第2片 大人の世界と裏の世界
またまたお久しぶりです、きなとと申します。
今回は少しグロテスクな描写がございますので、注意してごらんください。
「君たちに常識がないのはよーくわかった」
ノットが、寄った皺を伸ばすように自らの眉間を揉みながら、呆れ顔でそう告げた。
目の前にいるこの子どもたち、ヒメルとヘルメスは十二歳にして職を探して町まで出てきたという。
つまり、学校に行ったことがないのだ。
だから普通の町人たちなら知っているはずの、生きていくためには直接は必要のない予備知識を備えていない。
確かに最初から異常だった、なぜ気づかなかったとノットはため息をつく。
ヒメルは採用試験のとき、ノットのことをうっかり殺そうとした。
ヘルメスは、話によれば町中で姉を助けるためにゴムパチンコを人に向けたらしい。
彼らには力がある、それは確かだ。
しかし経験が足りない、それもまた確かである。
ノットは二人の机上に、どさりと本の山を置いた。
「……ええと、ノットさん?」
ぎこちなく笑うヘルメスの頬が痙攣している。
察しが良くて何よりだ。
ノットはフンと鼻を鳴らし、上官用の椅子に腰を下ろした。
「今日中にそれ、全部読めよ」
「ええ~っ!?」
察しがついていなかったらしいヒメルが抗議の声を上げるが、聞こえないふりをした。
十分ほど抗議を重ねたが全く聞き入れてもらえず、ヒメルは仕方なしに『冥界の社会構造の変遷』という本のページをめくり始める。
――その昔、冥界は鬼が支配していた。
彼らは一本または二本の角、牙、そして尖った耳を持ち、驚異的な筋力を秘めている。
我々は今も死んだ地球生物の魂からエネルギーを得ているが、その頃はエネルギー調達の方法が少し違った。
その名は『ナラカシステム』。
生前の肉体の姿を保ったまま冥界に送られてくる魂を、鬼が拷問道具などを用いて『呵責』することで発生する苦痛をエネルギーとして集めていた。
これに異議を唱えたのが二十年前に発表された、魂傷学の権威・ドニール博士の論文『呵責における転生後の弊害』である。
この論文で取り沙汰された問題点は、呵責によって魂が負った傷が完全に塞がる前に転生した場合、転生後にその魂が肉体や心に悪影響を与えるというものだ。
特に、うつ病などの心の病の原因はこれによって生まれたのではないかという説は冥界じゅうを騒がせた。
心の病を負った魂は苦痛によるエネルギー還元に向いておらず、エネルギーとしての利用価値が下がるため、冥界で問題になり始めていたのだ。
この説を受けて蜂起したのが、当時被差別階級であった死神の頭領であり、現在の冥王でもあるハデスであった。
ここまで読んで、ヒメルは不満げに唇を尖らせた。
「ねえねえノッちゃん」
「誰がノッちゃんだ」
「これさあ、間違ってるよ。差別されたから差別し返したの? 何で友だちにならないの?」
ノットは先ほどの呼び名に苛立ち、顔をしかめながらも、ヒメルの言葉を聞いていた。
そして困ったようにその灰色の髪を掻き上げ、言い聞かせるように語った。
「仕方がないだろう、怨みは消えないんだ。今だって鬼も『革命軍DWIB』を結成しているし、和解は不可能に等しい。君たちは戦中か戦後の生まれだろうからわからないと思うがな」
「でも、フキとは友だちになれたよ」
ヒメルの赤い瞳が、不安げに揺らいでいる。
ノットはどうしたものかと考え込み、ヘルメスのほうに目をやった。
熱心に読書をしていたかに見えたヘルメスは、しかしヒメルの様子が気にかかっているらしく、ページがめくられることはなくなっていた。
読書しているふりをしつつ、自分では答えてやれない問いに聞き入っている。
大人びていても、ヘルメスは子どもだ。
だから、唯一の大人であるノットが答えるしかない。
「君たちはこれから働かなくてはならない。働くってことは大人と同等の扱いを受けなきゃならないってことだ」
大人は理不尽で、素直じゃない。
ノットだってそれくらい自覚していた。
「大人には、正しいことを正しいと言えないときがある。したいことをしてはいけないことがある。それが空気を読むってことだ」
わかっているのか、わかっていないのか。
ヒメルはぱちんと瞬きをして、ノットの顔をじっと見つめる。
居心地の悪さに、ノットは思わず顔を逸らした。
「何だよ、俺の顔に何かついてるか?」
ヒメルは首を横に振った。
「ううん。ノッちゃん、寂しそうな顔してたから」
「……いいからそれ読んどけよ」
ノットは立ち上がり、部屋のドアノブを捻る。
今は朝の訓練の時間であるため、薄暗い廊下には人気がなかった。
ポケットから煙草を取り出し、火をつける。
喫煙は身体に毒だが、自らの幼い部分を誤魔化してくれる。
年齢制限という看板を掲げることで、背伸びを助長し、大人を大人たらしめる。
大人は何もかもわかったような顔をしてはいるが、実際は空気を読んでいるに過ぎない。
――完成された大人などいてたまるものか。
ノットは紫煙を燻らせながら、二人の今後について考えた。
たっぷり知識を詰め込まれてパンクしそうな頭を押さえつつ、二人は店に向かっていた。
寮には売店が完備されており、生活必需品は大抵施設内で手に入る。
しかし二人はほかの騎士たちとは違い、まだ子どもだ。
つまるところ身の丈に合った服を調達するためには、町に出なくてはならないわけで。
「あーもう疲れたよー……」
ぐらり、とヒメルの身体が傾く。
ヘルメスは慌てて支えようと手を伸ばすが、少し遅かった。
すれ違った少女にどん、とヒメルがのし掛かってしまう。
少女はバランスを崩して壁にぶつかり、ヒメルは重力に負けて地面に崩れ落ちた。
「ご、ごめんなさい! お怪我はありませんか?……ちょっと姉さん、しっかりして」
「えへへ、ごめんね……」
少女に頭を下げ、ヒメルを助け起こしたところでヘルメスは少女をじっと見て、驚いた。
堂々とした佇まいだから気づかなかったが、彼女は被差別階級――鬼だったのだ。
年の頃は二人よりも少し上くらいだろう。
黒髪を赤いリボンで一つに結い上げ、白黒の派手な市松模様の浴衣を纏い、下にはふわふわのパニエを履いている。
こんなに着飾った鬼を見るのは初めてのことで、死神から嫌がらせは受けないのかなあ、と下世話な感想を抱かずにはいられない。
少女は何事もなかったかのように壁から身を起こし、ニヤリと笑みを浮かべて「いいわよ。許してあげる」と言って歩き出した。
からん、からんと下駄の音が遠ざかっていく。
ヒメルとヘルメスは彼女の後ろ姿を見送ってから、店に入った。
店内には、子ども向けの小洒落た服がずらりと並んでいる。
目を輝かせてあちらこちらを見て回るヒメルに苦笑しつつ、ヘルメスは店主に騎士として働くにはどんな服が必要になるか、などと質問をした。
店主はそういうことならとあれこれ世話を焼いてくれて、「頑張ってね」と頭を撫でてくれた。
結局必要なものに加えてヒメルが気に入った髪飾りも一つ購入し、店を出る。
帰り際、店主は二人を気遣うようにこんな話をした。
「最近はこの辺りも物騒だよ。革命軍の連中がうろついてるらしいし……暗くならないうちに戻るといい」
「テメェ、自分の立場わかってんのか?」
苛立たしげに声を張り上げた男が、手にしていた酒のボトルを壁に叩きつけた。
がしゃん、と甲高い破壊音が路地に響く。
男の耳は尖っておらず、角も生えていない。
どうやら死神らしい。
彼はなおも腹の虫が治まらないようで、握ったままのボトルの切れ口を目の前の少女に向ける。
「最近の鬼ってのは、どうしてこうも調子に乗ってるんだかな!」
少女はそんな脅迫に眉一つ動かさず、男の様子を興味深そうに眺めていた。
まるで虫を観察し、生態調査でもするかのような眼差し。
男は、少女が自分を見下していることに気づき、いよいよ顔を真っ赤にして怒り狂った。
「なめやがって、畜生! 痛い目見ねぇとわかんねぇらしいなあ!」
男は、ボトルを少女の頭部めがけて突き出した。
額に押しつけて突き刺してやろうという魂胆だ。
しかし少女は何食わぬ顔をして、静かに首を傾げる。
ボトルの切り口は彼女の尖った耳を掠め、彼女の背後へと通りすぎていった。
男が腕を元の位置まで引くより前に、少女は動いた。
左手を注ぎ口を握る肉厚な手の甲に重ね、ぐっと力を込める。
――ぐちゃり!
まるでトマトでも潰すかのように、男の手はあっけなく無惨な形となってしまった。
男は何が起こったのかわからず、しばらく瞬きを繰り返していたが、やがてガクガクと全身を震わせ始める。
叫び声すらも出せなかった。
やけに細くなった気管を通し、ヒューヒューと息を吸い込むので精一杯だ。
少女はにんまりと微笑むと、右手で男の顎を捉える。
「永遠におやすみ!」
叫んで、男の頭を壁に向かって叩きつける。
べちゃりと肉がひしゃげる音がして、それきり男は喋らなくなった。
少女は男の胸ポケットに手を差し入れると、一枚のカードを抜き取る。
「カード一枚で突破できちゃうセキュリティなんて、やっすいわねー」
そう独りごちて、少女は市松模様の着物の袂にカードを収納した。
「今日のお仕事終わり、っと」
少女は血まみれの男を放置し、路地を後にする。
しかしながら、今大通りに出るのは少々危険だ。
目撃証言なんてものが挙がれば困ったことになる。
こんなところで組織に迷惑をかけるわけにはいかない。
ここ最近、少女の所属する組織は規模を拡大し、勢いづいてきている。
そんなタイミングで手に入ったセキュリティーカードは、まさに組織の名前と同じ、「鬼に金棒(Demon With an Iron Bar)」であろう。
少女の名は梵火里。
十四歳にして、「革命軍DWIB」の実働部隊長を務めている。