第15片 オールトの些少
少女はかつて、運命を恨んでいた。
被差別階級という抗えぬ決まりに囚われ、自らの不遇を誰のせいにもできなかったから、すべて運命のせいにした。
しかし二人の恩人が目の前に現れると、少女の運命はみるみる好転した。
優しい店主は死神だったが、前の主人のように少女を虐げることはない。
唯一の気がかりは、その後恩人のほうに災難が降りかかったことだったが――それも今となっては昔の話。
「あの、面会お願いします」
「はーい。お掛けになってお待ちください」
鬼の少女・フキは小さく頷き、シンプルなパイプ椅子に腰を下ろした。
膝に乗せた包みを大事そうに抱え直すと、壁に貼り付けられたカレンダーをぼんやりと見上げる。
――西暦、二〇一八年。
何とか読めた、と安堵の息を漏らす。
ようやく新しい環境にも慣れてきたらしい。
フキの元いた冥界は、原因不明のエネルギー暴走により跡形もなく破壊された。
軍用施設の奥にある門を通って現世へと避難したものの、死神と鬼の存在を知らない現世の住人たちは驚き、恐れ、初め移民の受け入れを拒否した。
しかし上層部の辛抱強い交渉が功を奏したのか、現世の住人たちは一転して移住の話を呑んだようだった。
詳しいことはわからないが、フキにもわかることはある。
今後は死神が鬼を差別することも、鬼が死神を差別することもない。
移民である冥界人は、現世においては等しく地位が低いのだ。
「お待たせいたしました。どうぞ」
「ありがとうございます」
フキは一礼すると、包みを抱えて歩き出した。
少女の生きがいは、巨悪にその身を捧げることだった。
善人になることは叶わぬ夢だと、賢明な少女は理解していた。
だから正しくあることを望んだ。
ときには手段を選ばず、正しい歴史を刻むことを目指した。
たとえ差し伸べられた救いの手を払いのけてでも、少女は進む。
「室長!」
若い男の声がして、芹果は振り向いた。
彼女はスーツを身に纏い、胸元に小さな銅色のバッジをつけている。
「どうかした?」
「頼まれていた資料、届きました」
「ああ。ご苦労様」
男は急いで走ってきたらしく、鼻の頭に玉のような汗を浮かべていた。
男の耳は尖った形をしていて、頭には一本の細い角が生えており、その胸元には芹果のものと同じバッジが光っている。
ぜえぜえと荒い息を繰り返す男を口だけで労うと、芹果は書類に目を通す。
そこに記されていたのは、冥界人に施されたとある「処置」の経過である。
「あの……室長。これで良かったんでしょうか?」
男は躊躇いがちに問いかける。
芹果の部下にあたる彼は、仕事に道徳観念を持ち出すことを芹果が嫌っているのを知っていた。
はぁ、と彼女はため息を吐く。
「良かったも何も、こうするしかないよ。人から恨まれることを気にしてるなら、こんな仕事は早く辞めた方がいい」
芹果は現在、国連の運営する特別研究室の運営を任されていた。
冥界人でありながら、現世の組織に登用された理由は他でもない、芹果が今回の移民流入を成功させた一番の功労者だからである。
彼女は、ヒメルがホモ・サピエンスと髑髏型死神の間に生まれた子どもであり、現世に住む権利を有していることを主張した。
さらに、他の冥界人についても現世の脅威とならないよう最大限に配慮することを約束し、その証明に件の「処置」を行った。
現世の人々が危惧していたのは、冥界人との寿命の違いだった。
冥界人があらゆる面で現世を食らい尽くすのではないかとの恐れから、首を縦に振ることができなかったのである。
そこで芹果は――冥界人の寿命を修正した。
現世の生物と同じように、ソウル・エネルギーの器を持つことで現世生物と同じ寿命を得ることができる。
そのために芹果はヒメルに接触し、その遺伝子から冥界人の体内に魂の器を人工的に作り出す「ワクチン」を生み出し、大多数の冥界人に投与することを決めたのだ。
部下が言うように、その「処置」は確かに冥界人にとっては喜ばしいものではない。
しかし芹果は、またしても正しさを選んだ。
それで大勢の命を救うことができるのなら構わないと判断した。
部屋を出ていく部下の背中を見送りながら、彼女はぺらりと書類を一枚めくった。
「セリカ」
ふと耳元で囁く、懐かしい声。
反射的に振り払おうとして、乱暴に振るった腕が空を切る。
バサッ、と乾いた音を立てて書類が床に落ちた。
静まり返った研究室には、自分の他には事務用の机と、病的なまでに整頓の行き届いた本棚があるだけだ。
背筋を冷や汗が伝う。
少しでも気が緩むと、彼のことを思い出す。
嘘つきの自分を信じると言った青年。
彼が生前に押し付けた勝手な幻想が、芹果の決意を蝕もうとする。
それは美しい思い出ではない。
彼にまつわる記憶は、呪いだ。
レールを歩く自分に踏み切りの外から微笑みかける、優しげな悪魔だ。
芹果は書類を拾い上げ、虚空を睨みつける。
「口出しされなくても、私は絶対に、判断を誤ったりしない」
迷いを捩じ伏せるように、告げる。
「……そこで黙って見てて」
少女は、戦いの中でしか息ができなかった。
冥界の終焉によって、死神も鬼も「冥界人」という括りにまとめられてしまった。
戦う理由を見失った少女は、暴力を嫌う現世での暮らしに馴染めずにいた。
路地裏の薄暗い道を一人ふらついていた少女・梵火里は、壁にもたれかかって狭い空を仰いだ。
「……こんなことなら、やっぱり冥界に残るんだった」
行き場を失い、崩れかけた街を彷徨っていたとき、とっくに避難が済んだ人気のない道をこちらに向かって歩いてくる人影が見えた。
見覚えのある真っ直ぐなモスグリーンの髪、細い体と理知的な瞳。
それは紛れもなく、自分が地下牢に幽閉したはずの芹果だった。
「……アンタ、逃げられたの」
「おかげさまでね」
芹果は大きな書物を抱えたまま、表情を変えずに返事をする。
梵火里の胸のうちに浮かんだのは「良かったわね」という素直な言葉だったが、彼女を祝福できる立場ではないと思い直してぼんやりと頷くだけに留めた。
芹果が訝しげに梵火里を見つめ、面倒くさそうに語りかける。
「死ぬのは簡単だけど、生きる目的は自分で見つけるしかないでしょ。私たちを導いてくれる人はどこにもいないんだから」
「……アンタって本当、強いわ」
「弱いよ、この本すごく重いんだよ。ほら持って。大事なものなんだから慎重にね」
「何でアタシが……」
芹果は大きな書物を梵火里に押し付け、現世まで持ってこさせた。
今思えばあれは彼女なりの親切だったのかもしれない――いや、救助という正しい行為を選んだだけなのかもしれないが、結果的に彼女は梵火里を助けたのだ。
しかし、梵火里はいまだ生きる意味を見いだせずにいる。
芹果は早々に現世の人々に登用され、活躍していると風の便りで聞いた。
革命軍がなくなった今、梵火里は一市民に過ぎない。
金は奪うのではなく稼ぐものだし、命は壊さずに守るべきものだった。
そんな当たり前のことが、梵火里の目には随分珍しいものに映っていた。
敬愛する閻魔の消息は依然不明だ。
強さを誇っていた彼のことだからどこかで生きているに違いない、と言う者もいるけれど、梵火里にはわかっている。
証拠はない、けれど閻魔も自分と同じだとわかっている。
彼はきっと、戦いのある世界でその生涯を閉じる道を選んだのだ。
あのとき、芹果ではなく閻魔に会っていたら、こうして悩むことなく二人幸せに死んでいけたのかもしれない。
「……ヒメル」
憎らしいあの少女の名前は、今や現世に轟く有名なものとなっていた。
現世の人々と冥界人とを繋ぐ架け橋となった彼女は、崇拝と憎悪の対象として広く知られ、隔離されている。
ヒメルは神になった――梵火里はそう思った。
だから許せない。
彼女は生まれ持った能力で、ついに頂点まで上り詰めてしまった。
悔しくて、妬ましくて、憎くて、嫌いで嫌いで仕方ない。
――ふと、投げやりにアスファルトを蹴る爪先が、重量を持って横たわる何かを捉えた。
鉄パイプ。
建物に取り付けられたパイプの一部が破損し、落下した跡が見られる。
梵火里が拾い上げると、それは不思議と手触りよく手のひらにフィットした。
思い出すのは闘争を求める心。
ぼんぼりを象った愛用の武器を思いながら、肩に担ぎ上げる。
「……そうよね、こうでなくちゃ」
梵火里は赤い目を細めて、小さく笑う。
そして鉄パイプを構え、目の前の電柱に貼り付けられたヒメルの写真を、助走をつけて力いっぱい殴りつけた。
ある男は双子の才能を見いだし、武器をとらせた責任を果たそうとしていた。
ある女は彼を信頼し、その考えを受け入れた。
彼らのしていたことはもはや新人育成の域を超えた、言ってしまえば子育ての真似事だった。
「ノットくん何飲む? アタシはビール」
小さな喫茶店の片隅に、向かい合って腰かける人影。
ヴィッキーはメニュー表を忙しなくめくりながら、ニコニコと笑っている。
ノットは眉に皺を寄せ、ドリンク欄をじっくりと吟味していた。
「おい、これは大事な話なんだから酒はよせ。……俺はコーヒー」
「えーケチ。じゃあアタシはカフェオレ」
「……さて」
二人ぶんのメニュー表をファイルに差し込むと、ノットは切り出した。
「ハデス様の消息は依然わかっていない。お前はどう考える?」
「んー、でもノットくんはずっと門のとこにいたわけでしょ?」
ヴィッキーはお手拭きの袋を開け、せっせと両手を拭っている。
ノットは頷き、資料を取り出した。
「ああ。王国騎士団関係者の出国リストにもチェック済みだ。確かに見た」
「……そういえば、変な噂があったよねぇ。妙に信憑性があってさ、信じてる人もいたんじゃないかな」
「何の話だ」
「影武者。いたらしいじゃん」
ヴィッキーは悪戯っぽく笑って、お手拭きを畳み直した。
「……馬鹿な。噂は噂だ」
「そりゃそうだけど。あっ来た来た」
店員の運んできたホットコーヒーとカフェオレを見て、ヴィッキーはぱちぱちと手を叩いた。
ノットも小さく会釈をしてドリンクを受け取る。
「……ヒメルを狙う勢力も多いらしい」
「由々しき事態だねぇ。恨みを買ってるだけならまだしも、ハデス様の娘ってわかった途端に神様扱いし始める連中もいるし」
「それを守るのが俺たちの役目だ。わかってるだろうな」
「ハイハイ。アタシたちも逆恨みされちゃうってもんだよ」
二人は重く息を吐くと、それぞれのカップを持ち上げ、ホットドリンクの表面を静かに啜った。
ひとときの沈黙。
ノットがカップをソーサーに戻し、水面を見つめたまま呟く。
「俺は……責任を果たせているだろうか」
ヴィッキーもカップを置くと、にんまりと笑ってテーブルに肘をつく。
「ノットくんさ、護衛が一段落したら今度こそ飲みに行こうよ」
「……あのなぁ、前にも言っただろうが」
小さく吹き出してから、ノットは眼鏡を指で持ち上げ、わざとらしく顔をしかめてみせた。
「お前とは一生飲みたくないよ」
双子は、二つの世界の狭間に産み落とされた。
世界は次第に姿を変え、片方はその終焉を彼らに見せつけ、もう片方は二人を受け入れる器となった。
姉は清らかなまま無知を極め、弟は穢れを知ってすべてを目の当たりにした。
しかし彼らにとっては、そんなことはすべて些細なことだった。
「ヘレン、この星はなあに?」
「これは地球。僕らが『現世』と呼ぶこの世界だよ」
白い部屋の中、お揃いの真っ白な服を着たヒメルとヘルメスは、ベッドに座り込んで図鑑を眺めていた。
太陽系の惑星を描いた紺色のページを、二人は身を寄せ合って見つめている。
ヒメルが楽しそうに星を指差す。
「じゃあこれは?」
「こっちは火星。地球の隣にある、砂がたくさんある星だよ」
「これは?」
「天の川。僕らはここを通って地球までやって来たんだ」
「じゃあ、これは?」
「これは……」
灰色に塗り潰された小さな星。
隣の惑星との隙間を、黒いマジックペンで線引きされている。
「冥王星。僕らが元いた『冥界』だよ」
「冥王星? この子は仲間外れなの?」
「……地球と同等なのは、一つ前のここ、海王星までだね」
ヒメルは驚いたような、悲しい顔をする。
忽然、コンコンとノックの音が響きわたり、白い扉の向こうから深緑の天然パーマがひょっこりと覗いた。
「あの……」
「あ! フキだぁ!」
ヒメルは一転してぱっと顔を輝かせると、ベッドを飛び下りて荷物を抱えるフキに抱きついた。
慌ててバランスを保とうと踏ん張るフキに苦笑いしながら、ヘルメスは小さく頭を下げる。
あまりにも変わり果てた自分の姿に、彼女が少しだけ戸惑うのがわかった。
「フキさん、僕です。いろいろとすみませんでした」
「いえ、そんな……! あの、ヘルメスさんはどんなに変わっても、私、ヘルメスさんだと思いますから……」
「そうですか。……ありがとう」
ヒメルが首を傾げるので、ヘルメスがそっと髪を撫でてやると満足げに笑みを浮かべ、フキから一歩離れてヘルメスのほうに寄り添った。
フキは抱えていた荷物を差し出し、申し訳なさそうに頬を掻く。
「これ、ヒメルさん宛に預かってたものです。すみません、チェシャおばさんのことでいろいろあって遅くなっちゃって」
「チェシャおばさん? 何かあったんですか?」
「お年を召してましたから、不運な事故だったんです。配布されたワクチンの副作用で……」
「そうでしたか……」
フキが帰っていくと、部屋に残された二人はまた図鑑を眺め始めた。
国連の所有するこの隔離施設には、職員たちのほか、二人の世話係や専属医師、先ほどのように面会の許可を得た者たちだけが立ち入ることができる。
それ以外はずっと、ヒメルとヘルメスの閉鎖的なプライベート空間だった。
ヘルメスは、眼窩の青い炎を穏やかに揺らして微笑む。
「さっきの話だけどね、姉さん、『オールトの雲』って知ってる?」
「おーるとの雲?」
ヘルメスは白い尖った指先で、太陽系の外側を球状に覆う無数の星々を示した。
それは確かに雲のようにも見えた。
「冥王星はこんなにたくさんあるうちの一つだったんだよ。特別じゃなくても、寂しくない」
「そっか! あたしたちと一緒だね」
「え、僕たち?」
「あたしはヘレンと一緒にいれば、特別じゃなくても幸せだもん」
ヒメルは無邪気に笑って、ヘルメスの骨が露出した胴体を抱き締めた。
ヘルメスも愛しい姉の背中に手を回し、骨の先で傷つけないようにそっと抱き締め返す。
「僕も幸せだよ、姉さん」
ヒメルは自分の価値をわかっていない。
彼女は冥王の娘であり、人間と冥界人との架け橋であり、ワクチンの元となる唯一の抗体の持ち主でもある。
だからこそ隔離施設に閉じ込められ、外界を見る機会を極端に奪われていた。
外界にはヒメルを神と崇める連中がいる一方で、ヒメルを冥界人の敵として認識し、殺すことだけを考えている連中もいる。
そういった勢力からヒメルを守りつつも、その存在意義を独占しようとする大人もまた、数多くいる。
ヒメルは何も知らされていない。
その代わり、ヒメルを最も簡単にコントロールできる存在であるヘルメスがすべてを知っている。
二人は現在、そんな権力の渦に日々巻き込まれて生活していた。
それでも、二人は思う。
こうして抱き合っていられることが至上の幸せだと。
外の事情なんて些細なことに過ぎない。
自分たちを取り巻くどんな因子も、それこそオールトの雲のように、無数にある取るに足らない星たちと同じだった。
ヒメルにとってはヘルメスだけが、ヘルメスにとってはヒメルだけが、彼らの人生の太陽だから。
「ねえヘレン、もうずっと一緒にいられる?」
「もちろん。一人にさせたりしないよ、姉さん」
「絶対だよ? 約束して、ヘレン」
「約束するよ。絶対、姉さんと一緒にいる」
肉の手と骨の手が重なる。
青い炎と赤い瞳が見つめ合う。
「姉さん……愛してるよ」
「ヘレン、大好き」
硬度の違う唇が触れ合った。
西暦二〇一八年。
冥王星の崩壊により、冥界人たちは地球への流入を余儀なくされた。
国連は急激な惑星外移民の増加に対して、冥界人たちを「後天性人類」と呼称し、魂鋏と呼ばれる武器や金棒などの得物を取り上げ、人類と同じ寿命をワクチンによって与えることを義務付けた。
しかし髑髏型と呼ばれる死神だけはワクチン投与を行うことができず、また人口の急増による食糧難や犯罪の増加、「あの世」の崩壊による末法思想の流行などが問題視されている。
これは小さな星に生きた、ちっぽけな人々の話。
完
最終回でした。
ひとまずは完結させられたことが素直に嬉しいです。
次回作を書く機会があれば、そのときはまたよろしくお願いします。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。