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第14片 壊れた世界

痛々しい表現が含まれます。

「僕と姉さんの、本当の父親……冥王ハデス」

ハデスは静かにその言葉を受け止め、肩のマントを揺らした。

彼の首に提げられた銀のロケット。

カチリと音を立てて開かれたそこには、慈悲深い表情を浮かべる女性の姿があった。

「お前たちの母親だ。異形のお前たちを生む際に命を落とした」

写真の中微笑む彼女を見つめ、ヘルメスは言いようもない虚しさを覚えた。

母の目元は少しだけヒメルに似ている。

「冥界に帰ることになり、お前たちのことは私の親類に預けさせた。まさか騎士になるとは思ってもみなかったが」

ハデスに向き直ったヘルメスは、鉄球を一つ取り出してゴムパチンコの発射口に装填した。

それを見たハデスは息だけで小さく笑うと、尾骨を緩やかに揺らしてマントの向こう側から武器を取り出した。

三日月を象った銀色の刃を持ち、ハデスの背丈ほどもある長い柄を携えた大きな鎌。

魂鋏セパレーター……」

「私はいつも恐怖に基づいて動いている。みすぼらしい魂鋏を持った我が息子だとしても、脅威である以上は排除しなければならない」

彼の大鎌が、次第に燐光を纏ってぼんやりと輝き始める。

ヘルメスはゴムを引き絞り、照準を定めながら叫んだ。

「自分の安全のために、姉さんの幸せを踏みにじるのかっ!」

「……そうとも」

「……殺す!」

弾丸のように発射された球体は、鎌の側面を掠めて純白の壁に穴を開けた。

ハデスはただ少し、鎌を傾けただけだった。

そして嘲るように薄く笑う。

「殺しをするのか。『姉さん』はきっと悲しむなあ」

「姉さんに殺しをさせるくらいなら僕がやる……それだけだ」

低く唸って、ヘルメスが動いた。

先ほどと同様に渾身の腕力を以て引き絞られたゴム。

その先に握られた鉄球が、ハデスの鎌がそうであったように燐光を蓄え始める。

ハデスの瞳の炎がちらりと揺れる。

発射を確認したのとほぼ同時に、大鎌が鉄球を弾くように振るわれ、ブンッと空気を割く音をさせた。

しかし、鉄球は弾かれない。

軌道は予測より少し斜めに逸れ、ハデスの腕骨を掠めると、回転を伴って壁にめり込んだ。

「……当たった」

いける、とヘルメスは心の中で唱える――否、確証などどこにもない。

相手は先の大戦で鬼に反旗を翻した張本人だ。

自分の立てた計略の中で、今日が一番間抜けだった。

堪えきれずにクスリと笑う。

――諦めないこと。

この男に刃を届かせ、命を刈り取ってやるためにはそれしか方法がなかった。




「言い訳だよ」

ヒメルは大鎌を目の前にかざし、目まぐるしく駆け回っては仕掛けてくる梵火里の初撃をまず弾いた。

梵火里の顔が不服そうに歪む。

「何?」

「あんたが言ってたこと。殺さなきゃ生きていけないなんて、言い訳だって言ってんの」

ヒメルは一度退き、距離を取る。

弟と違って計略を立てることは苦手な性分だったが、ヴィッキーにさんざん愛の鞭を振るわれたため冷静な状況把握を行えるようになっていた。

狭い足場、落下すれば大ダメージ。

いつ直下で起こるかわからない爆発も気がかりだし、冥界が崩壊するのも時間の問題だった。

本当は、梵火里に構っている暇はない。

避難は順調だ。

しかし時間がないことに変わりはないし、何よりヒメルは本音を言えばヘルメスを探しだしてその手を引いてやりたかった。

――ヘレン、一緒に逃げよう。

夢の中で掛けてやれなかった言葉を、心の内で反芻する。

ヘルメスを見つけて共に避難するまでは絶対に、逃げない。

不機嫌を滲ませる梵火里に、ニヤリと強気に笑いかけてやった。

「あんたほんとは甘えんぼでしょ。あたしが構ってあげる」

挑発。

こんな手を使ったのは初めてだったが、効果は覿面てきめんであるらしかった。

浅慮の一撃。

力任せに振り下ろされた鉄塊は、本来の標的であるヒメルを見失ったことで、ヒメルが直前まで足場にしていた屋根瓦を叩き、粉砕する。

破壊された瓦はその衝撃波を周囲に伝播し、破片を散らしながら足場を大きく損なわせていく。

「チッ」

罠。

梵火里は舌打ちすると、武器を振り子のように揺らし、遠心力を利用する形で隣の屋上へと飛び移った。

欠けた身体を金属パーツで補強したはいいものの、歪な重さを伴う違和感はどんなにリハビリをしようと拭い去れるものではない。

ヒメルは高所を陣取ったことを生かし、足場を崩して梵火里を落下させようと目論んでいるらしい。

「……ふざけるな」

梵火里は目をいからして唸った。

嫌いだ。

ヒメルが嫌いだ。

世間知らずの子どものくせに、綺麗事を本物だと思い込んで大人の自分に説教を垂れる。

苦労した経験のないことも、勝ち誇ったような振る舞いも、自分と同じ赤い瞳も、全部、全部、全部大嫌いだ。

燃え盛る妬みの炎が、この心臓を炙って止まない。

「アタシがどんな気持ちで生きてるのか、何も知らないくせに!」




「僕たちが『脅威』?」

ヘルメスの射撃は、あれから一向にハデスの骨に達することはない。

しかし、懲りずに撃ち続ける。

角度もタイミングもさまざまに、憎き男の唯一の弱点を探し当てるようにしつこく、弾を放つ。

「僕と姉さんがどうやって生きてきたかなんて、知らないくせに」

思い出す。

今思えばハデスの親類であったのだろう、頼りの親類を早くに亡くし、近所の大人たちからの物質的援助では補い合えない「悲しみ」を二人で舐め合った日々のことを。

姉にはどう見えていたのかわからないが、ヘルメスにとってこの世界は、姉と二人だけの閉鎖空間のように感じられた。

姉を一番愛せるのは自分で、自分を一番愛せるのは姉だった。

手を繋げば百人力だったし、口づけを交わせば至上の幸せを噛み締められた。

それでも、ときどき姉は寂しげな顔をした。

自覚がないだけで、自分もそんな顔をしているところを姉に見られていたのだろうと思う。

初めから親なき世界を受け入れられる子どもなど、存在しない。

親は無条件の愛を子に注ぐもの――そんな幻想だけが膨らんで、顔も知らぬ親を欲して泣いた夜も星の数ほどあった。

「……それなのに」

歯をギリ、と食い縛る。

ハデスは自分たちの存在に、見て見ぬふりをした。

少し振り向いて、手を差し伸べることだって容易だったはずなのに。

遅かれ早かれ自分たちは、この男の「脅威を排除する」思惑のうちに命を落とすはずだったということだ。

嗚呼、これが「親」のすることか。

眼窩の奥、煌々と輝く炎が一際強く燃える。

「ううゥゥッ」

怒りのあまり言葉を忘れ、唸る。

バキッ!

――突如、前屈みになっていたヘルメスの丸まった背から激しく軋む音が鳴り響いた。

バキッ、ボキッ。

幾度も軋むような、骨折でもしたかのような痛々しい音を発しながら、背中が盛り上がり尖っていく。

ハデスの目の中、炎が呼応するように揺れた。

彼の声が静かに呟く。

「これは……本来の姿を現し始めたか」

軍服を突き破り具現化したのは、白骨を組み合わせて燐光を纏う翼だった。

ヘルメスは一度たどたどしく浮き上がり、数度羽ばたくと、骨組みの位置をパズルのように組み替えていく。

着地――そしてハデスを睨みつけ、飛翔した。

ゴムパチンコを握り、ハデスの真上から鉄の弾丸を放つ。

しかし未熟な翼では空中で水平を保つことすら上手くいかない。

薙ぎ払われた大鎌の軌道から寸でのところで逃げ出し、船の帆のように翼を広げ、スピードを落とす。

「うゥ、ぐウゥッ」

再び唸る。

メキメキと音を立て、腰の辺りから新たな突起物が生まれる。

それは飛行にあたって水平を保つための尾だ。

先ほどより安定感のある滑空を行ったヘルメスは、自分めがけて振るわれる大鎌の切っ先を避けて旋回し、尚もゴムパチンコを構えてはゴムを引き絞り、鉄球を放つ。

ドシュッ、パキッ!

鉄球がハデスの左腕に命中し、その体に大きな亀裂を刻む。

「くッ」

「や、やっ……」

た、と言いかけた瞬間大鎌の内側、鋭い刃がスパンと音を立てて「何か」を切り落とした。

ぐらりと大きく傾く視界。

何が起きたのか理解が追い付かず混乱していると、自分の体がバランス能力を失って大理石の床に墜落しつつあるのがわかった。

「うがッ!」

何とか受け身を取り、最低限のダメージで地面に激突したヘルメスは、状況を確認しながら起き上がる。

尾だ。

長い尾がまるでトカゲのように中ほどで切り落とされていた。

「あ、あぁっ……! うぐぁっ……」

歯を食い縛る。

怪我というのは、傷をその目で見ることで初めてそれ相応の痛みを自覚するものだ。

形状を無理矢理変化させた際の痛みも相当だったが、やはり第三者から切断される痛みはひとしおだった。

もがき、悶え、呻く。

しかし立ち止まってはいられない。

この男をここで負かさなければ、たとえ逃げ延びても自分と姉に未来はない。

絶対に諦めない。

ヘルメスの頭にはそれだけが、まるで呪縛のようにこびりついていた。




「殺す! 殺す殺す殺す、殺すッ!」

梵火里は壊れた機械のように同じ言葉を叫びながら、鉄槌を振り上げ、叩きつける。

粗雑な戦法だが、あんなやり方でもダメージの大きさはお墨付きだ。

一度当たれば圧倒的に不利になる。

そう直感し、ヒメルは逃げに徹していた。

しかし梵火里はその態度が気に食わないようで、野犬のようにぎらぎらと獰猛な瞳でターゲットを補足し、再び得物を叩きつける。

足場が粉々になっていくのには気づいていた。

嫉妬や憎しみだけでは勝てないことも。

それでも、梵火里にはそれしか手段がなかった。

「うあああっ――!」

絶叫。

そしてついに、一撃。

前の攻撃をかわしたヒメルの背中を鉄槌が捉え、殴打した。

「ぎッ」

短命な虫の断末魔にも似た、少女性を丸きり捨て去った惨めな声が漏れ出す。

ヒメルはぼろぼろに砕けた瓦の上に顔面から突っ込み、ゴポッと湿った音を伴って真っ赤な血を吐いた。

「がはっ、あグッ、ぅ」

体勢を立て直そうと腕に力を込めても、遠くから自分の咳き込む音が聞こえてくるばかりだった。

諦めない、諦めない、諦めない――。

言い聞かせるように決意を反芻するが、体は動いてくれない。

地面がぐらぐらと揺れ動いているような錯覚を覚え、平衡感覚が保てなかった。

「アタシが殺す……決まってるでしょ」

梵火里が得物を抱えたままふらふらと近づいてくる。

軽やかに鳴るはずの下駄の音は、積もった瓦の破片にすっかり吸収されてしまいジャリ、ジャリと引きずるような音を立てるのみだ。

ヒメルの苦悶の表情を見下ろす位置で、梵火里は歩みを止めた。

為す術もなく血を吐き天を仰ぐヒメルの、痛みにぼやけた不鮮明な視界の中、鬼の少女はひどく苦しげに顔を歪めている。

影を宿した赤い瞳が小さく揺れる。

「これで、アタシの名誉は……やっと……」

ぼんぼりを象った鉄槌が、渾身の力と激情を込めて今にも振り下ろされるかに見えて、ヒメルはぎゅっと目を瞑った。

脳震盪でも起こしているのか、地面がぐらぐらと揺れ動くのがわかる――いや、脳震盪ではない。

遠雷のような音が徐々に近づいていた。

「あっ?」

困惑した梵火里の、幼い声。

ドッ――!

エネルギー暴走による爆発だった。

轟音とともに足場となっていた建物に亀裂が入り、崩れ落ち、ヒメルたちは粉々の瓦共々吹き飛ばされた。




――意識が回復する。

目を開いてすぐ、ヒメルは土埃を吸い込んで血混じりの咳をした。

辺りには粉塵が立ち込め、爆発の影響で黒煙の筋もちらほらと見てとれた。

口元を覆い、手探りで得物を見つけようと試みたが、手近には転がっていないようだ。

舞い上がった粉塵が徐々に収まってくると、爆発のもたらした崩壊のおぞましさが露見する。

一面、灰色の瓦礫の山だった。

この爆発に巻き込まれてもなお、ほとんど無傷だった自分が信じられない。

ぞくりと嫌な汗が流れる感覚を圧し殺し、探索を進める。

先ほどまで殺し合っていた相手がどこかに潜んでいるのだ。

不意打ちされないよう警戒しつつ、得物を取り戻す必要がある。

手探りで調べているうち、瓦礫の中からゴホッと湿った咳の音がして、驚いたヒメルは一度手を引っ込めた。

しかし、そっと手を伸ばし瓦礫を掻き分けると、見覚えのある黒髪が隙間から覗いた。

梵火里だった。

崩れた建物の下敷きになって身動きがとれないらしい。

「ゴホッ、うぐ……はぁ、はぁ」

爆発のせいで怪我をしたのか、苦しげに息を荒らげている。

ヒメルは少しだけ考えてから、力強く声を張り上げた。

「今どかすから!」

瓦礫の中からは何やら不満そうな声が聞こえたが、ヒメルは聞こえないふりをして灰色の残骸をぽんぽんと後ろに放り投げ、退けていく。

彼女のお節介によりようやくその全身を再び外気に晒した梵火里は、痛々しい傷口こそ見られたものの命に別状はないようだった。

「……死んだほうがマシだったわ」

苦しげな咳の後、梵火里がぽつりと呟いた。

愛用の得物をなくし、宿敵には命を助けられる。

屈辱だった。

「殺してくれれば良かったのに」

ヒメルは唇を尖らせると、能天気にもこんなことを言い放った。

「あんたって意地っぱり。そのワガママもうやめたら?」

「はあ?」

「殺し合う以外にも、いろいろあるじゃん。自分ひとの生き方って」

ヒメルは口の端から顎を伝う血を拭うと、避難者たちの向かった方向を指差した。

「出口はあっち。……あんたのことどこにも行かせてあげないって言ったけど、違ったみたい。あたし何もしてないもん。あんたが勝手に迷ってただけで」

「ヒメル!」

張りのある声が響く。

ヒメルが振り向くと、軍服を纏った赤毛の女性が駆けつけるところだった。

「ヴィッキー先生!」

「持ち場離れて何してんだよ! その怪我は?」

「えっと、これは……」

状況説明を始めるヒメルと、心配そうに話を聞くヴィッキー。

それをどこか遠い世界の出来事のように眺めながら、梵火里は考える。

ずっと信じていた。

ここは殺し、殺される世界だと。

だから殺した。

殺されないために殺した。

明日を生きるために殺した。

自分ひとの生き方には選択肢があると、ヒメルは言った。

違う。

生き方が選べる存在に生まれていたら、殺しなんか経験せずに済んだはずだ。

選択肢があるのは他人ひとの生き方においてだけで、自分の生き方はあらかじめ決まっていたのだと、そう思う。

殺せ、殺せと命令する声が耳にこびりついている。

それすらも嘘だというのなら、自分や閻魔が嘘つきにされてしまうのなら。

「……アタシは、やっぱりどこにも行けない」

あんたが勝手に迷ってただけ、とヒメルは言った。

その通りだ。

革命軍DWIBは、迷い子の集団だった。

誰かにへつらうことも、ルールに従うこともできない人々の集まりだった。

正しい判断をねじ曲げてでも異端であることを貫く頭領。

正しくあるためなら自分も他人も犠牲にする参謀。

殺し合いの中にしか生活を見いだせない実働部隊――梵火里もその一人だ。

きっと自分たちは永遠に迷い続ける。

それこそ自分以外の何かに殺されるまでは、永遠に。

「そんなわけだから、君も避難を……あれ?」

「梵火里?」

二人が振り向いたときにはもう、迷子の鬼は姿を消していた。




大理石の廊下に、重い足音がこだまする。

体の半分を鉄板で補った大男――閻魔は、金棒片手に我が物顔で王宮を闊歩していた。

「結構好き勝手してくれてんじゃねーか」

先代の冥王である父がいた頃の王宮を思い出し、クックッと笑いを漏らす。

まるで当時の痕跡を残すことすらも厭うかのように、調度品も材質もすべて入れ替わっている。

臆病者のハデスのことだ、その手にかけた先代の冥王を思い出すきっかけを少しでも減らしたかったのだろう。

ハデスの怯える顔が目に浮かぶようで、閻魔はクスクスとまた笑った。

世界が終わりつつあるというのに、今日の彼はすこぶる機嫌が良い。

いや、世界が終わるからこそあらゆる苦しみから解き放たれたような、一種の興奮状態にあるのかもしれない。

少なくとも、閻魔はこの先に待ち受けるハデスとの再会を楽しみにしていた。

「おっと」

重量のある足音がぴたりと鳴り止む。

ハデスのいる部屋の前、隙間なく閉じられた厚い扉の手前で立ち止まると、閻魔は小さく首を捻ってからひょい、と軽快に一歩後ずさった。

ドンッ!

勢いよく扉が開き、中からぼろぼろの白い塊が転げ出てきた。

うー、うーと獣のように唸るそれをじっくりと見下ろしてから、閻魔はニヤリと口角を上げて、床に転がったままのそれを跨いで部屋に足を踏み入れた。

「親子水入らずのところ邪魔するぞ」

「……何をしに来た」

ハデスは片膝をついて大鎌の柄を握りしめていたが、大儀そうに息を吐いて訪問者を見据える。

閻魔はそれには答えず、歪な笑みを貼り付けたまま、廊下に転がった白い塊を顎でしゃくった。

「ありゃあ、急な形態変化のし過ぎだ。その辺にしないとお前ら死ぬぞ」

「私が負けるとでも言うのか?」

「ハッ。よく言うよ」

閻魔は床に散らばる白骨の破片と、ハデスの庇うひび割れた左腕を見て、鼻で笑ってみせた。

「邪魔を……するな……」

白い塊がのそりと起き上がり、よろめきながらも壁を伝って部屋へと戻ってくる。

一歩また一歩と足を動かすたび、カツン、カツンと固い音が生まれては床を這っていく。

その姿は、当初この部屋を訪れた彼――ヘルメスのものとは全く異なっていた。

半ばで切られた尾骨に、アンバランスな片翼の羽。

立派な蹄のある足、鹿のような頭蓋骨。

体躯は小さいままだったが、その風貌は冥王ハデスの縮小コピーと言っても過言ではない。

ヘルメスは眼窩の奥の炎を爛々と輝かせ、感情のままに言葉にならない唸りを発する。

バキッ、ボキッと痛々しい破壊音が再び彼の身を蝕み始めた。

更なる形態変化を行おうとしているらしい。

「あーあー、無茶だって」

閻魔は呆れたように首を振ると、咆哮するヘルメスの横面を金属の腕で思いきり殴りつけた。

「うがっ」

大きくノックバックしたものの、倒れ込みそうになるのをかろうじて踏みとどまると、ヘルメスは閻魔をきつく睨みつけた。

「怖い顔するなよ。コイツが許せないのは俺も同じだ」

「だったら止めるな! コイツは僕がここで殺す」

「汚れ仕事は俺に任せて逃げろって。姉ちゃん泣かせたら意味ないぞ」

姉ちゃん。

その言葉を耳にした瞬間、ヘルメスはぴくりと肩を跳ねさせ、改めて閻魔の顔を覗き込んだ。

半分は肉の身、もう半分は鉄板で覆われた左右非対称の顔には、楽しげな表情が浮かんでいる。

「姉さん? ……姉さんに会ったのか?」

「会ったよ、お前にも会ったさ。随分前の話だ。やっと正気に戻ったか」

閻魔と会話する中で徐々に冷静さを取り戻しつつあったヘルメスは、小さく頷いた。

思い出した。

初仕事の日、梵火里と対峙し互いに負傷したあのとき、気絶した梵火里を迎えに来たのがこの男だった。

データベースで何度も見たことのある、風変わりなその顔。

王国騎士団ロイヤルリーパーズにとって最優先殺害対象であるこの男は、革命軍DWIBを率いる極悪人だ。

しかし現在、ヘルメスはこの男に命を守られようとしている。

ヘルメスは歯噛みした。

復讐を遂げずに逃げることには、どうしても抵抗がある。

姉のためにも、諦めないと誓った。

自分を犠牲にする覚悟もした。

死ぬ気で食らいつくと心に決めた。

だからこそ、姉のことは自分のワガママを聞いてくれるであろうフキに託したのだ。

確かに子どもの自分では力不足かもしれない。

だからといって敵対する閻魔を信用することはできない。

決めあぐねていると、閻魔が鋭く怒鳴った。

「いいか、邪魔なのはお前だ! とっとと行け」

「それでも僕は、コイツが」

許せない――。

そう口にしかけたが、焦れた閻魔がヘルメスの破れた軍服の襟を掴み、廊下側に追いやった。

そしてごつごつとした突起がまばらについた太い金棒を構えると、それきり彼が振り向くことはなかった。

ハデスも既にヘルメスのことなど気に留めておらず、閻魔に向けて大鎌を構え直す。

今ならハデスの隙をつき、パチンコでその眉間を射抜くことも可能だろう。

ヘルメスは発射台を握りしめて――しかし二人に背を向け、一心不乱に廊下を駆け出した。

どうして走っているのか、自分でもわからなかった。

心の中にはまだ戻れ、戻れ、復讐を果たせと自分の声が響いている。

それでも足を止めることはできない。

ヘルメスは自らの蹄の音を聞きながら、息も絶え絶えに叫ぶ。

幻想にまみれたその名前を、憎むべき男の姿に重ね合わせて。

「父さん……さようなら」

別れを告げた。




「ずっと思ってたんだ。臆病者のお前が、先陣切って戦うわけがないってな」

破壊の痕跡だらけの部屋に二人、大男が背中合わせの状態で座り込んでいた。

一人は深い傷からドボドボと多量の血を溢し、もう一人は頭蓋骨の半分が欠けて大きな穴が開いていた。

両者とも、武器をとる余裕など到底ない。

「影武者だ。終戦と同時に戻って、影武者を殺し、私が王になった」

「ハハッ、だろうと思ったよ。かと思えば今度は子殺しか。優秀だったんだな」

「ああ。嫌になるほど優秀だったよ」

「そうかそうか……そりゃあ」

閻魔の笑い声が途絶えると、沈黙が訪れた。

王宮の外では、収まる様子のない爆発音が轟いている。

閻魔は自分が粉々に砕いた調度品を眺めながら、呟く。

「……臆病は健在だな」

「……残念ながらな。情けないよ」

ハデスは自らが切り落としたタペストリーを見つめ、長い息を吐いた。

「死ぬのは怖いなぁ……」

ふと、背中越しに笑う気配がした。

閻魔が穏やかに返答する。

「安心しろ。俺が一緒に死んでやる」

地面が震え、方々に亀裂を刻む。

轟音とともにエネルギーが炸裂し、二人の姿は白い光の中に飲み込まれていった。




タイムリミットは刻一刻と迫っていた。

避難者たちがパニックを起こさぬよう、避難先の現世へ続く道を取り仕切るのがノットたちの任務となっている。

「大方避難は完了しましたね」

「……ああ」

同僚の発言に眉を寄せ、ノットは曖昧に頷く。

未だ門周辺に現れることのない双子――特に療養中のヘルメスのことが気がかりだった。

避難誘導任務に就いていない彼が、任務中のヒメルより遅くここを通ることはないはずだ。

「ノットくん」

女性の声は心なしか沈んでいた。

現れたヴィッキーは、浮かない顔をして俯くヒメルを庇うように並んで立ち、報告を行う。

「少し探したけど、ヘルメスには会えなかった。先に避難したんだよね?」

語尾に力がこもっていた。

ただ黙って頷いてやれ、ヒメルを励ましてやれという諦めの念が読み取れる。

ノットは唇を噛んで逡巡したが、弟想いの純真な少女を前にしては、嘘をつく勇気も真実を伝える勇気もなかった。

「ノッちゃん……?」

勘の鋭いヒメルが、不安げに名前を呼ぶ。

何か答えなければと口を開いた、その時だった。


ドォッ――!


一際激しい爆発音がして、街がばらばらと崩れ始めるのが見えた。

早急に避難しなければ、この場所ももう危ない。

兵士たちも、準備ができた者から小走りで門を通り抜けていく。

ドンッ、ドンッと度重なる爆発が起こり、街が白く発光しては煙を上げて壊れていった。

「行こうヒメル」

「先生……ヘレンは」

「行くよ!」

ヴィッキーは焦燥に駆られ、ヒメルの手を掴んだ。

ヒメルは強い握力にぎゅっと目を細めて、腕を引かれるままに小走りで避難を開始した。

長い石畳の廊下に兵士たちの靴音だけが満ちる。

最後尾を歩くのは、ヴィッキーとヒメル、そしてやりきれない表情で隣を行くノット。

ザッザッ、ザッザッ。

訓練中と同じく私語を慎む彼らは、石畳を擦るような靴音以外の音を漏らすことはなかった。

ザッザッ、ザッザッ。

ザッザッ、ザッザッ。

――ザリッと、二の足を踏む音。

「ヒメル」

門の手前で一度立ち止まった少女を、ヴィッキーがたしなめる。

しかし覗き込んだヒメルの目は、悲しげに伏せられてはおらず、それどころか何かに驚いたかのようにぱっちりと見開かれていた。

カツッ、カッ、カッカツッ……。

石畳に反響する異音を聞きつけ、刹那、ヒメルは決意に満ちた表情でヴィッキーの手の甲に顔を近づけると、思いきり歯を立てた。

「あっ!」

痛みに怯んだ一瞬を利用してその手を振りほどき、ヒメルは後方へと駆け出す。

なりふり構わず走り、異音のほうへと向かって声を張り上げた。

「ヘレン!」

だがしかし、こちらに向かって走ってきたのは、ヒメルの知る弟の姿ではない。

さまざまな鳥獣をまぜこぜにした容貌の、髑髏型の死神。

それでもヒメルは真っ直ぐに眼窩の奥を見つめ、その青い炎が揺れると安堵したように微笑んだ。

「ヘレン、一緒に逃げよう」

「……うん」

ヒメルの肉体を纏った指が、ヘルメスの白骨が剥き出しになった指を捕まえて、力強く絡んだ。

決して離れない、その決意を胸に二人は手を取り合い、全速力で門へと向かう。

「飛び込め! 門を閉めるぞ!」

ノットが叫ぶのとほぼ同時に、二人は門の向こう側へと力いっぱいジャンプした。

その様子を見届けたノットとヴィッキーが扉を閉じて施錠し、速やかに走り去って距離を取る。


ドガッ、ゴウゥン――!


現世へと走る四人の背後で、冥界終焉の音が鳴り響いた。

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