第13片 その終点
見渡す限りの灰色。
こんな光景は入団式以来だと、ヒメルはぼんやり考えた。
ノットの言う通り、灰色の迷彩を纏った死神たちの姿はとても不吉だ、と思う。
ふんぞり返った兵士たちがずらりと立ち並んで何かを叫んでいる。
実感を伴わない、非現実的な空間だ。
「ソウル・エネルギーの原因不明の暴走が確認された。大規模な被害が予想されるため、これより住民の避難を開始する! 革命軍DWIBにも動きがあるとの報告があった。住民の安全を守るのが我々の任務だ、絶対に手出しはさせないように!」
「ハッ!」
敬礼の直後、灰色の塊が慌ただしく散り散りになっていく。
住民の避難の護衛。
自分に言い聞かせるように反芻し、担当地域に向かって歩き出す。
遠くの空に、黒煙が立ち込めているのが見えた。
エネルギーの塊が暴走し、炸裂するのだからその被害規模は計り知れない。
急がなくてはと自分自身を叱咤するも、足取りは重い。
ヒメルにとって自分を保つものとは、可愛い服と愛用の武器、そして何より最愛の弟だった。
軍服に着替え、弟とも離れた今、大鎌だけが自分をこの仕事に縛り付けている。
好きな仕事だ。
だけど、足りない。
ヘルメスはどうしているのだろう。
療養が長引いていると聞いて、気が気ではなかった。
ヘルメスは自分のことを甘やかしてくれるけれど、あまり自分のわがままは言ってくれない。
きっと寂しがっている、会いに行ってあげたいのに。
――逃げて、姉さん。
夢の中で懇願されたその言葉が、記憶にこびりついている。
ヘルメスを置いて逃げるなんて、できるわけがない。
「ぐあぁっ!」
ふと、前方から苦しみに満ちた声が上がった。
見開かれたヒメルの赤い瞳に映る、負けず劣らず赤い飛沫と生々しい肉の断面。
ガチャガチャ、と機械の連結部のような硬質な音に混じり、聞き覚えのある甲高い音が耳に飛び込んでくる。
カラン。
カラン。
軽やかな下駄の音をさせながら、派手な市松模様の着物を纏った少女――梵火里がそっと微笑んだ。
「また会ったわね」
「あんた! 生きてたの?」
「そう。アタシのおかげでまだアンタは殺人者じゃないのよ、ヒメル」
「……気安く呼ばないでくれない?」
ヒメルは大鎌の柄を強く握りしめた。
目の前でニヤニヤと笑っているのは、愛する弟を傷つけた帳本人。
そしてたった今も、仲間の死神を一人殺した。
このままではこの女は、罪のない住民まで殺すかもしれない。
「殺すわよ」
ヒメルの思考を読んだかのように、梵火里は嘲笑する。
「死神はみーんな殺すの。善人も悪人も関係ない。それがアタシの生きる意味だからよ」
「あんたってワガママだね!」
「ワガママはアンタのほうだわ!」
険しい顔を突き合わせ、怒りを露に叫んだその直後、二人の傍らの地面がビキッと音を立てて割れた。
地下パイプが破裂したのだろう、一瞬の発光現象を伴った爆風が、石畳と街灯を天高くまで吹き飛ばす。
亀裂が二人の足元を襲うより先に、両者はそれぞれの背後に飛び退いた。
撒き上がる粉塵のせいで不明瞭な視界の中、互いに敵の方向からは目を逸らさず、愛用の武器を握りしめる。
――仕掛けるなら、今だ。
そう判断したのもほぼ同時だった。
粉塵もまだ晴れぬ間に、二人は勢いよく地面を蹴り、大きく前進する。
特攻する機体のごときスピードで、しかし慎重にタイミングを見計らう。
赤い瞳同士が、煙幕越しにぎろりと睨み合った。
一瞬早く鎌を振り下ろしたヒメルに、梵火里は逃げるでもなく右腕を差し出した。
不可解な行動。
ヒメルの鎌は梵火里の袖を払うように滑っていき、その腕に刺さることはない。
どうして?
呟きは声になることはなかった。
「残念ね」
梵火里はニヤリと笑って、一瞬の隙に狙いを定めるように得物を突き出した。
その名の通り、ぼんぼりのような形状の鉄製の得物だ。
大きな鉄球に正面から突き飛ばされて、ヒメルの小さな体はなす術もなく地面に叩きつけられ、転がっていく。
鎌の柄の先端を軸にして勢いよく起き上がると、得意げな梵火里の姿を認めた。
「アンタに切ってもらったおかげで強くなったわ」
小さく四角に切った装甲を貼り合わせた金属製の腕。
「あっそー」
ヒメルは興味なさげに、しかし何かを思案するように返事をした。
轟音が聞こえる。
地下牢に幽閉された芹果は、地響きを全身で感じながらも顔を伏せたまま、動こうとしなかった。
枷と鎖は頑丈で、非力な自分にはとても外せない。
結局のところ、自分にできるのはいつも考えることだけなのだ。
一人では何もできないのに、優秀な頭を授かったせいで何でもできるつもりになっていた。
自分自身の本質など、きっと誰にも見えていないのだろう。
一番近くにいると思っていたドニールも、善人になりたいだけの夢見がちな男だった。
もちろん、期待なんてしていなかったけれど。
瞼を閉じ、今ごろはすっかり焼け落ちたであろうあの場所を思い描く。
取るに足らない場所だった。
偽りの自分を装って、偽りの日常を過ごした場所。
いらなかったから捨てた。
役に立たなかったから殺した。
答えのない行動はしていないつもりだった、けれど。
――信じてるからね、セリカ。
あの栗毛の青年が頭にこびりついて、剥がしても剥がしても剥がれてくれない。
スクラッチで削り残しの銀紙を剥がすように、執拗に無益に痛め付けても、能天気な憎たらしい笑みを浮かべて名前を呼び、幻想を囁く。
信じてる、信じてるから。
「うるさい!」
自分の怒声が、灰色の壁にぶつかって反響する。
無理に叫んだせいで喉が痛い。
水が飲みたい。
これ以上自分を酷使することは無意味だった。
――思考を切り替える。
この期に及んで芹果はまだ、正しい歴史となり得るシナリオを考えずにはいられなかった。
死神掃討作戦は高確率で失敗するだろう、その場合にまずすべきことは、冥界の外に逃げ延びた死神と鬼が対等な立場になることだ。
しかし長年互いを憎む関係性を築いてきた両者に、早急な和解は難しいだろう。
さらに冥界を脱したとして、我々はどこへ行くのか。
可能性としては、やはり現世へ行くことが挙げられる。
しかし現世に流入しても、冥界の住人は彼らとは違う。
ここでも両者が対等な関係になることが望まれるが、異形の移民を暖かく迎え入れてくれる完成済みの共同体など、存在するとは思えない。
せめて橋渡しとなる存在がいれば、と甘えた考えが浮かびそうになり、緩く首を振った。
有り得ない。
唯一の例だった患者のヘルメス少年も、肉体の崩壊によって死神になってしまったのだから。
しかし何かが頭の隅に引っ掛かる。
小考の後、ようやく梵火里の言葉を思い出した。
――ヘルメスにヒメル。
――才能だけで勝ち上がった、いけすかない双子よ。
「双子……?」
あの時、王国騎士団からやって来たノットと名乗る男は、ヘルメスの名前しか出さなかった。
あの症例は、ヒメルのほうには起こっていないらしい。
ヘルメスと同様、ホモ・サピエンスの肉体を髑髏型死神の骨格に纏わせた不完全な体を持っているはずのヒメル。
現世生物の肉体を持つ以上、その「魂」へのソウル・エネルギーの流入は避けられないはずなのに、なぜ肉体崩壊現象が起こっていないのか――結論は明らかだった。
それは己の頭脳が、破壊を目的とする発明ではなく、民族を救うための一縷の希望を紡ぎ出した瞬間だった。
芹果は目を見開き、震える唇で呟く。
「ヒメルには、耐性がある……本物の人間になれる!」
――ドゴォッ!
突如巨大なハンマーに殴られたかのように、地下牢が大きく揺さぶられ、芹果は身を縮こまらせた。
地下牢付近のパイプを流れるソウル・エネルギーが破裂したらしい。
ダークグレーの壁が激しい粉塵を上げながら、大小の破片を室内に注ぎ込ませる。
床にも亀裂が走り、ビキビキと不吉な音を立てる。
粉塵を微量吸い込んで咳き込み、慌てて袖口で鼻や口を塞ぐ。
ジャラリ、鎖が大きく動いた感覚がした。
「え……」
手首から伸びる鎖を視線で辿ると、蛇行するその道筋の先端を地面に繋ぎ止めているはずの金具が、すっぽりと抜け落ちていた。
――ドクン。
心臓が跳ねる。
知らず息が浅くなる。
視線を上げると、壁が砕けてその向こうに広がる街の景色がすっかり姿を現しており、壁の残骸たる瓦礫が地上へ続くスロープを形成していた。
「……私は」
逡巡する。
自分は生きていいのだろうか。
善人になり得ない自分が、革命軍からも見捨てられた自分が、幸運に縋ることなど許されるのだろうか。
それでも、彼女は思う。
正しくありたい。
手段よりも結果を残し、いつも正しい歴史を刻む人でいたい。
そして今の彼女には、すでにそのシナリオが完成していた。
死神と人間を結ぶただ一人の存在のために、彼女は唇を噛みしめ、重い鎖を引き摺りながらずるずると地上へ這い上がっていく。
――光。
薄暗い地下牢を背後に、あちらこちらで煙を上げる不穏な、しかし地下よりずっと明るい空を見上げた。
通行人は多数いるけれど、避難するのに忙しい彼らは貧相な鬼に目を向ける余裕などないようだ。
芹果は立ち止まり、地下牢のほうを肩越しに見た。
『信じてるよ』
刹那、囁く声。
視界の端に一瞬、栗色の影が映った気がして目を見張る。
しかし瞬きをしてみると、そこにあるのは悲惨な崩壊の跡だけだった。
「……うるさい」
低く呟いて、芹果は歩き出した。
避難者たちと反対の方向――街の中央へと向かって。
「どこへ行こうっていうのかしら」
梵火里の赤い瞳に影が落ちていた。
建造物の屋根を踏みしめ、逃げ惑う住民たちを見下しながら歩みを進める。
のうのうと暮らす彼らは呑気にも自分の身を案じ、生に執着しているのだろう。
避難なんて意味のないことだ、と彼女は思う。
逃げ延びたその先に、何があるというのか。
梵火里にとって意味のあることはただ一つ、できるだけ多くを殺すことだけだった。
こうして高所に誘い出されているのも、ヒメルの計略であることはわかっていた。
仮にも王国騎士団の一員である彼女が、一般住民を革命軍から遠ざけたい一心で自分の挑発に乗ったことはわかっていた。
きっと彼女が浅慮なだけの子どもではないことも。
――それでも、逃げない。
ヒメルは自分にとって、この生涯の汚点となり得る存在だ。
ここで引いては、片腕を犠牲にした屈辱を晴らすことができない。
梵火里は思う。
負けを認めるのは嫌だ。
どんなに体を削られても、この心だけは変わらない。
一度灯した火を消してしまえば、それは今の自分を、今までの自分を存在意義ごと殺すことになるから。
「あの人たちはどこへでも行けるから大丈夫だよ」
腹立たしいほどに呑気な声。
同じく赤い瞳を持っていながら、ヒメルのそれは薄紫の前髪の下、カーテンに匿われた宝石のように煌めいている。
「アタシたちはどこにも行けないって?」
「違うよ」
ヒメルの後ろ髪が、吹き上げる風を受けてぶわりと逆立つ。
「あんたは、あたしがどこにも行かせてあげない」
目的地が近づくにつれ、抑えきれない激情がぐつぐつと腹の奥で沸騰し始めるのがわかった。
自分の足元からはもう、靴を引き摺る音も、破片が床を打つ異音も響いてこなかった。
見える範囲の肉はもう残っておらず、白骨が露出していた。
こうなっては瓦礫の詰まった不便な靴を履く理由もなく、道中で潔く脱ぎ捨てた。
きっと肉体崩壊現象も終わりに差し掛かっているのだろう。
皮膚がひび割れ剥がれ落ちる異様な光景は、毎日ヘルメスの不安を煽っていた。
しかし全てが剥がれ落ちた今では、鏡を見るのが苦痛だった。
愛する姉と同じ顔立ちが誇らしかった。
同じ顔の姉を愛し、愛されることが嬉しかった。
――もう、かつての話に過ぎないけれど。
白骨の少年は軍服を身に纏い、その細く尖った指で安めっぽいゴムパチンコを握りしめている。
表情は肉体のあった頃よりも乏しいが、その眼窩の奥で燃える青い炎は彼の聡明な瞳を彷彿とさせた。
ヘルメスは変わらず、聡明だった。
今はただ、加えて少しだけ感情的だった。
遠雷のような轟音は彼の耳にも届いていた。
姉の身を案じているのも本当だ。
それでも、今は世界の終わりよりもずっと優先して排除すべき脅威があった。
赤い絨毯を踏みしめると、自分の骨の形に沿って毛並みが変形する。
ピュアホワイトの石柱が並ぶ廊下、飾られたステンドグラス。
重苦しい扉の前に立つと、ヘルメスは律儀に指を曲げ、関節部分でノックをした。
「入れ」
簡潔な返事に応えてドアを開けると、剥き出しの骨格を持つ大男がゆっくりと席を立つところだった。
鹿のような角と爬虫類のような尻尾、動物の遺骨をまぜこぜにしたようなその姿に、赤いマントとごつごつとした王冠を身につけた男――冥王ハデス。
彼はヘルメスを見下ろすと、その眼窩に青い光をちらつかせた。
「保護者のほうが来るものだと、そう思っていたよ。まさか君が……いや、いずれ来るだろうとは思っていたが」
「僕が誰だかわかるんですね。顔が剥がれ落ちたこの僕が」
ヘルメスの目の奥で炎が勢いを増す。
ハデスは静かに頷き、目を逸らした。
「……できることなら会いたくなかった」
「大事な人を思い出すから?」
対峙する二人は、瞳に宿る青い光を再びぶつけ合う。
ヘルメスはゴムパチンコを握る手に力を込めた。
「十月十日で生まれるんですよね、人間の子どもは。あなたは戦乱が始まった時点で、現世へ行く方法を知っていた……あなたが戦乱を引き起こしたんだから」
知らず、言葉に感情がこもった。
この男が自分にしたことを差し引いても、ヒメルにしたことだけはどうしても許せなかった。
「先ほど『保護者』と呼んだのはノットさんのことでしょう。僕も姉さんも彼のことは信頼しています。あてにならない肉親なんかより、よっぽどね」
真っ直ぐに相手を見つめ、告げる。
「あなたのことですよ。僕らの本当の父親――冥王ハデス」