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第1片 双子の死神

ドゴッと嫌な音がして、鈍い痛みに苛まれる。

ああ、腹を蹴られたのだとどこか他人事のように考えながら、少女は腹を庇うように踞る。

ろくに整備もされていない道に横たわっているせいで、土の匂いが強く香った。

「う、うぅ……」

出したくもないのに、呻き声が口から勝手に漏れ出してくる。

耐えるように唇を噛み締めていると、近づいてきた男に踏みつけられた。

「なあ、お使いもまともにできねえのか? このクソガキが!」

この男は少女にとって家であり、ルールであり、世界のすべてである。

毎日休む暇もなく働かされ、失敗すればこんなふうにいたぶられるけれど、少女はこれを世の常だと認識していた。

少女は自分が生まれながらにして被差別階級にあり、家族をなくした今誰かに縋って生きていくしかないと知っている。

しかしこんな痛みに耐えるのは容易ではないし、町に出かければ同じ年頃の子どもが着飾って遊び回っているものだから人並みに嫉妬だってしてしまう。

この頭に二本の角がなければ、この歯列に牙がなければ、この耳がこんなに尖っていなければ、あの子たちと同じように幸せになれたのかもしれない。

生まれ持った運命は変えられない。

だから少女にできることは、ただひたすらに運命を恨むことのみだった。

――しかし運命というものは、良くも悪くも簡単に人を裏切る。


「ねえねえおじさん、何してるの?」


少女と同じ年頃くらいの女の子の声がして、少女も男も顔を上げた。

声がしたのはこの細い路地の大通り側の入り口あたりで、そこには小柄な少女が仁王立ちしていた。

少女はバイオレットの髪をツーサイドアップにしており、その頭のどこにも角は見られない。

耳も尖っていないところを見ると、被差別階級ではないらしかった。

少女の纏う、フリルやレースをふんだんにあしらったワンピースの後ろで、白いサテンのマントがはためいている。

男はニヤリと意地悪く笑ってその少女に近づいた。

「何だい、『死神』のお嬢ちゃん。まさか『鬼』を助けようってんじゃないだろうね?」

少女は輝くばかりの純粋な笑みを浮かべた。

「あたしね、その子と友だちになりたいの! だからおじさん、そこどいてくれない?」

「ハッ、お嬢ちゃん頭おかしいのかな? 友達になりたいだって? この鬼と? そのためには俺が邪魔だってか?」

「うん!」

死神と呼ばれた少女が、地面に踞る少女にひらひらと手を振った。

その瞬間、怒りにを血走らせた男が死神の少女のバイオレットの前髪を鷲掴みにする。

「調子に乗るなよ、ガキが!」

しかし少女は動じない。

それどころか、にんまりと満足そうに笑ってみせる。

「ねえおじさん、ヘレンなら外してくれると思うけど、気をつけてね?」

「あ? 何言って――」

やがる、と続くはずの言葉は発せられなかった。

右耳のすぐそばで風を切る音がして、ズガン、と鋭い衝撃音が突き刺さる。

男はおそるおそる右側に視線をやった。

壁の一部が表面からぱらぱらと崩れ落ちていく。

男は、急に背筋が冷たくなる心地がした。

見間違えようがない。

それは、着弾した跡だった。

「狙撃手だと……!?」

キョロキョロと辺りを見回してみても、それらしき人物は見当たらない。

死神の少女は可笑しそうに告げた。

「次は外してくれないよ」

男はぞわぞわと皮膚が粟立つのを感じた。

天真爛漫といった雰囲気のこの死神の少女が、急激に不気味なものに見えてくる。

少女の赤い瞳が、爛々と光っている。

「く、来るな……!」

男は生まれたての小鹿のように、がくがくと全身を震わせている。

少女は最初と何ら変わらない様子で、ニコニコと笑っている。

「ねえ、どいて?」

逆らうという選択肢は、もはや男には残されていなかった。

「……全く、姉さんはすぐ勝手に行動するんだから油断も隙もないよ」

男がへっぴり腰で無様に逃げて行く様を二人して眺めていると、呆れたような少年の声が降ってきた。

少年は屋根の上から飛び降り、鬼の少女と死神の少女のちょうど間に割って入るように着地する。

背格好や髪色、顔立ちに至るまで死神の少女とよく似ていた。

瞳の色は鮮やかなシアンで、ブラウスを纏い、サスペンダーでショートパンツを吊り下げている。

背中には少女のと色違いの、黒いサテンのマント。

彼がゴムパチンコのようなものを手にしているのを見て、鬼の少女は驚愕した。

「あ、あなたが……狙撃を?」

少年は苦笑して、ゴムパチンコを持つ手を背中に回した。

「突然保護者に攻撃するような真似をしてすみません。僕、姉さんに手を出されると駄目なんですよ」

「ごめんね~ヘレン、助かったよ!」

死神の少女が申し訳なさそうに手を合わせて、とことこと少年のほうに近づいてくる。

そこまではよかった。

「ありがと」

ちゅ、と可愛らしい音を立てて少年の頬にキスが落とされた。

少年も照れくさそうにはにかんで、少女にちゅっとキスを返す。

突如流れ始めた甘い雰囲気に、鬼の少女はただ呆然とその光景を眺めていることしかできない。

キスが四往復ほど交わされたあたりで、死神の少女のほうがハッとして鬼の少女に近づいた。

「ねえ、だいじょうぶ? ケガしてたよね」

「あ、……はい」

我に返って頷くと、死神の少女はホッとしたように笑った。

「あのね、蹴られてるところ見ちゃって、助けなきゃって思って! ねえねえ、友だちにならない? あたしたち引っ越してきたばっかりで、ここら辺のことよくわからないんだ」

「え、えっと」

鬼の少女が口ごもっていると、少年がため息をついて死神の少女の頭を一撫でした。

「姉さん、自己紹介が先だって。すみません、驚かせましたよね。……僕らは双子の姉弟なんですよ。僕はヘルメス。こっちは姉のヒメルです。良かったら、道案内をしてくれませんか?」

少年――ヘルメスは地図を広げつつ鬼の少女に顔を近づけ、ヒメルには聞こえないように「さっきの罪滅ぼしです。宿も斡旋しましょう」と付け加えた。

鬼の少女は地図を覗きこみ、驚いた。

彼の指差す場所には、赤いインクで『王国騎士団員採用試験会場』と書かれていた。




目的地はそこから歩いて20分ほどの距離に位置する。

その道中、鬼の少女は二人とたくさん話をした。

双子の死神、姉のヒメルと弟のヘルメス。

年齢は十二だが、金銭的な後ろ楯がないため学校には行っていない。

二人は両親の顔を知らず、親戚に育てられてきたがその親戚も早くに亡くし、近所の人たちに支えられながら二人で生きてきた。

いつまでも近所の人に世話になるわけにはいかないということで、何か仕事をしようと考えて先日町に出てきたということだ。

鬼の少女――先ほど二人に名前を聞かれ、フキと名乗っていた――は思う。

二人が恋人のように親密なのは、両親のいない寂しさを埋めるためなのだろう。

そしてヘルメスが姉に比べて早熟で現実主義なのは、ひとえに姉を守りたいがためなのだろうと。

そんな二人が就こうとする仕事は、決して簡単な仕事ではない。

――ここ『冥界』にいる生物は、大きく二種類に分けられる。

死神か、そうでない諸々の種族かだ。

先の冥界全土を巻き込んだ大戦では死神と、それ以外の種族で最大の集団である鬼とが争い、勝利をおさめた死神が支配階級となり、敗北した鬼が被差別階級となった。

そのときの死神側の首領が現在の冥王であり、冥王を護衛するのが『王国騎士団ロイヤルリーパーズ』の役目である。

そうこうしているうちに目的地に到着した。

しかし、騎士になれるのは死神だけだ。

鬼であるフキはこの敷地に足を踏み入れることはできない。

ヘルメスはフキに、試験が終わるまでどこかで待っていてくださいと言い残し、ヒメルを連れ立って会場へと入っていった。

あの二人には、二人が一緒なら何にも負けない自信があるらしい。

その小さな背中が頼もしくて、フキは小さく微笑みを浮かべた。




「聞こえなかったのか? ガキは帰って宿題でもしてろと言っている」

会場へとたどり着いたはいいが、二人を待っていたのは受付担当の騎士――書類によれば、名はノット――からの侮蔑の言葉だった。

二人は思わず顔を見合わせる。

先に口を開いたのは、不思議そうに首を傾げたヒメルだった。

「でも、年齢制限なんて書いてないよ」

二人が騎士を志願した理由の一つはそこだ。

十二歳の自分たちでも採用してくれる、まともな仕事がしたかったからだ。

しかしノットはやれやれと首を振ってみせる。

「おいおい、そんなの考えりゃわかることだろ。お前らは子どもの騎士を見たことがあるか? 俺はない」

「え~? 書いてないことまでわかるわけないじゃん」

「これだからガキは……いいか、大人は空気を読めるんだよ。会社から送られてきた書類は返信するときにちゃんと二重線を引いて『御中』に書き直す、服装が自由だと言われても就活中なら黙ってリクルートスーツ! そんなこともわからないガキには早いんだよ」

ううっ、と唸ってそれっきり黙りこんでしまったヒメルを横目に、今度はヘルメスが口を開いた。

「大人は空気を読めるんでしたよね」

ノットの眉間に皺が寄り、不快そうな表情を形作った。

「そうだよ、それがどうした?」

「では大人であるあなたは、子どもの僕たちがわざわざ働くためにはるばるここまでやって来た、その理由くらいわからなきゃいけませんよね」

ヘルメスはビシッとノットのほうを指差して、したり顔で笑う。

まさに大人をなめ腐ったクソガキの顔――そして、それはノットを煽るのに十分だった。

ノットは机に手をついて立ち上がる。

彼の銀縁眼鏡の奥でぎらぎらと光る瞳が、ヘルメスの青い瞳を睨み付けた。

「貴様……何が言いたい?」

「僕たちが働くのはお金がないからです。国には、未来の重要な労働力を保護する義務があると思います」

思わず返答に詰まった。

ノットはぎり、と奥歯を噛み締める。

ヘルメスの言葉を否定することはできなかった。

自分だけに向けられた言葉だったら、下らない子どもの戯言として処理してしまえる。

しかしヘルメスの言葉は、ノットを通じて国政の中心である冥王・ハデスに向けられていた。

つまり、この場でこの言い分を否定することは冥王に背くことになる。

王国騎士団のメンバーである自分が国に背くことなど、あってはならない。

ノットは大きなため息をついた。

全く末恐ろしいガキだ。

この少年はまだ十二歳だが、どうやら駆け引きがとてつもなく上手いらしい。

ノットは席を立つと、奥に待機していたもう一人の騎士を代わりに受付窓口に座らせた。

そうしてツカツカと甲高い足音を立てて、奥の部屋へと向かっていく。

きょとんとしたままのヒメルの腕を引いて、ヘルメスは彼の後に続いた。

到着した場所は埃っぽい武器庫だった。

壁という壁、棚という棚に死神が仕事に使う武器――魂を肉体から切り離すために用いるため『魂鋏セパレーター』と呼ばれる――がずらりと並べてある。

「一人ひとつ魂鋏をとれ」

その奥にあるもう一つの扉に手をかけ、ノットは指示する。

いまいち展開にぴんと来ていないヒメルの様子が癪に障ったのか、眉間の皺をより深く刻みつつもノットはさらにこう続けた。

「試してやるよ。貴様らが将来、重要な労働力になり得るかどうかな」

ヘルメスとヒメルは顔を見合わせ、にっこりと笑うとハイタッチした。

つまり、ノットと戦って勝てば二人の入団を認めてもらえる。

「わあ~武器がいっぱい! どれにしよっかな~」

ヒメルはいろいろな武器を手に取り、ショッピング気分ではしゃいでいる。

ヘルメスはノットの姿を思い出し、一度手にしたライフルを置いた。

ヘルメスは近距離の戦闘はからっきしだが、普段は遠距離から警戒されずに攻撃することで相手に一矢報いている。

それは生まれながらにしてヘルメスに(姉にはそんな様子は見られなかったので、おそらく自分だけに)備わる、人よりも遠くがよく見えるという特性を生かした戦闘方法だった。

しかしノットにはすでに警戒されてしまっているし、先ほど見たところノットの腰にあった魂鋏は近距離型、スピードタイプのものだ。

ライフルのように一ヶ所に腰を据えて攻撃することはできない。

近距離型の武器を使いこなせる自信もない。

そうなると、普段から使い慣れていて、ある程度移動しながら攻撃できる、このゴムパチンコが一番良い気がした。

あとはヒメルだ。

「姉さん、」

「ヘレン~見て見て!」

ヘルメスは振り向いて、閉口する。

満面の笑みを浮かべるヒメルの手には、彼女の身長よりもずっと大きな大鎌が握られていた。

――僕のか弱くて可憐な姉さんのイメージが……。

彼女の小さな身体のどこにこれほどの力が隠されていたのだろう。

もしかすると、ヘルメスが遠くを見ることができるように、彼女にも特異体質が備わっていたのかもしれない。

いや、そこはいい。

しかし、よりによって小回りの利かない武器を選んだものだ。

「ね、姉さん重くないの? もっと軽いのに替えない?」

「へーき! あたし、この子がお気に入りだからこの子じゃなきゃだめなの!」

ヘルメスはため息をついて、ノットのほうに駆け寄っていくヒメルの背中を見送った。

一対一とは言われていないし、いざとなれば自分が身を挺してでもサポートすればいい。

ただ、この子がお気に入りだのこの子じゃなきゃだめだのという大鎌に向けられた賛辞に、ヘルメスはそれを自分に向けて言ってくれればいいのにと少し大鎌に嫉妬した。




「一つお願いがあります」

いよいよテストが始まるというときになって、ヘルメスはノットに声をかけた。

ヘルメスの言動にすっかり警戒を強めているノットは、嫌そうな顔をしながらも「何だよ」と返す。

「友人を待たせているんですが、僕たちが勝ったらその子にちゃんとした仕事と住み処を用意してもらえませんか」

ノットは少し考え込んでから、銀縁眼鏡の位置を正した。

「……まあ、紹介するくらいならしてやる」

「ありがとうございます」

ヘルメスがペコリと頭を下げると、それがフキのことだと気づいたヒメルも頭を下げた。

ノットはフンと鼻を鳴らすと、腰に下げていた鞘から細く尖った洋剣――レイピアを抜いた。

「いいか、俺は暇じゃないんだ。先に相手に一撃入れられたほうの勝ちでいいな」

一撃、と彼は軽く言うけれど、ヒメルの持つ大鎌の一撃は相当重い。

要は、大鎌からは一撃も受けない自信があるということだ。

ノットはレイピアを顔の前に高々と掲げてから、構えの姿勢を取る。

「――行くぞ」

言うが早いが、ノットは動いた。

半回転を伴って一度ぐいっと引いた右足が、地面を蹴る。

ぴんと伸びた右腕の先、レイピアの先端がヒメルを貫こうと一直線に向かっていく。

動けずにいるヒメルに、ヘルメスは叫んだ。

「姉さん!」

ぐんと引き絞ったゴムから手を離すのと、ノットが僅かに背を反るのとがほぼ同時だった。

鉄球が彼の顎先を掠め、向かいの壁へ突き刺さろうとする。

ヒメルはかろうじてレイピアの切っ先から逃れ、目の前の胴めがけて大鎌を振るう。

しかしやはり一撃にかかる時間が長すぎた。

ノットはその細身を翻し、鎌の軌道から距離を取る。

さすがは戦闘のプロ、機転も動作の切り替えも恐ろしく素早い。

武器に鉄球を乗せてゴムを引きながら、ヘルメスは脳内で残球数を数えた。

あと四回、撃とうと思えば撃てる。

しかし何せ相手が悪いので、このゴムを四回引くチャンスをくれるか怪しいところだ。

ノットは動きが遅く警戒レベルの低いヒメルを狙ったほうが早いと考えているようだ。

もう一度ヒメルのほうに一歩踏み込もうとした足が、しかし踏み込めずに停止した。

「何っ!?」

驚くのも無理はなかった。

あろうことか、ヒメルのほうから距離を詰めてきたのだ。

それは戦闘経験のないヒメルだからこその、誤った判断だったのかもしれない。

しかしその一歩がノットの動きを止めたのは紛れもない事実だった。

「――っ!」

息も忘れて、ヘルメスは夢中でその鉄球を放った。

真っ直ぐに飛び行く銀色の球は、ノットの脇腹あたりへと向かっていく。

しかし、ノットはすでに動いていた。

腰を落とし、鎌をちょうど頭上に掲げるヒメルの脇へ大きく身を乗り出す。

鉄球はノットの背の数センチ横を通り過ぎていく。

敵とわざとすれ違うかのような、無防備そのものの姿勢は、流れるように次の受け身の姿勢へと切り替わった。

このまま地面に倒れ込み、体勢を立て直すつもりに違いない。

いや、足元を狙って攻撃してこないとも限らない。

させてたまるか、とゴムパチンコを構え直そうとした瞬間。


――ぞわり、と肌が粟立つ。


空気が急激に重くなり、息が苦しくなる心地がした。

ヒメルが赤い大きな瞳をぎらつかせ、笑っていた。

そして彼女の手首がくるりと角度を変える。

鎌の刃先は、まさに今倒れ込もうとするノットのほうを向いた。

「えいっ」

可愛らしい声が、まるで死刑執行の合図のように部屋に響く。

刃渡りの部分をノットの腹側へと入り込ませるべく、鎌全体がペンデュラムの要領で大きく脇のほうへと振るわれた。

それ自体にはそれほど威力はない。

しかし、このまま下敷きにしてしまえば――。

これにはノットも肝を冷やしたようだった。

彼は左腕を刃先から峰にかけて押しつけると、その反動で大きくヒメルとは逆方向へと身を倒す。

彼は何とか受け身を取ったまま、しかし勢いよく地面を転がった。

「やったあ、当たった!」

ヒメルは無邪気に言うけれど、ヘルメスは生まれて初めて姉を小一時間叱りつけたくなった。

「あのね、姉さん! 僕たちがなるのは騎士であって暗殺者じゃないから!」

「え? でも当てられる前に当てなきゃって思って」

「その人殺したら自立どころか社会的に死んじゃうよ!」

ヒメルは唇を尖らせて、「ヘレンがご機嫌斜めだ」と呟いた。

ことの重大さに気づいていないらしい。

甘やかしすぎた、とヘルメスが頭を抱えていると、靴底が地面を擦る音がした。

「いや……合格だ」

声のしたほうを見ると、すでに剣を鞘に収め、立ち上がっていたノットが二人のほうに近づいてきていた。

その左腕からは一筋血が流れている。

刃先以外の部分から一切ダメージを受けずにあの状況を切り抜けるあたり、やはり彼は戦闘のプロなのだ。

ノットは右手の中指で銀縁眼鏡のつるを持ち上げ、二人に目線を合わせるべく中腰になる。

「君たちを侮ってすまなかった。名前を聞かせてくれ」

「あたし、ヒメル!」

「ヘルメスといいます」

ノットは手帳を取り出すと、名前を書き留めてから手帳を閉じた。

「ヒメル、君には戦闘のセンスがある。まだ荒削りだが三年も学べば素晴らしく成長するだろう。そしてヘルメス、君は賢いな。きっと優秀な参謀になれる」

それを聞いて、ヒメルはノットの手を取って喜び、ヘルメスは頬を染めてはにかんだ。

ノットは苦笑する。

こうして見るとただの子どもに違いはないのに、戦闘中の二人からは何か輝かしいものを感じた。

ガキの相手など時間の無駄かと思ったが、どうやらとんでもない逸材が見つかったようだ。

ノットは背筋を伸ばし、二人に笑いかけた。

「俺の名はノット。これから君たちの上官になる者だ」




試験会場から戻ってきた二人を、フキは柔らかく微笑んで出迎えた。

「どうだった?」

「ばっちり、ごーかく!」

ヒメルがフキにぎゅっと抱きついて、彼女の癖毛に頬をすり寄せた。

うっかり殺しかけたくせに、とヘルメスは内心思うが口には出さないでおく。

三人は会場近くの宿――『老牝猫グリマルキン』に一晩泊まることになった。

鬼であるフキのことを、年老いた宿の女将さんは嫌な顔ひとつせず受け入れてくれた。

フキはそれが嬉しくて、少しだけ泣いた。

明日からはヒメルとヘルメスは騎士用の寮で生活するが、フキはこのままここで泊まり込みで働くことが決まっている。

決まっているというか、ノットに口利きしてもらったわけだが。

「おやすみ~ヘレン、フキ!」

「おやすみ、フキさん。姉さんも」

口づけを交わす二人を苦笑いしつつ見守って、フキも「おやすみなさい」と言って布団に入る。

そして今日のことを思い返し、微笑んだ。

――やはり、運命というものは良くも悪くも簡単に人を裏切るものなのだ。

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