第12片 正しいひと
今更ですが、サブタイトルに話数をつけました。順番は今までと変わりありません。
「お前、頭がいいんだってな」
その言葉が、鬼として落ちこぼれだった私に、たった一つの生き方を教えてくれた。
この頭脳を活用して革命軍に尽くすこと。
それが私の価値、たった一つの存在意義。
人目につかない路地裏を選び、一向は街の奥へと進んでいく。
「あのメルヘンな論文、読んだんでしょ」
梵火里は論文の内容を思い出したのか、うんざりしたように問いかける。
そんな彼女を不思議そうに見つめながら、芹果が頷いた。
「もちろん。でもあれはメルヘンでもファンタジーでもないよ。魂傷学を突き詰めた結果見えてくる理論で……」
「ハイハイ、ああもう。アタシにされてもわかんないわよ、そんな話」
梵火里は苛立たしげに、機械仕掛けの人工の腕でポニーテールを払いのける。
「でも、ドニールのことだから騒ぎ立てると思ったのに、あんな論文出しておきながら静かにしてたのね。何をしてたのかしら」
――最後に人を助ける『いいひと』を演じて、『いいひと』のまま死のうと思ってね。
そう口にしたときの、ドニールの憔悴しきった笑みを思い浮かべる。
悪になるくらいなら善人を装って死んでいきたいと、彼は言った。
それは君も同じだろうと、芹果にも問いかけた。
「……違う」
一人呟く。
善人になんかなれない。
自分の頭脳は、多くの死神を殺すシナリオを執筆した。
この手でナイフを突き立てた相手が件の二人だけだとしても、きっと自分の頭脳は、頭脳に従って蠢くこの血肉は、一寸たりとも汚れていない場所がない。
今更善人になることを望むより、もっと現実的な生き方をしたい。
芹果は思う。
正しくありたい。
どれほど残酷な道を敷くことになってもいい、結果論でもいい、生者から見て正しいと思える歴史を刻みたい。
そのために自分の頭脳が役に立つなら、悪と呼ばれる苦しみも受け入れる。
芹果はぽつりと答える。
「ドニール博士は諦めていたよ。だから小さな子どもを救って心を慰めていた」
「子ども?」
「患者名はヘルメス。特殊な症例に悩まされていて……」
カランカラン、と下駄の音が間を開けずに二回鳴った。
すぐ隣を跳ね回っていたポニーテールが視界の後方に消える。
「ヘルメス……」
黒髪を追って振り返った視線の先、梵火里が眉間に皺を寄せ、牙を剥き出しにしてその名を呼んだ。
「知ってる人?」
「ええ。ヘルメスにヒメル……才能だけで勝ち上がった、いけすかない双子よ」
「へえ、そうなんだ」
芹果はそっけない返事を一つして、目を逸らす。
結果を出すことに執着し、幸運な誰かに嫉妬の炎を燃やす梵火里の姿が、どこか他人事ではない気がして胸がざわついた。
相手にされなかったと解釈したらしい梵火里が不満げに口を尖らせ、カランカランと騒々しい足音を立てながら芹果を追い抜いていく。
その後ろ姿を早足で追いかけながら、芹果は唇をぎゅっと引き結ぶ。
この道の先には、自分が生涯を捧げると誓った相手が待っている。
落ちぶれた自分を掬い上げてくれた救世主が待っている。
――ああ、閻魔様。
そう考えるだけで、畏怖と歓喜が胸いっぱいに溢れた。
パラッ、パラパラッ……。
石畳に小石のようなものが多分に降り注ぎ、その表面を打って軽い音を立てる。
異音。
滅多に耳にすることのないその音が、歪な足音を伴って近づいてくる。
箒で落ち葉を掃いていたフキは手を止め、不安げに眉を寄せて異音に耳を傾けた。
ズリッ、コツッ、バラバラッ。
ザリッ、コツッ、バラッ……。
そして音の主は、あろうことかフキの目の前で立ち止まった。
フキは目を丸くして、ますます眉をひそめる。
そこにいたのは、軍服を身に纏った骸骨だった。
いや、確かに頭部は骨が露出しているし、片足は蹄状となり靴も履いていなかったが、もう片方の足には少し肉がついているのか靴を履き、歩きづらさからズリズリと引きずってきたようだった。
頭蓋骨の眼窩の奥深くに、ぼうっと穏やかに輝く青い光源が見える。
「……ヘルメスさん、ですよね?」
穏やかで理知的な青い瞳。
断定はできなかったが、きっと彼だという予感が働いた。
案の定、音の主は首肯する。
「僕です。驚かせてすみません」
そう答える間にも、彼の足元には崩れ落ちた皮膚の欠片が降り注ぎ、パチパチと音を立てた。
異音の正体はこの現象なのだろう。
フキは首を横に振る。
驚いてなどいなかった。
ただ、皮膚が跡形もなく崩れ落ち、骨が露出したその姿は、たとえ痛みが伴わないとわかっていても痛々しくて、悲しかった。
ヘルメスは、関節の突出した左手の甲を前に突き出して荷物をフキに押し付ける。
「姉さんに渡してください」
「これ……」
包みの中には、綺麗に折り畳まれたワイシャツと、ブルーグレーの膝丈のズボンが入っており、その上に小物類がちょこんと置かれている。
いつものヘルメスの服だった。
どうしてこれをヒメルに渡さなければならないのか。
そもそも、どうしてヘルメスは今軍服を纏っているのだろうか。
どうして彼は――こんな姿になってまで、戦わなくてはならないのだろう。
フキは顔を上げ、すでにこちらに背を向けていたヘルメスに叫ぶ。
「どうして、一人で行くんですか! ヒメルさんと、いつも一緒だったんじゃないんですか! どうしてヘルメスさんだけ……!」
「やめてください!」
バラバラッ、と激しい音を立てて、一際多量の欠片が石畳を打った。
フキは反射的に身を竦め、息を呑む。
肩越しにこちらを振り向いたヘルメスの瞳は、青く燃え盛っている。
まるで――鬼火を宿した悪霊のような、ぐちゃぐちゃに混ざりあった怒りを秘めた瞳。
「……姉さんを悪く言われたら、僕はあなたに姉さんを任せられなくなる。どうかわかって、お願いします」
徐々に落ち着きを取り戻したヘルメスの態度に、フキはカッと耳の後ろが熱くなるのを感じた。
この感覚は知っている。
かつて、とある死神の男から虐げられていた頃、嫌というほど味わった感覚――悔しさだった。
「納得できない……」
フキが絞り出した声を聞くや、ヘルメスはばつが悪そうに視線を逸らし、またもや彼女にその白い後頭部を向ける格好となった。
「調査結果が届きました。僕は……いや、僕と姉さんは……死神と人間の間に生まれたそうです。それも、戦乱中に」
ヘルメスは自分の年齢から逆算し、疑念を抱いた。
調査結果が疑わしい、ということではない。
自分たちの出生に何かが隠されているのではないか、ということだ。
「そしてわかりました。戦乱中、限られた死神にしか通行を許されなかった道を使って、現世に行った誰かが存在すると。つまり、僕たちの出生を知る者が確かに存在するんだと」
フキは首を左右に振り、必死に説得を試みる。
「そんな……それって、ヒメルさんにだって関係あるんですよね! だからこそ、ヒメルさんと一緒に行かなきゃ……!」
「姉さんは何も知らないんだ!」
ヘルメスが拳を握りしめ、パキッと一つ音を立てたその手のひらから、皮膚の欠片がボロボロとこぼれ落ちた。
「姉さんには僕と違って、崩壊現象は起きてない……死神か人間か、まだ生き方を選べる。僕は……姉さんを尊重したいんだ」
ヘルメスは大きく息を吐く。
「だから、止めないでください」
彼は足元に散らばった、自分の肉だったものをじっと見下ろしてから、靴を履いているほうの足をザリザリと引きずるようにして歩き去っていった。
取り残されたフキは、それ以上何も言うことができずに俯き、渡された包みをぎゅっと抱き締めた。
幾度も扉をくぐり、閻魔の待つ奥の部屋へと近づいていく。
芹果は無言のまま、梵火里の左右に揺られるポニーテールを追うように進んだ。
体が強張り、心臓がその収縮を主張するように音を響かせるのがわかる。
ああ、早く会いたいと、芹果は純粋にそう思った。
「ここよ」
物々しく、冷たい輝きを放つ太い鉄格子の前で梵火里は足を止めた。
空気の淀んだ暗い室内には、閻魔の巨躯どころか小鬼一人の姿すらも見受けられない。
疑問を投げ掛けようとした芹果の手首を、梵火里が――突如力強く掴み上げた。
「う、ぐっ!」
筋がビキッと音を立てる感覚に、情けなく呻いてしまいそうになるのを堪えて歯を食い縛る。
「この程度でも振り払えないなんて……鬼としては落ちこぼれだって話、本当みたいね」
梵火里の声には、侮蔑と同情の念が混ぜこぜに含まれていた。
芹果はその一言で気づき、琥珀色の瞳をまんまるに見開く。
自分はすべてを捧げて閻魔に尽くしてきたつもりだった。
あえてスパイとして研究員に紛れるという危険を冒したのも、そのことを革命軍側に説明しなかったのも、すべては閻魔を、革命軍を思いやってのことだった。
しかし、相互に信頼しあっていたものと思い込んでいたそれはまやかしだった。
閻魔は必ずしも自分を信頼していたわけではない。
それどころか――こんな辺鄙な場所に、自分を幽閉しようと判断したらしかった。
「……どうして」
「アンタなら考えればわかるはずでしょ。頭がいいんだから」
図星だった。
彼にとって自分がどんな存在だったか、理解するのは簡単だった。
それでも心のほうは、まっすぐに突きつけられた事実をちっとも受け入れてくれない。
梵火里の後ろに控えていた男の一人が芹果を牢の中に押し込むと、じたばたと抵抗する彼女の華奢な手首にずっしりと重い手枷をかけた。
芹果の力では手枷が外せないことを確認すると、男は背を向けて遠ざかっていき、ガチャンと鉄格子の扉が閉まる音が牢全体に響きわたった。
芹果はハッとして、蒼白した顔つきで叫ぶ。
「論文読んだんでしょ? 被害を最小限に抑えるためには魂傷学が必要になる!」
梵火里が気だるげに振り向く。
その赤い瞳は暗がりの中、まるで暖炉のように一際輝いている。
「閻魔様が求めているのは正しい選択じゃないわ。アタシたちはテロリスト……今更正しい生き方なんかできない。悪人が善人に戻れないのと同じよ」
「でも、どうするつもり? 魂の暴走はいつ始まってもおかしくない……私はずっとこの日のために」
「芹果……アンタは間違ってない。間違ってるのはアタシたち革命軍の決定よ。だけどアタシたちは、勘違いしたままの方が性に合ってる」
梵火里はゆっくり頷くと、もう一人後ろで控えていた男から得物を受け取った。
巨大なぼんぼりのような形状をした、愛用の武器。
ドシンと重たい着地音をさせて、その鉄球部分が床に触れた。
「もうすぐ、死神掃討作戦が開始されるわ」
芹果は絶句した。
閻魔の決定は、梵火里の言った通り確実に間違っていた。
今、冥界は存亡の危機を迎えている。
ソウル・エネルギーに混入した魂の暴走が始まれば、死神も鬼もなす術なく死に絶えるほかないだろう。
我々鬼が助かるためには、冥界を一刻も早く脱出する必要がある。
死神に総攻撃を仕掛けている場合ではないのは、誰が考えても明らかだった。
「悪いわね、芹果」
梵火里は歯切れ悪くそう言って、得物を持ち上げ肩に担ぐと、闇色のポニーテールを揺らしながら去っていった。
残された芹果は一人、ふらふらと床に座り込み、膝を抱えて踞る。
どっと疲れが押し寄せてきて、シャツの袖に額を擦り付ける。
じめじめとした不穏な静寂から逃げるように顔を伏せているうち、遠い記憶が甦り始めた。
初めは魂傷学を超える新しいエネルギーシステムを作るつもりで、出会ったばかりの閻魔に進言した。
――私を死神にさせてくれ、と。
相手が鬼だろうと死神だろうと、隠しごとするのは訳なかった。
鬼特有の怪力もなく、死神のプロトタイプとも言える頭脳型という性質をしていた自分には適任だと思った。
しかしどんなに振る舞いに気を遣っても、容姿だけは誤魔化せない。
尖った耳と、一本だけ鋭く生えた角。
耳は布で隠すことができるが、角は立派な突起物だ、そう簡単にはいかない。
自分の鬼としてのアイデンティティーが、結果として鬼の再興を妨げるというのなら。
決断するのに躊躇いはなかった。
だから芹果は、歯を食い縛って正座をし、瞼を閉じた。
大男が振り下ろした得物。
骨を伝う強振動。
地獄の苦しみにのたうち回り、言葉にならない呻きを発してもやり過ごせず、気を失った。
あの瞬間のことは、今でも思い出すだけで冷や汗が止まらなくなる。
それでも構わなかった。
あの激痛が忠誠の証になる。
革命軍の役に立つためなら、革命軍に正しさの裏付けをもたらすためなら、何だってできた。
ここに属する鬼たちは、自分を何かに捧げることでしか生きていけない輩ばかりだ。
自分も、あの梵火里も、そして或いは――閻魔自身もそうなのかもしれない。
瞼を閉じる。
研ぎ澄まされた聴覚が、遠雷のごとき轟音を敏感に拾った。
世界の崩壊が始まったのだ。