第11片 いいひと
※流血表現があります。
――姉さん。起きて、姉さん。
聞き慣れているはずの優しい声は、何だか随分と懐かしいもののように感じた。
慌てて起き上がったヒメルを支えるように、弟の手が肩に添えられる。
「ヘレン……?」
「会いたかった。姉さん……」
「あたしだって……!」
ここは一体どこなのか。
どうして療養中であるはずのヘルメスがここにいるのか。
何もわからなかったけれど、そんなものは些細な問題だった。
背格好の同じ、愛しい弟の胸にぐりぐりと額を擦り付けると、弟はくすぐったそうに笑った。
「姉さん、ここから逃げてほしいんだ」
「……えっ?」
思わず顔を上げる。
ヘルメスの視線はヒメルの遥か向こう、上空に注がれていた。
どこか遠くを見つめるヘルメス。
凡庸な頭のヒメルには、懸命な弟の両の目にどんな未来が映っているのかちっともわからない。
「逃げて、姉さん」
とん、と背中を押され、大きな扉の向こう側へと押し出される。
自分が通過した途端、扉は素早くその口を閉じ始めた。
「待ってヘレン!」
ヒメルは叫び、後方に手を伸ばす。
鼠一匹がようやく通れるほどしかない隙間から、ヘルメスは青い目を細め、優しく微笑みかけた。
指を懸命に伸ばし、あと少し。
扉の表面を指先が擦ったというところで、ガチャンと虚しい音を立てて、扉は完全に閉ざされた。
――目を覚ます。
投げ出された腕を受け止める冷たいシーツと、背中をぐっしょりと濡らす不快な汗。
天井の木目を見つめたまま、荒い呼吸を繰り返す。
夢。
あれは夢だ。
思い返せば、あのヘルメスは目元を負傷していなかった。
なんて都合のいい願望だろう。
もう青い瞳が二つ並んでいるところなんて、見られるはずがないのに。
ヘルメスが療養に入ってから、もう二ヶ月が経過した。
いまだに姿を見かけないし、きっと居場所を知っているであろうノットにも会う機会がない。
ヒメルは確かに凡庸な頭をしていたが、それでも勘はいいほうだ。
ノットは、自分のことを避けている気がする。
ヘルメスに怪我をさせたことを悔やんでいるのか、自分とヘルメスを引き離したことを申し訳なく思っているのか、原因はわからないけれど。
――ヘルメスの言葉を思い出す。
逃げて、と彼は言った。
まるで自分は逃げるのを諦めたような、悲しい微笑みを自分に向けた。
ヒメルは膝を抱え、汗ばんだ額を冷たい膝頭に押し付ける。
「ヘレンに会いたいなぁ……」
ひだ付きのスカートとワイシャツ、長い袖を何重かに折り上げた白衣。
モスグリーンの髪に覆い被さる、トレードマークの耳当てつきのニット帽。
早朝だというのに、目元はいつもよりもくっきりしている。
同日の朝、セリカは珍しく一人きりで研究室を訪れていた。
決してプロキオンが寝坊したとか、今更道に迷ったとか、そんな間抜けな理由ではない。
昨日の夜、ドニールから個人的な呼び出しの連絡があったのだ。
「明日の早朝ね、セリカ研究員。プロキオン研究員はきっとまともに取り合ってくれない話だからさ」
セリカは呼吸を整え、扉をノックする。
驚いたことに、扉の向こうから現れたのは気怠い返事ではなく、ドニール本人の姿だった。
ここのところ例の死神の少年の研究に没頭していたドニールは、ただでさえ若白髪の多かった髪が白の割合を増し、頬が少しこけたことで実年齢を上回る外見へと成り果てていた。
「……おはようございます」
「よく来たね。外の空気が吸いたいし、歩きながら話そうか」
研究室に鍵をかけると、ドニールは欠伸をしながらセリカの横を通り、中庭の方へと向かう。
縒れた白衣を纏う広い背中を追いかけるように、セリカは彼の後ろをついて歩き始めた。
カツッ、ズリッ、カッ、ザリッ。
セリカの軽い足音と、ドニールの引き摺るような足音が、自分たち以外誰もいない廊下に交互に反響する。
沈黙に耐えかねて、カッとサンダルで床を蹴りつけるように立ち止まったセリカは、同じく動かなくなった背中に問いかける。
「研究の結果の話ですか、それとも……あの論文の話ですか」
ドニールは鈍い動きで振り向くと、薄暗い外の景色を映す窓に凭れかかり、笑った。
「どっちもだね。じゃあ、ヘルメス君の話からしよう」
セリカは琥珀色の瞳で、ドニールから目を逸らすことなく直立している。
「……結論から言うと、あの子をを治療することは不可能だ。その旨はもう手紙として、ノット少尉に提出してある。それとお節介で、本人にもね」
セリカは何も反応を返せなかった。
不治の病の研究においては、患者に同情するのも研究者を非難するのも簡単だ。
しかし、研究者であるセリカは研究者の苦しみもよく理解している。
無力さ、不甲斐なさという苦しみは、患者には到底理解の及ばない感情だろう。
彼らの目には、研究者など所詮殺人鬼にしか映らない。
ドニールがクスクスと鼻にかかった笑い声を漏らすと、彼の肩が触れる窓ガラスもつられてカタカタと笑った。
「……でもまあ、あんな個体が生まれるなんてね。プロキオン研究員のときもビックリしたんだけどね、遺伝子というのは実に不思議だよ」
「それじゃあ、やっぱりあの子は……そうなんですか?」
ドニールは首肯した。
「そう、ヘルメス君は混血児だ――死神と、ホモ・サピエンスのね」
セリカは顎に手を当てて考える。
冥界の環境に適応しつつ、現世にいる間はソウル・エネルギーを蓄積することができる。
つまりヘルメスは死神の特性を持ちながらも、現世の生物と同じ「魂」もその体内に存在しているということだ。
その状況証拠を、遺伝子の情報が解き明かした。
しかしこれだけでは、あの「瓦礫」のような肉体崩壊現象の説明がつかない。
セリカが急かすようにドニールを見上げると、彼はまたクスクスと笑った。
「簡単な話、あの子は確かにソウル・エネルギーを取り込める体質だったが、同時に耐性がなかったということだよ。体内に流れ込んだエネルギー体に耐えきれなかったため、肉体が崩壊を始めた」
「……でも、見えてるんですよね。あの子の目」
「さすが、冴えてるね。遺伝子が示した情報はもう一つ……死神は死神でも生物型じゃない、髑髏型のほうだってこと」
セリカが思わず目を丸くした。
死神には生物型と髑髏型がある。
一般的には骨が露出しているのが髑髏型、骨が肉に覆われているのが生物型という区別をされているが、ヘルメスの場合はこの法則が適用されない。
つまり、生物型に見えるその外見は、地球上の生物・ヒトの姿を纏っているだけ。
彼の死神としての「本体」は、肉に覆われたその下、骨格そのものということになる。
だからヒトとしての眼球を潰されても、頭蓋の奥にある死神としての眼窩は正常に機能しているのだ。
ドニールは窓ガラスの冷たい温度を感じながら、一旦話を締め括った。
「あの子はどっち付かずの存在だった。これから本物の死神になるのさ」
バンッ、と机を平手で叩きつけたノットは、怒りを抑えるのも忘れて叫んでいた。
「本当にそれが貴方の判断だというのですか!」
「ノットくん、まあ落ち着いて」
隣のヴィッキーが宥める。
しかしヴィッキーとて、ノットと同じ気持ちだった。
今朝早くに届けられたこの手紙には、ドニールに依頼していた研究の結果が事細かに記されていた。
ヒトと髑髏型死神の混血児。
ヘルメスは髑髏型死神として覚醒しつつあり、ヒメルはヒトの姿のままでも十分に力を発揮している。
これだけなら、大した問題はない。
しかしこの結果が導く事実はもう一つ――彼らの生まれ年と関係している。
「彼らが十二歳なのは知ってますよね。ヒトっていうのは妊娠から出産までに『十月十日』掛かるって言われてるそうですよ」
ハデスは微動だにせず、ヴィッキーの話をじっと聞いている。
ヴィッキーは肩を震わせるノットの様子を窺うと、ため息をついた。
「……十二年と十日十日前って、戦争真っ只中じゃないですか。ソウル・エネルギーシステムの運用前ですよ。現世へ行く手段を知ってる人なんて限られてますよ」
「だろうな……」
ハデスの曖昧な返事に、ヴィッキーも苛立ちを募らせる。
この機関で働くと決めたとき、自分はこの男・ハデスを崇拝することを心に決めたはずだった。
しかしこうして対峙してみると、ハデスの印象はあまりいいとは言えない。
何というか、問題をかわすことを目的に話をしているような、そんな態度だ。
「それはいいとして、ですよ。ハデス様。ノット少尉の言っていることは一貫しています。彼らをこのまま引き離すより、金銭的な援助を行って退いてもらう方が彼らのためだと思いませんか」
「……何度も言わせるな。援助はしない。退団も認めない」
「ッ、何故ですか……!」
ノットが激情をどうにかやり過ごすため、歯を食い縛る。
ヴィッキーも眉間に皺を寄せ、問う。
「私も納得しかねます。まだ小さな子どもで、はっきり言って我々からしてみれば足手まといのはずです。それでも彼らを登用し続ける理由は何ですか?」
ハデスは顔の前で、節の大きい鋭い指を五本、がっしりと組んで合わせた。
二人を見据える虚ろな眼窩の奥で、青い炎が揺れている。
ハデスは大儀そうに、しかしどこか申し訳なさそうに告げた。
「私が……彼らを恐れているからだ」
研究室の中庭は、ちょうど花盛りだった。
色とりどりの花が咲き誇る低草木には、朝早くだというのにすでに何羽かの蝶が群がっている。
ドニールとセリカは蝶たちの朝食を邪魔しないよう、遠目からその光景を眺めつつ新たな話題を切り出した。
「あの封筒の中身を読んだんだろう。なぞなぞの答えは出たかい? セリカ研究員」
「……はい」
セリカは躊躇いつつも、ゆっくりと頷く。
王国騎士団の男が訪問してきたあの日、ドニールは彼女に茶封筒を授けた。
溶かした氷の中に一つだけ毒があるとしたら、という極めて比喩的ななぞなぞを添えて。
どうして同じ研究員であるプロキオンには渡さず、自分にだけ渡したのか。
その理由は中身に目を通せば一目瞭然だった。
それは、プロキオンには理解できないから。
もっと言えば、プロキオンには理解してほしくないから。
セリカはひゅうっと息を吸い込むと、決意の表情で自らの気づきを言葉にしていく。
「あのなぞなぞは、ソウル・エネルギーシステムの欠陥を氷と水に喩えたものですよね。魂が氷、魂の中から取り出すソウル・エネルギーが水です。ドニール博士、あなたは……一部の魂から取り出したエネルギーに『魂の思念が残っている』と、そう考えています」
「……やっぱり、君にお願いしたのは正解だった。ご名答だよ」
ドニールがぱち、ぱちと小さく拍手を送る。
その表情は極めて穏やかだった。
セリカは直感で確信する。
研究者を務める彼らは、普段常に何かを考え続けている状態にあり、それゆえか険しい表情の者が多い。
今のドニールは、何も考えていない。
セリカは震える息を一つ吐いた。
「このままでは、思念を持った一部のソウル・エネルギーが発狂、暴走して大事故に繋がるんですよね。もう対策は練ったんですか?」
ドニールはひらひらと飛び交う蝶を見つめている。
「お偉いさんは都合のいい情報しか信じない。経費が下りないなら新テクノロジーを用いて災害対策、なんてできるわけがないさ」
セリカは琥珀の瞳をドニールの横顔に向けて話を聞いていたが、やがてそっぽを向いて、ニット帽の縁をぐいっと引っ張った。
これは彼女の癖だ。
動揺したとき、不安になったとき、彼女はこうして帽子を深く被り直す。
「……随分無責任なんですね」
「諦念だよ。本当はヘルメス君のことだって、私が背負うはずじゃなかった」
「なら、どうして……」
ドニールの伸ばした人差し指に、蝶が留まった。
「結果を出せない研究者は悪だ。セリカ君ならわかるだろう? 私のシステムは、これから大量の冥界人を殺すのさ。それなのに、無知なる者たちは我々が善だと信じている」
ドニールの脳裏にあるのは、ノットの思い詰めた表情だった。
そして瞼の裏にこびりついているのは、プロキオンの純真無垢な瞳だった。
「巨悪に成り下がるくらいなら、最後に人を助ける『いいひと』を演じて、『いいひと』のまま死のうと思ってね」
セリカが俯いて、苦々しく呟く。
「軽率です、そんな……死ぬなんて」
ドニールの指から、ぱっと蝶が飛び立った。
ゆっくりと、鋭い視線がセリカの方に向けられる。
年齢の割に皺の深い口元が、皺をなぞるように笑みを浮かべる。
「セリカ君も『いいひと』になりたいんだと、私は思っていたんだけどね」
「私は、そんなんじゃ……」
恐ろしいことは聞きたくないとばかりに、首を振るセリカ。
ドニールはますます面白そうに、言葉を続ける。
「秀才だからかね。勤務一日目、地図も確認せずに研究室に辿り着いたのは君だけだったよ」
突如振られた新しい話題にセリカは混乱したのか、地面を見下ろしたまま動かなくなった。
ドニールは、くたびれた白衣のポケットから幾重にも折り畳まれた一枚の書類を取り出し、広げてみせる。
そこに書かれていたのはプロキオンに与えたものと同じ、「関係者出入口の使用履歴」と題のついた表だった。
殺されたはずの配達員のIDが、彼の死亡日の後も一度だけ記録されている。
配達員のIDを囲む赤丸を示しながら、ドニールはつらつらと語る。
「セリカ君。君は殺された配達員のカードで、誰よりも早くここに忍び込んだ。配属された当日にはすでに、研究室のことを知り尽くしている必要があったんだろう? 君がすべきことは、私の雑用なんかじゃない。私と同等かそれ以上の研究だったんだ、しかも私に見つからないように」
「私を……疑ってるんですか?」
ドニールは、はっきりと頷いた。
「私は、君が私の理解者だと知ってたんだよ。だからこそ最初から君のことは信じていなかった」
ドニールは書類をぐしゃぐしゃに丸め、白衣のポケットに無理矢理詰め込んだ。
そして威圧的な笑みを浮かべたまま、一歩セリカへと詰め寄る。
ザリッ、砂利を踏みしめながらセリカが半歩後ずさり、白衣のポケットを押さえつける。
「セリカ君」
その顔つきとは裏腹に穏やかな口調で、ドニールは告げた。
「そろそろ脱ぎなよ、その帽子」
「あれ?」
ひくっ、と無意識に鼻腔を膨らませたプロキオンが首を傾げた。
血の匂いがする。
それもかなり濃くて、新しい匂いだ。
プロキオンは気分が悪くなるのを堪えながらも、人並み外れた嗅覚を頼りに匂いの元を辿っていく。
本来、プロキオンは常識のあるほうだ。
普段なら、こういうときは一人で特攻するような真似はしない。
しかし今日は冷静さを保てなかった。
このまま辿っていくと、勘違いでなければ――。
「博士?」
研究室の扉に手をかける。
鍵がかかっていた。
勘違いではない。
血の匂いが最も濃いのは、目の前にあるこの部屋だ。
「プロキオン……? プロキオン!」
部屋の中から、取り乱した少女の声がした。
セリカの声だ。
そう認識した瞬間、プロキオンは力任せに扉をこじ開けていた。
関節が悲鳴を上げるのを無視し、木製の扉を蹴りつけて中に入る。
ビチャッ、と液体を踏みしめる感触がした。
見下ろした床にはいつも通り書類が散乱していて、それらを巻き込んで赤く染めながら、血溜まりが歪な円を形作っていた。
視線の先に見えたのは、力なく床に座り込むドニールと、血が滲んだ皺だらけの白衣。
「博士……?」
「助けて、プロキオン!」
呆然と立ち尽くしていると、視界の端から飛び出してきたセリカが、突如プロキオンのシャツを掴むようにして強く縋りついてきた。
プロキオンは驚いて引き剥がそうとするも、セリカの体がガタガタと尋常でないほどに震えているのに気づき、落ち着かせるために背中をさすってやることにした。
「セリカ、何があったの?」
「私じゃない……! 私も博士も閉じ込められて、私怖くて、ずっと隠れてて、そうしたら博士が……! 私じゃない、私はやってないの!」
「……セリカ」
「本当なの! 私を信じて、信じてよ、プロキオン……!」
セリカは泣き喚きながら、プロキオンの胸に頭を押し付けて離れない。
ニット帽越しに胸を押す額が、どういうわけか少し痛い。
あの帽子の内側には、ボタンでも付いているのだろうか。
プロキオンは彼女の背中をさすりながら、なるべく優しい声で答える。
「セリカ、よく聞いて。僕はね、いつだってセリカのことを信じてるよ」
「……本当?」
「うん」
プロキオンは頷いた。
本心だった。
密室、血の海、死体の傍らに一人の少女。
正直、この現場を見てセリカの言葉を信じろと言われても、状況証拠がそれを許さないだろう。
それでもプロキオンは、状況証拠よりもセリカの気持ちが大切だと思った。
ずっと心を閉ざしていたセリカが、自分と距離を取ることなく訴えかけてくれている。
その気持ちを尊重したいと思ってしまうのは、きっと自分のワガママなのだけれど。
プロキオンはこんな状況でも、セリカの言動が素直に嬉しかった。
信じてくれと訴えかけてくれるということは、裏を返せば自分を信じてくれているということだから。
プロキオンは強く頷いて、セリカを優しく抱き締め返した。
「僕は、セリカを信じるよ」
「プロキオン……」
セリカの震えが徐々に収まっていく。
だいぶ落ち着いたのか、距離をとるように自分の胸から体を浮かせたセリカに、少しの名残惜しさを覚える。
「……良かった」
その声はいつもより暗く、まるでどん底から響いてくるかのようで、聞く者の不安を煽る。
胸騒ぎがした。
どうしたの、と言ってやりたいのに、俯いた顔にどんな表情が浮かんでいるのか想像がつかない。
「セリカ……?」
瞬間、彼女が動く。
衣擦れの音。
その手に握られていたのは、血塗れのナイフだった。
「プロキオンが『いいひと』で、本当に良かった」
グシュ、と音を立ててナイフが肉に突き刺さり、抜けた。
頭の両側に装着された擬似痛覚発生器が作動して、患部から激痛が伝わってくる。
「うぐっ……! あ、あぁっ」
ドクドクと流れる血潮。
それは緩やかな滝のように床に溢れ落ち、ドニールの流した血と混ざり合い、濃い鉄の匂いを部屋中に充満させる。
吐き気を催し、咳き込む。
床に飛び散ったのは吐瀉物ではなく、赤い液体だった。
強い痛覚に脳が痺れ、だんだんと体が動かなくなる。
息も絶え絶えにぼんやりと虚空を見つめると、てきぱきと部屋を動き回るセリカと目が合った。
白衣と耳当て付きの帽子を脱ぎ捨てたその姿に、プロキオンは愕然とした。
――先の尖った耳。
そして帽子に隠された額の中心には、モスグリーンの髪を左右に分けるかのように、ほんの小さな白い突起が覗いている。
小さいけれど、あれは一本の角だ。
見間違えようがない。
セリカの帽子の下にあったのは、一本角型の鬼に見られる身体的特徴だった。
「セ、リカ……君は……」
プロキオンの言葉に耳を貸すことなく、彼女は黙々と片付けを進めている。
そしてマッチを一本取り出すと、その先端で箱の側面を擦って火を灯した。
「さよなら、王立研究所」
セリカは呟いて、マッチを放り投げる。
あちらこちらに散らばった書類。
プロキオンとセリカが来る日も来る日も整理させられた、ドニールの研究資料たち。
それらの紙束は、もう自分たちは必要ないと言わんばかりに躊躇いなく炎を共有し、じわじわと部屋全体に燃え広がらせていく。
セリカは踵を返し、一歩踏み出そうとした。
「どこに行くの……」
プロキオンのか細い声が、彼女の小さな背中に刺さる。
足を止めた。
しかし振り向くことはない。
プロキオンは朦朧とする意識を必死に繋ぎ止め、言葉を紡いでいく。
「行っちゃダメだよ……だって、セリカは……」
「……あのナイフには毒が塗ってあったの。どっちみち助からないよ」
セリカはそれだけ告げて、今度こそ部屋を後にしようとする。
「信じてる、ゲホッ、信じてる……からね」
プロキオンは、血を吐きえづきながらも、セリカの後ろ姿を見つめて、語りかけた。
「僕は……セリカを、信じ……」
燃料を切らした機械のように、ぷつんと声が途切れた。
研究室を離れて薄暗い廊下を歩くと、元いた部屋の方向からパチパチと、微かに火の粉の散る音が聞こえてくる。
全部燃えて灰になるのだろう。
弱さを演じた仮初めの自分が過ごしたあの空間も、諦念に囚われたあの男も、他人の痛みを知ることに執着したあの青年も。
全部無駄だ。
全部虚像だ。
セリカは吐き捨てる。
「ばーか」
関係者出入口を使って外に出ると、派手な市松模様の着物を纏った少女が立っていた。
彼女の後ろには、数人の大男が金棒を片手に待機している。
「アンタが噂の参謀? 本当、アタシとそんなに変わんないじゃない。アンタ名前は?」
「芹果」
「そう。アタシは梵火里。芹果、閻魔様が呼んでるわ」
梵火里と名乗った二本角の少女に導かれ、芹果は研究所を背に歩き出した。