第5片 初仕事
※近親間恋愛要素があります。
石造りの壁の外側で、轟々と風が鳴いている。
ヒメルとヘルメスは顔を見合わせてから、目の前で棚引く銀髪を見つめる。
二人の前を歩くノットが、固く閉ざされた鉄の門の前で足を止め、振り返った。
「この向こうに川がある。そこを渡れば現世だ」
「ノッちゃんは来ないの?」
「ああ。これは新兵の実力を見るテストだからな。その代わり、これを持っていけ」
ノットは胸ポケットからワイヤレスイヤホンを二つ取り出すと、二人の小さな手のひらに乗せた。
赤と青の目がぱち、と瞬く。
ヘルメスが慌てたようにノットの顔色を窺う。
「通信機ですか? こんな高価なもの、いいんですか?」
「これなしでどうやって連絡を取るつもりだ?」
「それは……」
「職場でまで金の心配をするな。ハデス様は騎士団を信頼してくださっている」
「ねえねえノッちゃん、これどこまで詰めればいい?」
ヘルメスの心配をよそに、無遠慮なヒメルがイヤホンを右耳にぐいぐいと押し込みながら問いかける。
ノットはため息をつき、指先でヒメルの額をトン、と小突く。
「ううっ」
「耳痛めるぞ。全く……騎士になって子守りをすることになるとは。仕事内容はわかってるだろうな?」
二人は笑顔で頷き、声を揃えて答える。
「魂を切り離して、回収してくる!」
生き物はその命を終えるとき、本来自然に肉体と魂が切り離される。
魂は生前の肉体を模した姿となり、現世と冥界を結ぶ川の流れに乗ってこちらへと運ばれてくる。
しかし分娩を失敗する母子がいるように、時には肉体と魂が上手く切り離せない者もいる。
または無事に肉体から切り離されたものの、川の流れから逸れ、あらぬところを彷徨っている者もいる。
こうした魂を回収するのが平常時の死神の仕事だ。
実のところ、冥界の住人がこちらと現世を行き来するようになったのはつい最近――大戦により『ナラカシステム』が廃止され、現在の『ソウル・エネルギーシステム』が導入されてからのことだ。
そして今、王国騎士団は川の利用を独占している。
鬼は現世に足を踏み入れたことがないのだ。
ノットは閂を引き抜いて、観音開きの門を引き開けた。
――ぶわっ!
途端、三人は目映い光に包まれる。
「準備はいいか?」
光を背にして立つノットの表情は二人からは見えないが、強張った声から緊張感が伝わってくる。
「あ、ノッちゃん待って」
何だ、と言いかけたノットの目の前で、ヒメルがヘルメスの頬に唇を押しつけた。
「……なっ」
仕事中に何をしているんだ、そいつを止めてくれヘルメス。
ノットの願いも虚しく、ヘルメスは悪魔でも乗り移ったかのように意地悪な笑みを浮かべた。
「もう、姉さんったら。今日だけだよ」
子どもとは思えぬ色っぽい囁きを吹き込みながら、ヘルメスは姉の唇に吸いついた。
硬直するノットを尻目にたっぷり十秒は経過したであろう頃、ようやく二人は唇を離した。
「行ってきます」
「行ってきまーす!」
ノットは眼前で起こったあまりの出来事に放心し、ただ頷いて二人を見送った。
「変なヘレン。いっつもはお願いしても口にはしてくれないのにさ」
頬をほんのり染めて文句を垂れつつ、ヒメルは鼻歌混じりにマントを揺らして歩いた。
思いがけぬ褒美をもらえたことが嬉しいらしい。
「ごめんって」
人の気も知らないで、とヘルメスは苦笑する。
上官のことをノッちゃん、ノッちゃんと親しげに呼ぶヒメルを見ていると、どこの馬の骨とも知れぬ男に彼女を奪われるような気がして面白くない。
ともかく、愛しい姉の笑顔が見られて良かった。
ふと、彼女の携える大鎌に似つかわしくない、ピンクのフリルのワンピースが目に留まる。
この服で行きたいと言い出したとき、ノットは上部への伺いも立てずに二つ返事でオーケーした。
「王国騎士団にとって、灰色の迷彩がめでたいのは式典のときだけだ」
市民にとって、死神にとって、灰色の迷彩は戦争の象徴だ。
十三年前の大戦はいまだ世界に暗い影を落としている。
ぱしゃん、ぱしゃん。
目映いばかりの光を湛える川は存外浅く、二人は一歩ずつ足を踏み入れていく。
ヒメルが目を擦るので、ヘルメスはその手を掴み制止する。
「ダメだよ姉さん、目が傷ついちゃうよ」
「うん……」
目が慣れてくると、川の輝きで霞んでいた空がくっきりと見えるようになる。
ヒメルは頭上を見上げ、舌足らずに「キレー」と呟いた。
空は見たこともない濃度の漆黒に覆われており、しかしその中に無数の星々がちりばめられ、自己主張するように瞬いている。
小さな星屑が川の流れに沿うようにダイヤモンドダストの尾を引き、鮮やかな波紋を広げて川面に溶け込んでいく。
「あれが魂……」
今度はヘルメスが呟いた。
星屑の一つ一つをよく見ると、それは瓶のような透明な容器と、中に入った金色の液体で構成されていることがわかる。
現在冥界のライフラインを支えているのは、あの金色の液体――ソウル・エネルギーだった。
ソウル・エネルギーは現世で生きる全ての生き物に一定の速度で降り注ぎ、彼らが生来持っている魂の器(見たかぎり、あの透明な瓶が器であるということらしい)に満たされていく。
寿命を全うした者の魂には液体が満杯になっており、不慮の死を遂げた者の器にはまだ空きがある。
ソウル・エネルギーの重量ぶんの負荷が長年かかり続けた生物は、寿命により近づくほどに、まるで上から何かに押し潰されたかのように腰が曲がっていくのだという。
これらは死神にも鬼にも見られない性質だった。
魂から回収したソウル・エネルギーは、エネルギー庁にある融合炉に集められ「燃料」に変わり、地下パイプや燃料タンクなどによって国家機関や個人企業、各家庭に配給される。
燃料はモーターを回すときの動力源となり、明かりをつけ、火を起こし、湯を沸かして人々を支えている。
ヒメルとヘルメスの装着したワイヤレスイヤホンにも、小さな燃料タンク(燃料タンク製造最大手の企業が「燃池」という名称で商標を登録している)が入っていた。
「ヘレン、見て!」
ヒメルがはしゃいでヘルメスの手を取り、進行方向を指差す。
眼前に広がる光景にヘルメスも目を見開き、ヒメルの手を握り返す。
青い楕円体の星が、二人の行く手にどっしりと浮かんでいる。
周囲の空はうっすらと水色に染まり、筆で擦ったような白い雲が表面に浮き上がっていて、ところどころに差してある緑や茶色が目に留まる。
『二人とも、到着したようだな。その青い星が現世だ』
マイクロフォン越しのノットの声が、息を呑み、美しい星を見つめる二人の鼓膜を震わせた。
透き通った糸がゆらゆらと風に揺れて、空中に浮かぶジャムの瓶を地面に繋ぎ止めている。
大きく湾曲した鎌がその研いだばかりの刃先で糸を引っ掛け、しまいには地面との繋がりを切り離してしまった。
「これで全部かなあ?」
瓶をいくつも抱えたヘルメスは、ヒメルから回収した瓶を積み上げた瓶の頂上に乗せ、頷く。
「今日は十件って言ってたからね。姉さん、お疲れ様」
「ヘレンもお疲れ様! ノッちゃーん、終わったよ」
『ご苦労、現在収集した魂とリストの名前の照合中だ。次の連絡まで待機せよ』
「はい!」
返事をして、通信が切れたのを確認すると二人は石造りの塔の屋上、その縁に腰かけた。
「現世って変なところだねぇ」
ヒメルがのほほんと呟いて、ヘルメスに笑いかける。
ヘルメスも笑い返して、改めて辺りを見回した。
二人が腰かけているのは、四角柱の塔の頂上だった。
この塔も冥界にある建物に比べたらずっと高いというのに、周りにはまるで群生林のようにさらに天に近い建物が多く聳え立っている。
中には石の枠組みに全面硝子を嵌めてあったり、頂上付近にぼこぼこと歪な装飾のついたものもあり、今にも倒れやしないかと心配になるほどだった。
「僕たちの世界とここと、どっちが好き?」
ヘルメスが問いかけると、ヒメルは顎に手を当てて小考し、にっこりと笑う。
「どっちも!」
ヘルメスは思わず目を丸くした。
「へえ、僕はてっきり冥界って言うかと思ったのに! 何で?」
「だって、あたしたちの世界はこんなに真っ暗なとき、皆さっさと寝ちゃうでしょ? でも、ほら」
言って、ヒメルが指差したのは塔の下だった。
おそらく大通りであろうそこには、店や会社らしき明かりの他にも、たくさんの光が浮かび、通りを往復している。
確かに、冥界の夜はこんなに眩しくはない。
「ここの夜って元気だから、寂しくないみたい」
ヒメルの表情に一抹の影が落とされるのを、ヘルメスは何も言えずに見つめていた。
――何度も思ったことがある。
自分が双子の弟ではなく、もっと年上の兄としてヒメルを助けてあげられたなら、どんなに良いか。
たとえ万人から見たヒメルが天真爛漫な強い女の子でも、ヘルメスにとっては寂しがり屋でか弱い、たった一人の肉親だ。
「……でも、もしかしたら仕事が大変なのかもよ」
冗談めかしてヘルメスが苦笑すると、ヒメルは驚いたように目を開き、納得したのか苦笑を漏らした。
「ほんとだ、まだ帰れないのかも!」
大変だねぇ、他人事のように呑気なヒメルの声を最後に、会話は暫く途切れた。
ヘルメスは星を見上げたり明かりの往復を見つめたりしていたが、ふと確認した時計の長針が十分ほど移動していたのを見てぎょっとした。
さすがに、遅い。
「姉さん」
「ヘレンっ」
焦ったような、促音の強いヒメルの声。
彼女は耳に装着している通信機を示し、眉を下げて囁いた。
「通信、切れてる……」
回収した瓶は輝きを宿す川に沈めると、だんだんとその七色に融合して見えなくなった。
これで割れる心配なく冥界への運搬が完了する。
「ねえ、何が起きてるんだろ?」
ヒメルのあどけない質問が、川を辿って冥界に引き返す二人の緊迫感を和らげた。
ヘルメスはわからない、という風に首を横に振る。
「でも、ノットさんのことだ。僕らを置き去りにしたのにはちゃんと意図があるんだよ」
例えば、自分たち二人を守るためとか――証拠こそないがヘルメスは本気でそう考えていた。
もしも向こうで何かトラブルがあったとして、そこで自分たちを守ることを優先した場合、死神しか立ち入ることのできない現世にいるのが一番の防御となる。
――最近はこの辺りも物騒だよ。革命軍の連中がうろついてるらしいし。
あの親切な店主の言葉を思い出す。
革命軍DWIB。
特に近頃はその活動を活発化させているという。
もしも現在、ノットが彼らと交戦中なのだとしたら。
現実的を通り越したネガティブ思考の歯止めが利かない。
「姉さん、やっぱり現世で待機しよう!」
「どうして?」
突然の提案に、ヒメルはきょとんと不思議そうな顔をした。
ヘルメスは自分の考えた筋書きを話す。
「……だから、僕らを守ってくれているのなら、迷惑になるよ」
「ヘレンは考えすぎだよ~! ノッちゃんのことだもん、どーせ元気してここに皺寄せて出てくるよ」
ここ、と言いながら彼女は自分の眉間をトントンと二回突いてみせる。
ヒメルの楽観的で夢見がちな思考は、いつもヘルメスの心を和ませ、助けてくれる。
しかし今は戦いの中に置かれているかもしれない状況だ。
「でも! 本当に交戦中だったら、」
「その時は」
なおも食い下がるヘルメスに、ヒメルはニッと力強さを感じさせる笑みを浮かべる。
「あたしたちがノッちゃんのこと、助けてあげなきゃ」
決意のこもったその眼差しには、夢を見ているだけでは決して生まれないビジョンがある。
純真可憐なヒメルが、決して弟に守られるだけのか弱い姉ではないことは知っている。
「……そうだね。確かにそうだ」
ヘルメスは自らを諭すように頷いた。
ほどなくして、二人は冥界と川岸を隔てるあの門の前に到着した。
しかし、様子がおかしい。
門は閂が外れているどころか、二人を迎え入れるかのように開帳していた。
「やっぱり、何かあったんだ……」
門を通りすぎると、ひんやりと冷たい空気の満ちる石造りの廊下に差し掛かる。
二人はどちらからともなく手を取り合い、しんと静まり返った廊下を一歩ずつ進んでいく。
轟々と風の吹き付ける音がしていたのが嘘のようで、ごくりと唾を飲み込む。
ドンッ、ドンッ……。
時折、地鳴りに似た奥底から込み上げる唸りをもって地面が揺れるのが気にかかった。
しかし何が起こっているかわからない以上、迂闊に声を出すわけにはいかない。
……カラン。
びくっ、と肩が跳ねて全身が硬直する。
聞き覚えのある音だった。
カラン、カラン。
四角く切り出した石の敷き詰められた廊下を、僅かに擦り、体重を乗せて叩くような軽やかな足音。
廊下の奥、暗がりの中から人物が近づいてくる。
丈を短くし、パニエを仕込んだ派手な市松模様の着物。
カラン、カランと軽快な音を立てる漆塗りの下駄。
真っ黒なポニーテール、頭部に二本生えている角。
ヒメルが町でぶつかった、あの華やかな少女姿の鬼だった。