第7片 変貌その壱
目を覚ましたベッドの上で、ヘルメスは泣きじゃくる姉の姿を見た。
「あたしを怒って、怒ってよ、ノッちゃん……」
「怒っていいのは俺じゃない、お前の弟の権利だ。弟に怒ってもらえばいい」
「ヘレンは優しいから、怒ってくれなかったよ……」
「……だろうな」
姉の傍らに座る男・ノットが躊躇いがちに姉の背に手を置いた。
ノットに対して嫉妬する元気はなかった。
自分を守れなかったと言って悲しむヒメルを見ていると、わからなくなる。
本当に相手を守れなかったのは、自分のほうなのではないか。
自分を傷つけたのは敵の攻撃でも、ヒメルを傷つけたのは他でもない自分だから。
――あれから、駆けつけたノットらによって自分は病院に担ぎ込まれた。
「最善の手は尽くしましたが、その左目は、もう……」
歯切れ悪く告げた医者と、医者に掴みかかるヒメル、それを宥めるノット。
まるで自分が被害者のようで、気分が悪かった。
ヒメルが泣き疲れて眠ってしまうと、ノットは険しい表情で言った。
「君たちの才能も、意欲の高さも俺はわかっているつもりだ。だが、周りは認めようとしないだろう。誰もが、この仕事は君たちには早いと思っている」
「わかってます」
ヘルメスが頷くと、ノットはため息をついてから続けた。
「ハデス様に掛け合ってきたよ。条件は、君とヒメルを引き離すことだそうだ」
ヒメルとヘルメスは、良くも悪くも相互依存の力で生き抜いてきた。
しかし、誰か一人に依存している限り、兵士としての真の強さを磨くことはできない。
片方が欠けたときに取り乱したり、相手のために自己犠牲を考えるようでは戦力にならないからだ。
仕事に私情を挟まない――それが大人の掟だ。
「僕が離れることで、姉さんは強くなれますか」
「それはヒメル次第だが、彼女のタフさを一番知っているのは君だろう、ヘルメス」
「……はい。姉さんのことは、誰よりもよく知っています」
ずっと傍で見てきた。
ヒメルは可憐で、守ってやりたくて、それでいて芯が強くて、いつも自分を守ってくれる。
「ひとまず、君はその怪我が完治するまで戦闘への参加は禁止だ……それと」
ノットは訝しげに眉を寄せ、手元の書類を見つめている。
ヘルメスはその動揺を敏感に読み取り、声をかけた。
「どうしました?」
「いや、また改めて連絡する。今回はよく奮戦してくれた」
そう言い残して、ノットは灰色の髪を揺らしつつ、病室を出ていった。
「ドニール博士、頼まれていた資料です」
「あー、ありがとうね」
プロキオンとセリカが研究室に足を踏み入れると、博士は新聞紙を片手にホットドリンクを啜っているところだった。
よれた服や白髪混じりの頭髪も相まって、まるで休日の父親のようなその振る舞いにプロキオンがクスリと笑う。
「何を読んでらっしゃるんですか?」
セリカが問うと、ドニールは顔を上げて唸った。
「物騒だね。革命軍の小隊が暴走したらしいよ」
「えっ、怖いですね……」
怯えたように一歩下がったセリカを見て、プロキオンが苦笑する。
「でも本当に物騒ですよね。この前も、ここにドロボーが入ったし」
「あー……あれね」
ドニールは怖い話を聞かせる男児のように、ニヤリと笑ってみせた。
「革命軍の人だってさ」
「え?」
「いやね、ドロボー君の侵入経路なんだけど、資材搬入の定期便あるでしょ。それを担当してる配達員の遺体がね、どっかの路地裏で発見されたらしいんだわ」
ドニールは腕組みをして、搬入の出入り口がある方向を顎で示した。
「出入り口利用者の持ってるIDカード、殺して奪ったんだろうね。私の研究調べに来たんじゃないかな、ククッ」
「ちょっと博士、怖いこと言わないでくださいっ」
みるみる蒼白したセリカを庇うように、プロキオンが抗議する。
ドニールは悪びれる風もなく、一枚のデータを二人の前に差し出した。
「まあ……興味があったら読んでみるといいんじゃない。配達員が殺されたのが三週間くらい前だったかな」
じゃあね、書類ありがとう。
そう言ってひらひらと手を振るドニールに礼をして研究室を出る。
腕時計を確認すると、プロキオンは自分の腹の虫が騒ぎ出すのがわかった。
「もうそろそろだし、お昼行っちゃおうか」
「あ、ほんとだ。そうですね」
「ふふっ。敬語じゃなくていいのに」
「す、すみません。敬語が話しやすいので」
セリカが申し訳なさそうに笑う。
プロキオンはいいよと言って笑顔を返したけれど、なかなか自分に心を開いてくれないことが少しだけ残念だった。
彼女は飛び級という経歴のせいか、あるいは病弱で人とあまり関わらないせいか、周囲との距離を詰めることがどうも苦手らしい。
やっとのことで敬称抜きで名前を呼び合える関係にはなったが、まだまだ彼女はどこか遠くに自分の心を匿っている。
誰かから傷つけられるのが怖いのか、誰かを傷つけるのが怖いのか。
もしも後者だとしたら、無痛症というコンプレックスを抱えるプロキオンには、彼女の気持ちがよくわかる。
だからだろうか、セリカのことは何だか放っておけない。
「それにしても、革命軍が研究所に何を探しに来たんだろう。理由があるとしても、鬼を裏切ったドニール博士への復讐くらいしか思い付かないんだけどなあ」
ドニールは、ナラカシステムを否定する魂傷学の祖であり、ソウル・エネルギーシステムの開発に貢献した人物でもある。
この栄誉ある功績は、一方でナラカシステムの崩壊を招き、死神を支配階級に導いたこととも符合する。
彼は鬼たちから裏切り者として疎まれているために、あの死神だらけの研究所に唯一、鬼として籍を置いている。
「革命軍の考えることなんて、私たちにはわかりませんよ」
セリカの口から放たれたその言葉に反応して、プロキオンは獣の耳をぴょこりと動かした。
「セリカにもわからないことってあるの?」
「当たり前ですっ」
彼女は目を丸くして、いつもより力のこもった声で言う。
「私、よく考えるんです。人の気持ちとか、綺麗じゃない真相とか、そういう……知らないほうが幸せでいられることも、あるんじゃないかって」
「人の気持ちも?」
聞き返すと、セリカの表情が固まった。
失言したと思ったのか、そうじゃなくて、と呟くのが聞こえてくる。
プロキオンは、小柄な彼女と目線を合わせるように屈んで、怖がらせないよう囁くような声で告げる。
「僕はね、セリカの気持ちが知りたいな」
彼女は僅かに頬を染めて困ったように目を逸らすと、ニット帽の紐を掴んで深く被り直す、いつもの癖を披露した。
彼女が照れたとき、動揺したとき、こうやって帽子を被り直すのをプロキオンは知っている。
「セリカ」
「私は……」
目を逸らしたまま、彼女は曖昧な笑みを浮かべる。
「今、少しだけ、私がプロキオンになれたらいいのにって。贅沢ですか?」
「そんなことない。光栄だよ」
プロキオンが頷くと、彼女の表情が和らいだ。
自分になりたいと思ってくれるのは嬉しかった。
けれどプロキオンには、自分のどんな部分を見てそう思ったのか、どうして自分になりたいことが贅沢だと感じたのか、全くわからなかった。
どちらにせよ、彼女のことは今後少しずつ知っていくしかない。
彼は改めて「行こうか」と促して、セリカを連れ立って食堂へと向かった。