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第8片 変貌その弐

日差しの眩しさに、ヒメルは窓に背中を向けるように寝返りをうつと、ゆっくりと目を開く。

昨夜は眠りが浅かった。

生まれてこの方、ヒメルはずっとヘルメスと共に暮らしてきた。

だから、一人で眠るのは初めてだった。

「こんなに広くなくていいのになぁ……」

一面のシーツは、温かいのは自分の触れている部分だけで、それより外側は白く冷たい雪原のようだった。

取り残されたかのような寂しさを忘れようと首を振り、ベッドを抜け出して顔を洗う。

冷たい水のおかげで思考が前向きさを取り戻す。

「……よし!」

鏡に映った弟そっくりの顔を見つめて、ヒメルは大きく頷いた。

「お、君が噂のちっちゃな新兵かい?」

寮の前で待ち構えていたのは、赤毛の死神だった。

健康的な肌を露出させた軽装の彼女は、にかっと人好きする笑みを見せる。

「ノットくんに言われてさ。今日から君のパートナーってことで、一つよろしく!」

「よ、よろしくね!」

慌てて返事をすると、赤毛の女はヒメルの頭めがけて手刀を振り下ろした。

ゴチン、と音が聞こえそうなほどの衝撃にヒメルは思わず悲鳴を上げる。

「敬語くらい使えるようになれよ新入りぃ! よろしくお願いします、セイ!」

「よ、よろしくお願いします……」

「よし! さっそく訓練行こうや」

じんじんと痛む脳天を押さえるヒメルの手を引っ張り、彼女は訓練所へと向かった。

彼女の名前はヴィッキーというらしい。

訓練所の更衣室に放り込まれたヒメルは、彼女から砂っぽいジャージを押し付けられた。

「はい、さっさと着替える」

「何ですかこれ」

「このヴィッキー先生のお下がり。君ちっちゃすぎて在庫ないんだもん」

そう言いつつ、彼女は薄汚れたシャツを恥じらいもなく脱ぎ捨てた。

ヒメルは慌てて半裸のヴィッキーに背中を向けると、口をつぐんでワンピースを脱ぎ始める。

ヴィッキーの使い古しのジャージはそれでもヒメルには少し大きく、ズボンの裾を織り上げて長さを調節しなければならなかった。

「お、似合うじゃん」

小麦色の手に頭をぐりぐりと撫でられる。

ヴィッキーの手だった。

「あ、ありがとうございますっ」

「ウンウン。じゃあヒメル、ひとまず……グラウンド二十周ね」

「えっ」

地獄に突き落とされた、とはこのことか。

実際には天国も地獄もなく、あるのはここ冥界だけだというのに、思わずヒメルはそんなことを考えた。




「おはようございます」

背後から投げ掛けられた声に、テーブルの拭き掃除をしていた少女は勢いよく振り向いた。

ウェイトレス服の上から白いエプロンをしたその少女は、その癖毛の隙間に覗く二本の角と、尖った耳という出で立ちから鬼であるとわかる。

少女――フキは少年の姿を認めると、はにかんで挨拶を返す。

「おはようございます、ヘルメスさん」

「あはは、さん付けしなくたっていいのに」

「そういうわけには……! ヘルメスさんには私、感謝してるんですから」

フキはかつて、運命に見放されていた。

ヘルメスとヒメルに出会い、仕事を斡旋してもらわなかったら、今でもあの男に虐げられていただろう。

「お礼ならノットさんに言ってくださいよ」

苦笑するヘルメスの左目には包帯が巻かれており、表情を変化させるたびに包帯の下を気にする様子が痛ましい。

先の革命軍の暴走のときに負傷したらしい彼が、荷物片手にフキの働く宿『老牝猫(グリマルキン)』にやって来たのはもう一ヶ月ほど前のことだ。

「療養中は絶対安静だそうです。地元に戻っても近所の人たちに迷惑ですから、すみません。宿代は払います」

淡々と言って頭を下げるヘルメスに、フキは血相を変えて宿主のチェシャに話をつけた。

チェシャは宿の名前に違わず、猫の姿をした年老いた死神である。

彼女はヘルメスを療養の間じゅうこの宿に住まわせることを許し、大人びた彼の右目を見て「子どもが子どもらしくしたって迷惑はかからないさ」とだけ言った。

フキはヘルメスの様子が気がかりで、ときどき彼の部屋を訪れた。

宿代の代わりだと言って昼間は家事や接客を手伝ってくれる彼は、いつも完璧な笑顔で、客からの評判も良かった。

しかしフキにはそれが少し恐ろしかった。

ヒメルについて聞けば、「姉さんは無事です。今頃、僕じゃない誰かと組んでいると思います。僕にはそれだけで十分です」と答えた。

完璧な笑顔で、完璧な答えを口にするヘルメス。

それはまるで、事前に用意したスピーチ原稿を読み上げているようで。

だから部屋の前にやって来て、入る勇気はとてもないので、いつもドアの前で考える。

一人でいるとき、笑う必要がないとき、彼はどんな顔をしているのか。

ドアの向こうに思いを馳せている間、彼が本心を表したのはたった数秒、すん、と鼻を啜った音だけだった。

「じゃあ、僕は下の階の手伝いをしてきますね」

ヘルメスは薄く微笑んで、フキのいる部屋を去っていった。

フキは濡れ布巾を片手に立ち尽くしていたが、我に返り慌てて自分の仕事を再開する。

しかし、やはり違和感が拭えない。

「……気のせいなんかじゃない、よね」

彼女は再度ヘルメスの姿を思い返した。

彼は療養中だ。

視力は回復しないかもしれないけれど、傷口はいつか必ず塞がる。

それなのに、どうして――日に日に包帯に覆われた部分が広がっているのだろう。




「よっしゃ、今日はここまでにしようや」

ヴィッキーが声をかけると、紫の髪を大雑把に縛り上げた少女が顔を上げる。

「はぁっ、はぁ、はいっ!」

息も絶え絶えといった感じはあるものの、返事そのものはハキハキとよく通る声になっていた。

その様子を見て、ヴィッキーは満足げに少女・ヒメルの頭を撫でた。

「だいぶよくなってきたじゃーん、ヒメルぅ?」

「はぁ、はぁ、ありがとうございますっ……」

「さて、風呂でも行こうかね」

手招きすると、ヒメルは疲れで身体が重いのだろう、ゆっくりとヴィッキーの後をついてくる。

これでも成長したほうだ。

訓練を開始して一週間は、ヴィッキーが引っ張ってやらないと動けないほどに疲れ果てていたのだから。

体力もついたし、敬語の使い方や声量も申し分ない。

その日の訓練が終わってから翌日の訓練開始までの間、ヴィッキーはヒメルに敬語を強要しなかった。

まだ幼い彼女にはメリハリが必要だ。

羽を伸ばせる空間がないと、あんな過酷な訓練をやっていくなんて不可能だ。

それはヴィッキー自身がよく知っている。

手を上げたり怒鳴ったりもしたが、総評として彼女はヒメルのことを高く買っているのだ。

ヒメルは突然組むことになった大人の、しかも暴力女を相手に、一度も恐怖という感情を向けることはなかった。

動じなかったにしろ、動じていないフリをしていたにしろ、戦場で持つ意味は同じ。

強くあること――ただそれだけが大切なことだ。

彼女は実戦においても、決して臆したりはしなかったという。

あの日の早朝、同期のノットに突然呼び出されたときは驚いた。

「俺は調べたいことがある。この子を頼む」

見せられた写真には、無垢な笑顔を浮かべる少女が映っていた。

嫌な予感を下卑た冗談で笑い飛ばす。

「なに、随分でっかい隠し子じゃんか」

「おい。ヴィッキー」

「で、この子がアンタの見込んだ新入り?」

聞けば、ノットは躊躇うことなく頷いた。

信じられない。

戦場を知らない子どもに、戦場を教えろというのか。

酷なことだ。

ノットはそれ以上の説明はせず、急ぎ足で去っていった。

「ヴィッキー先生?」

ヒメルの声が浴場の壁に反響する。

思い出していたノットの背中が湯気に掻き消され、ヴィッキーは現実に引き戻される。

「おー、どした?」

「ノッちゃん、なに考えてるのかな」

紫色の髪がたっぷりと水を含み、俯いた彼女の頬に貼り付いている。

ヴィッキーは可笑しそうにクックッと肩を揺らす。

「ノットくんはわかんない人だよなあ。先生もわかんないね」

「仲いいの?」

「いやいや、ただの同期よ。昔戦場で生きるか死ぬかってときにね、先生、アイツを励ましたんだわ。『この戦争が終わったら酒でも飲みに行こう』って」

「ノッちゃんは何て?」

ヴィッキーはどこか遠くを見つめて苦笑した。

「『お前とは一生飲みたくない』ってさ。失礼しちゃうよ」

十三年前の戦乱を知る二人は、戦に対する恐怖も、死体の臭いも心身にこびりついている。

動かない身体を無理に動かして笑ってみせたヴィッキーに、おそらくノットはわざと顔をしかめてみせた。

ヴィッキーにとって自分が心の拠り所にならないように。

そして彼にとっても、ヴィッキーが拠り所になってしまわないように。

あれは彼の優しさだった。

戦場で強く生き続けるための、不器用な優しさ。

ヴィッキーは安心させるように、ヒメルの髪を撫でた。

「まあ少なくとも、ちゃんと君のことを考えてるのは確かだよ」




卓上ランプの灯りが、部屋中を仄暗いオレンジ色に染める。

何をするでもなく木製の椅子に座っていたヘルメスは、その青い隻眼をドアのほうに向けた。

「開いてますよ」

ドアを留める蝶番がギイ、と軋んで暗闇の中から癖毛の少女が姿を現した。

少女――フキは落ち着きなく視線を彷徨わせていたが、やがておずおずと口を開く。

「あの、ごめんなさい私……その、包帯が……」

目尻の垂れ下がった彼女の瞳が、ちらりと彼の隠れた左目に注がれ、慌てたように再び逸らされる。

ヘルメスは苦笑を漏らし、傷口を気にしてか左頬に手をやった。

「フキさん、実はものすごく賢いですよね」

「えっ、そう、でしょうか……」

「そうですよ」

ノットに覚えろと言われて渡された資料の中に、こんな事項が書かれていた――死神は力は弱いが頭が良く、反対に鬼は力は強いものの頭脳では死神に劣る、と。

しかしヘルメスはフキという賢い鬼を知っている。

ヒメルという力持ちの死神を知っている。

もしやこれは印象操作の一種なのではないか。

確かに種族ごとの傾向はあるけれど、フキやヒメルの存在は「個体差」の一言で簡単に片付けられてしまう。

ヘルメスは、緊張からか口ごもるフキの目をじっと見据えて、語り始めた。

「気づいたのはフキさん一人でしたよ。明日には『このこと』を知る人も増えると思いますが……現段階ではあなただけです」

「……あの、どうして、抱え込むんですか?」

フキの指が彼女の纏う白エプロンを掴み、くしゃりと皺を作る。

「療養してるのに悪化するだなんて、私も、チェシャおばさんも、力になりたいって……」

「それが、悪化はしてないんです」

「……え?」

フキの目が見開かれた。

ヘルメスは驚く彼女に、完璧な笑顔を向けた。

「どうしてなのかは僕にもわかりません。フキさんにも、チェシャおばさんにも……おそらくノットさんにも」

「それでもっ、不安を半分こするくらいなら、私にも……!」

「……できないよ」

青い大きな瞳が、初めてフキの視線を拒絶した。

彼は包帯を留める金具を引き抜いた。

緩んで束になった白い布を、耳の辺りで両手を使って掬い取り、親指の腹で紫色の短髪を撫でるようにして頭部から外していく。

痛々しい傷口を覚悟して歯を食い縛っていたフキは、瞬間、目を疑った。

彼の左目とその周辺には、見るに耐えない、肉色の惨状が広がっているはずだった。

「できるわけない……だってこんなの、誰に……」

ヘルメスの声が少しだけ震える。


――瓦礫。


そんな表現が本当に相応しいのか、果たしてそれが傷口を形容する言葉として機能するのか、フキにはわからない。

ただ、彼の包帯の下に広がっている惨状は、まさに瓦礫のようだった。

左目があるはずの場所には、ぽっかりと黒い空洞が存在するのみで、眼球も睫毛も見当たらない。

黒い空洞から放射状に広がるのは、ガラスや石に穴を開けたときにできるような亀裂。

その肌は、言い換えれば崩れかけのパズルにも見え、今にも完全に砕けて欠片が剥がれ落ちそうになっている。

それは、肉体に起きている現象であるとは到底思えないほどの、無機質な破壊の痕跡だった。

「僕は……姉さんに嘘をつくのも、姉さんを傷つけるのも嫌なんです。だから、僕を姉さんと引き離してくれて、本当に……本当に良かった」

言葉を失うフキの目の前で、ヘルメスの無機質な傷口が再び包帯の下に隠されていく。

彼は包帯を巻き直すと、何事もなかったかのように笑顔を浮かべた。

「僕は明日の朝、この宿を発ちます。長いことお世話になりました……ありがとう、フキさん」

簡潔に別れを告げられ、フキはようやく我に返る。

何か言わなければ。

率直な疑問を投げかける。

「……これから、その、どうするんですか?」

「そうですね……。僕は、こんなナリでも社会人ってことになっちゃってますから、報告、連絡、相談……。姉さんには言えなくても、ノットさんには知らせなきゃ」

「そう、ですか……」

沈黙が流れる。

ヘルメスが、気をきかせたのだろう、業務的に笑顔で挨拶をした。

「遅くなっちゃいましたね。僕は寝ます、おやすみなさい」

「あっ、すみません、おやすみなさい!」

フキは慌てて部屋を飛び出そうと、ドアノブに手をかける。

しかし胸騒ぎは収まらず、焦燥に任せて声を絞り出した。

「……あ、あのっ、本当に、いつでもまた来てください! 私、ヘルメスさんのこと、大事ですから……!」

しかし、持ち前の引っ込み思案が遅れて作用してしまい、彼女は返事を聞かずに部屋を飛び出した。

勢いよく閉めた扉の向こうで、ヘルメスが何か呟くのが聞こえたけれど、内容までは聞き取れなかった。

フキは逃げ出したい一心で自室に向かう。

その途中、あの傷口を思い出してぞくりと皮膚が粟立った。

あれは一体何なのだろう、答えの出ない問いが頭にこびりついて離れない。

――姉さんに嘘をつくのも、姉さんを傷つけるのも嫌なんです。

初めて聞いた、ヘルメスの弱々しい声を反芻する。

――だから、僕を姉さんと引き離してくれて、本当に……本当に良かった。

フキはざわざわと波立つ心を抑え、白エプロンをぎゅっと握りしめる。

ヘルメスと長く居過ぎたせいか、彼の気持ちばかりを考えてしまう。

同じ恩人のヒメルを蔑ろになどしたくない、それなのに。

双子の姉のことを一番に想い、自分の悩みを押し殺す弟・ヘルメス。

彼にはもっと、せめてもう少し、自分を優先して生きてほしいと思う。

しかしそれは、実際には彼が願ったことではないし、彼が死んでも願わないであろうことだ。

「……これって、私のワガママ、なのかなぁ」

フキは重いため息をついて、自室のドアノブを捻った。

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