限しか残っていなかった。

しかし今朝、ノットは決意の表情で同期のヴィッキーを呼び出し、ヒメルの写真を託した。

「俺は調べることがある。この子を頼む」

ヴィッキーを選んだのは、彼女が自分と正反対の人柄だからだ。

それでヒメルが成長するのなら、そう言ってヘルメスはヒメルの元を離れた。

人を成長させるものは環境の変化だと、ノットは考えている。

いつまでも自分が守っていては、二人のためにならない。

彼らはあの面接の日、とっくに大人になる覚悟を決めていたのだから。

驚くヴィッキーが渋々承諾したのを聞き届けるや否や、ノットは部屋を飛び出した。

その手には数枚の書類の束。

ヘルメスが搬送された際に医師から手渡された、精密検査の結果報告書だ。

「現状では、視力の回復は見込めないでしょう」

「……そうですか」

わかっていたことだが、いざ耳にするとあまりに酷な内容だった。

あの歳で、失明。

それも狙撃を得意とする彼が。

前にヘルメスは優秀な参謀になると言ったが、それは実戦経験を積んだと仮定した上での未来予想図だった。

すでに年齢と体格というハンデを抱える彼を、このまま戦場に立たせるわけにはいかない。

何か対策を考えなければ――。

あれこれ考えを巡らせていると、医師が言いにくそうに口を開いた。

「しかし……ヘルメス君のデータに一つ、不可解なことが」

「不可解なこと?」

「はい、これを」

差し出された書類には赤いマーカーで丸が描かれている。

ノットは目を見開く。

確かに異常だった。

数値が、ではなく項目が、だ。

「……原因は?」

「不明です。通常の死神には起こり得ません」

ノットは頷いた。

医師の言う通り、長年軍人をしている自分も聞いたことがない。

こんな事例――死神の体内にソウル・エネルギーが存在している、だなんて。



「結論から言うと、死神や鬼の身体にエネルギーが入り込むなんてことはないよ」

書類の束を見下ろしていたドニールは、椅子ごとくるりと振り向いてニヤリと笑った。

隣には助手なのだろうか、犬耳の青年と帽子を被った華奢な少女が腰かけ、メモを取っている。

確かに珍しい症例だ、研究者が注目するのも当然のことだった。

「しかし実際、ヘルメスの体内からは検出されている」

「うーん。ま、考えりゃわかることじゃないの」

「は……?」

ドニールはコーヒーを啜り、苦そうに顔をしかめてから再び笑みを浮かべる。

「エネルギーを蓄積できる……つまり、現世の生き物なんじゃないのかね」

「まさか!」

ノットは反射的に否定した。

有り得ない。

ヘルメスは死神の仕事をこなしている。

魂鋏(セパレーター)を扱い、魂の回収を行っていた。

そもそも死神でなければ、冥界で生きていけるはずなどない。

精密検査だってその時点で引っかかるはずだ。

――しかし、どれも状況証拠だ。

ヒメルとヘルメスは肉親と呼べる存在がいない。

ルーツがわからないのもまた、揺るぎない事実だった。

「信じないならいいけどさ。でも直前に現世に行ってるわけだから、流入したならおそらく原因はそこだろうね」

「……博士、渡したいものがある」

ノットが鞄から頑丈そうなケースを取り出し、机に置く。

ドニールは目を細めて上機嫌に笑った。

「はは。何、信じないんじゃなかったの」

魂傷学(こんしょうがく)の権威たる貴方だから頼んでいる。彼らの平穏を取り戻してやってほしい」

「約束はできないよ。研究者は聖人君子じゃないんだ」

「大丈夫です!」

突然割り込んだのは、青年の声。

プロキオンがメモもそこそこに立ち上がり、ノットに訴えかけていた。

「ドニール博士ならやってくれます! 博士は僕のこと、助けてくれたんだから!」

「……勘弁しろよ、プロキオン研究員」

やれやれといった表情で肩を竦めると、ドニールはケースを受け取り中身を確認した。

液体――おそらく血液の入った試験管に栓がしてある。

ヘルメスから採取したものなのだろう。

ドニールはばつが悪そうに目を逸らしながらも、指でオーケーサインを形作った。

「わかったわかった。やれるだけやってみるよ」

「……すまない。感謝する」

ノットが去っていくのを見届けると、プロキオンが慌てて頭を下げ、謝罪する。

「すみません博士、勝手なことを言って……」

「別にいいけど、君、私のことを信用しすぎじゃない?」

「えっ、でも博士は僕の恩人で……」

「……はー、甘ちゃんめ。こりゃ将来苦労しそうだ」

ドニールはため息をつくと、コーヒーを啜ってまた顔をしかめた。

そして不思議そうな顔をしているプロキオンを尻目に、もう一人の研究員に視線を向ける。

セリカは飛び級してここに来たというだけあって、あの短時間でメモ帳にびっしりと文字を書き連ねていた。

天才というのは結局、発想力を地道な努力で強化した存在である。

核となる発想力がなければ、新しいものは生まれない。

その点で彼女は申し分ない天才だ。

「セリカ研究員、なぞなぞに答えてくれる?」

「へっ、なぞなぞですか?」

「そう」

セリカはいそいそとペンを置き、躊躇いがちに頷く。

ドニールも満足げに頷いて、おそらく用意してあったのだろう問いを読み上げ始めた。

「貴方は水を用意しなければなりません。手元には大量の氷があります。どうする?」

「……溶かしますね」

「その通り。しかし氷の中に一つだけ、毒入りの氷がありました。大変、氷は全部水になって混ざりあっている。どうしようか?」

「それは……」

セリカは言いにくそうに、目を逸らす。

「害がなくなるまで水を足して薄めるか、一度全部の水を捨てるか……しかありません、よね」

「その通り」

ドニールは再び頷いて、コーヒーをぐいっと飲み干した。

「あの、どうしてなぞなぞを」

「さて諸君。仕事に戻ろう」

「は、博士……」

「セリカ君にはこの書類を処分してもらおうかな」

「えっ」

渡されたのは大きな茶封筒。

言われるがままに受け取ってしまったものの、いやにずっしりと重いその感触にセリカは不安げな表情を浮かべる。

「もしかしてこれ、大事なものなんじゃ……」

ドニールは空になったカップをプロキオンに渡し、クックッと笑い声を漏らす。

「私が君に理解してほしいだけだよ。読むなり捨てるなり……まあ、勤勉な君は読むんだろうけど。じゃ」

手を振り、スキップで部屋を出ていくドニールをセリカが慌てて制止しようとする。

「ま、待ってください!」

しかし彼が立ち止まる様子はなく、セリカは床に散らかった書類で何度も足を滑らせそうになりながらドアの向こうへと消えていった。

先ほどまで賑わっていた大して広くもない研究室に、ぽつんと、犬耳の青年だけが残された。

「僕だって勉強してここに入ったのになあ……」

やはり天才二人はベクトルが違うのか。

少し情けない気持ちになる。

ドニールには研究の力になることで恩を返したいし、セリカには尊敬される人でありたいのだけれど。

そういえば、とプロキオンは考える。

どうして自分はセリカに尊敬されたいのだろう。

どうして自分はセリカが気にかかるのだろう。

彼女は以前、自分のようになりたいと言っていて、しかしながらそれを贅沢なことだとも言っていた。

セリカのことを、今に至るまで自分はほとんど暴けていない。

頭の両端、本来一対の耳がある場所に被せられた、まるで銀色のヘッドホンのような装置。

遠い記憶に思いを馳せながら、プロキオンはそれを手で弄ぶ。

かつて、ドニールからこの疑似痛覚発生器をもらうより前のこと。

プロキオンは全くの痛みを感じなかった。

物を壊したり、無茶をして怪我をしたりしては周囲に怒られ、心配された。

しかしそんなことは大した問題ではない。

プロキオンのトラウマとも呼べるほどの後悔は、人の痛みを理解できなかったことにある。

自分が痛みを感じないぶん、周囲に力の加減をせずに手を触れてしまい、何度も他人に怪我をさせた。

幸い全員軽傷で済んだものの、彼らが自分の理解できない痛みに喚き、怒り、悲しむ様を見るのは何だか恐ろしい光景だった。

しかし疑似痛覚発生器を手に入れたことで、彼の世界は百八十度変わることになる。

彼らからしてみれば、本当に恐ろしいのは自分のほうだったのだ。

自分が軽い気持ちでやったことは、暴力を振りかざし痛みを与えるれっきとした悪の行為であった。

身を以てそれを理解してからというもの、プロキオンはとにかく優しくなろうとした。

人の気持ちを第一に考え、関わった相手の心中をよく推察し、傷つけないよう、むしろ相手が傷つきそうになったら庇うくらいの気持ちで接してきた。

そうしているうちにプロキオンは気づく。

頑なに心を開かない人が確かに存在しているということ。

その心を抉じ開けるのはこちらの自己満足でしかないということ。

しかし自己満足に過ぎないと理解していてもなお、その心の奥深くをこの目で見て理解したいと思ってしまうこと。

セリカは、心を閉ざしている。

他の人たちはそうは感じていないのかもしれない。

それでもプロキオンは、いつか彼女の心の中をきちんと覗いて、彼女の望む言葉をかけてあげられるようになりたいと、そう思う。

「……ん?」

何気なく探ったズボンのポケットの中、指の腹を乾いた紙の感触が掠めた。

プロキオンは少し考えてから、さあっと血の気が引くのを感じた。

すっかり忘れていた。

もう随分前にドニールから渡された資料。

革命軍DWIBの鬼が立ち入った事件についてのデータだと言って渡されたものの、結局あの後セリカとデータを見る機会がなかったため、ポケットにしまっておいたのだった。

ドニールの前で発覚しなくてよかった、こっ酷くからかわれるところだった。

僅かな安堵と共に紙を開くと、紙面には縦長の表が記されており、文字列が細かく刻まれている。

表題は「関係者出入口の使用履歴」。

どうやら事件前後に出入り口で使われたIDカードの履歴が記録されているらしい。

件の配達員のID――つまり事件当日に犯人がカードを使用した箇所は、一際目立つよう赤字で書かれている。

プロキオンは表とにらめっこしていたが、ふと紙を顔から遠ざけ、眉をひそめて首を傾げた。

「あれ? こっちにもある」

見間違いかもしれない、瞬きをしてからもう一度確認する。

しかし事件の一週間ほど前、全く同じIDカードが使われた痕跡が確かに記録されていた。

――配達員が殺されたのが三週間くらい前だったかな。

ドニールの言葉を反芻して、プロキオンはさらに首を傾げる。

不思議なものを見つけた子どものように、一言。

「……日付が合わない」



「ノットさん、僕です」

声を潜めて呼びかけつつ、小さくノックをする。

深夜帯、それも突然の訪問だというのに部屋の主はすぐに扉を開け、ヘルメスを引き入れてくれた。

ヘルメスは安堵して息を吐いたけれども、次の瞬間にはその表情を曇らせた。

レンズの反射の向こう、薄暗い室内の闇に沈むノットの目の下に、色濃くクマが刻まれている。

「……すみません、ご迷惑をおかけしてます」

「謝るな。誰のせいでもない」

苦笑しながら、ノットはヘルメスの頭部に巻かれた包帯を見やった。

――負傷した範囲はこんなに広かっただろうか?

一か月ぶりに見る少年の顔は、療養中だったにも関わらず以前よりも険しさを増している。

ひとまず客人を椅子に座らせると、湯を沸かして二人分のカップに紅茶を淹れる。

ヘルメスはその水面に息を吹きかけて冷まし、一口だけ含むと話を切り出した。

「単刀直入にお聞きします。僕の怪我について、何かご存じありませんか?」

「……知っている」

ヘルメスが息を呑む。

向かい合う二人の背中に、重い闇がのし掛かって悪寒を走らせる。

ノットはヘルメスの言葉を引き出すべく、促す。

「こっちはある程度調べたが、ヘルメス。君は生きた症例だ。先に話してくれ」

「……見てもらったほうが、早いと思います」

そう言うと、彼は包帯の留め金を引き抜いて外し、しゅる、しゅると包帯を慎重に剥がしていく。

そして露わになった黒くひび割れた傷口を見るなり、覚悟していたはずのノットは僅かに顔を強張らせた。

ヘルメスは傷口を気にしつつ、語り始める。

「皮膚が剥がれ落ちていってるんです、だんだん広がってるみたいで……それに、あの、信じてくれるかどうか」

「信じるよ」

言い淀んだヘルメスを、ノットは真剣な目で見つめる。

一瞬押し黙ったヘルメスは、意を決したようにノットを見つめ返すと、突如自らの手のひらで青い瞳が輝くその右側の目を覆い隠した。

同時に、左側のひび割れた皮膚の奥に青い炎がちらつくのが見えた。

ぼんやりと青い光の玉が、まるで瞳のように揺れている。

ヘルメスはひゅっと息を吸い込むと、堰を切ったかのように喚きだす。

「見えないって言われたのに、おかしい……! 僕、こうして左だけでも、ちゃんと見えてるんです! 左目なんかもう、もうどこにもッ、ないのに……!」

感情の昂ぶりに呼応して、彼の左目の周りにひびが広がり始める。

やがて噛みついたサブレが崩れるように、細かい破片がテーブルにぽろぽろと落ち、軽い音を立てて小さく跳ねた。

ノットは思わず目の前で震える華奢な手首を掴んでいた。

「ヘルメス、落ち着け!」

荒い呼吸を繰り返し、次第に穏やかさを取り戻したヘルメスが一言、「すみません」と呟いた。

ノットは正直、この少年のことを過信していた。

子どもなのは理解していたつもりだったし、大人になろうとしていることも、大人扱いしてやるべきだということもわかっている。

それでも時々、彼が背伸びしているという明らかな事実を見失いそうになる。

かつて、ヴィッキーと同じ部隊に配属された際、二人して窮地に立たされたことがあった。

彼女がいつもの調子で「この戦争が終わったら酒でも飲みに行こう」と言って笑ったのを、自分は過剰な嫌味で一蹴した。

自分に依存してほしくなかった、たとえ一人でも生きてほしかった。

果してあの返事が最善だったのか――ノットはまだ、答えを出せずにいる。

「皮膚が剥がれ、視力は全快……か」

「それで、ノットさんに報告しようと戻って来たんです」

「わかった。しかし俺が調べていたものの中にその情報はなかった。俺にできるのはあくまで『可能性』の話だ」

「構いません」

ヘルメスがはっきりと頷いた。

それを確認して、ノットは懐からあの書類を取り出すとヘルメスの前に置いた。

「精密検査の結果だ。赤い印の項目は、君の体内に含まれるソウル・エネルギーの量を表している」

「え、僕の体内に……何ですって?」

「ヘルメス。君の体内には微量だが、おそらく現世へ行ったときのものだろう、外部からソウル・エネルギーが流入している」

ノットの突拍子もない言葉に、ヘルメスは耳を疑った。

何を言っているのかはわかる。

ただ、その内容が自分の常識の範囲を外れているために、事実として受け入れられない。

困惑の末、ヘルメスは静かに首を振った。

「……嘘だ」

「……当然の反応だ。だが、原因がソウル・エネルギーの流入にあるかもしれない。それだけ頭の隅に留めておいてくれ」

ノットの声は現実味がなく、どこか遠くから響いてくるようだった。

ずっと現実を見つめて生きてきたつもりだった。

姉を守って生きていくこと。

騎士として任務を果たすこと。

エネルギーは魂という器に収まるべきものだ。

あるいは燃池や燃料タンクのような入れ物に。

それがどうして――死神である自分の体内に。

放心する自分を見かねてか、ノットの爪先が机をコンコンとノックした。

「君の経過を観察する必要がある。療養は継続するが、ここで休んでいけ」

「……あの、」

この状態で姉さんに会いたくない。

言いかけて、ヘルメスは口をつぐんだ。

まるで我が儘な子どもではないか。

療養期間は続くと言っていた。

訓練に勤しむヒメルに会うことは、自分が気を付けていればまずないだろう。

「わかりました」

公開当初〈~2018.04.08〉

冒頭→ヘルメスの訪問→研究所の順


訂正後

冒頭→研究所→ヘルメスの訪問


時系列は冒頭でノットが異変を知り、一ヶ月の調査期間の中に研究所を訪れてドニールに専門的なことを依頼して帰り、宿で療養していた〈8話参照〉ヘルメスが報告のためにノットの元を訪れる……という流れになっております。

時系列の伝わりやすさを重視し、展開の通りに順番を入れ替えるに至りました。


今回の変更点を含め、ご意見ご感想、アドバイスなどいただけると嬉しいです。

ここまで読んでいただきありがとうございました!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ