34.激情
おかしい。おかしい。
千寿の家に不審者達が入るよりも前。入学式前夜の事。
五十嵐は思考を巡らせている。正に渦を巻くようにグルグルと。
彼の脳内は、『おかしい』『あり得ない』『理解したくない』……そんな混乱に満ちた単語で埋め尽くされていた。
彼がしたかった事は、帝を助ける事。死なせない未来を作る事。
帝を傷付けるもの、悲しませるもの、殺しに来るもの。――その全てを、まだ実際には起きていない可能性も含めて否定し、壊し、抹消せんとする事。
以上が今まで彼のしてきた努力である。残念ながら、結果は伴っていないが。そこは一先ず置いておき、五十嵐は例えその抹消するべき対象が俺自身であっても、答えを変える気は無かった。覚悟が出来ていた。
それ故に尚の事、『どうして――』と、唇の端を噛み切りそうになっている。
「なんで、ミカじゃ無いんだ……っ」
陽だまりのような橙の髪と、蜜色の月の瞳が、彼の脳裏を過る。
帝では無く、千寿を悲しませた事。千寿に人殺しをさせた事。それが情けなくて、悔やむばかりで、帝の顔や声が頭の中から消えて行こうとする。
千寿は、一度殺った。その事実は消えない。
今まで例外など無い。この先もあり得ないと、彼は思っていた。
帝を傷付けた存在は恨み、嫌悪し、場合によっては死へと追いやる事。
経緯は分からなくても良かった。少しでも帝を殺す可能性があるのなら、また同じことが起きるかもしれない。今まではそんな横暴な思考で芽を摘んだ。しかし今回、
魔力量が異常に上質で多いとはいえ、……あれは攻撃のための魔力の使い方なんてまるで分からない子供だ。巻き戻った今なら、自分の魔力を自覚していないのだから、簡単なのに。
此処で、吐き気を覚える。
五十嵐は全く千寿を嫌いになれないでいた。
危害を加える行動など起こせない。むしろ――
「……あれ?」
思考が不意に中断される。妙な事に気が付いたからだ。
「あの子、何でまだ此処に居ないんだ?」
何度も何度も初めて出会った高校の入学式前日。
五十嵐は、千寿と出会わなかった。
そうして出会わないまま時間が過ぎていき、
「ああ、やっと来たね勇者君」
月が沈んで陽が昇り、入学式が済んで家に帰ると、二十歳前後の女性の姿をした悪魔がベランダの柵に座っていた。
「……どうしたんだい? そんな怖い顔をして」
仄かに頬を染める悪魔ことナーシャの手で、その起因たるウィスキーの丸い氷がカランと音を立てた。笑う猫のような不気味で不吉な笑みを五十嵐に向けている。
五十嵐が彼女の言う『怖い顔』を浮かべているのは、豊かな深緑の髪を見て、一瞬で彼女がドールの姉であると分かったからだ。
「身に覚えが無いと?」
五十嵐の声は、酷く冷ややかだった。
当然だろう。前回の所業から、どうして平然と交友的に接する事が出来ようか。
「無いねぇ。感謝される事ならあってもさ」
ナーシャは、ほろ酔い時の余裕に満ちた声だ。
五十嵐は、彼女に知られないよう拳を強く握る。
――感情をむき出しにするな。つけ入られて、御託を並べられて、話にならなくなる。
そう己に言い聞かせて彼は大きく息を吐いた。
「どうして、あの時俺に制限をかけた?」
五十嵐は、学校に転移出来ないよう首にかかった行動制限の術について問いかける。
「えー、決まってんじゃん。分んないかねキミ~?」
「俺の何をそんなに過大評価してるのかは知らない。人の問いかけにはちゃんと答えろ」
「はー、『なんで? なんで?』を繰り返す子はウザいけれども、まあ……今回は意地悪だったかな」
ナーシャはベランダの柵から降りる。その際、手の中にあったウィスキーは、溶けように空気中へと消えていた。
「簡単に言えばさ、これ以上キミには世界を引っ掻き回してほしくないのだよ」
「は?」
五十嵐は怪訝に眉を顰めて続きを待つ。
「私の欲しいものが壊れちゃうからさ。キミが土筆寺帝ちゃんを死なせたくないという気持ちは嫌ってほど知ってるよ。でもね、あの子は無理。絶対キミには救えない」
断言した彼女の唇はひどく蠱惑的であり、残忍だ。
五十嵐は、一言で言うと切れた。声こそ出さなかったが、ナーシャに腕を振りかぶっていた。だが、ナーシャは易々と彼の腕から逃れて、あまつさえ背後に回り込んでいる。
「だって、そうじゃないか」
甘く。毒を流し込むナーシャの目は語る。五十嵐銀杏という男を、『なんて滑稽な存在だろう』と。
「無駄なのだよキミの行為は。偽善は。償いは。自己満足は。そんな事で、こっちの計画を潰さないでほしいねー、ホント」
「………………誰のせいだ」
「ん?」
ナーシャは、五十嵐から放たれた絞り出すような小さな言葉に疑問を覚える
「誰があの時邪魔した……。一介の高校生の人生に口出ししてきてるのはお前ら神だろう。ミカを暴走させたのはお前の半身だろう。あの子にミカを殺させたのは――!」
「黙ってくれるかい?」
五十嵐の言葉を遮り、ナーシャは目を鋭くさせた。
「まず一つ目を訂正しようね。私とドールは確かに悪神とも呼ばれてるよ。でも、私達はそれを否定する。存在が姉妹という形で別れた時に、そう決めたから。次に土筆寺帝ちゃんの暴走について、これは心の底から謝罪する。愚妹が申し訳ない事をした。本当にごめん。知らなかったじゃ、本来済まされない。…………けどね、最後のは――キミのせいだ」
五十嵐は思わず息を呑んだ。
「キミってさ、頭は悪くないんだろうけど鈍臭いよね。全然気付いてないでやんの。君が毎回毎回戻る時、周囲の魔力が馬鹿みたいに乱れるじゃん? その乱れた環境に毎度付き合わされる生物が全員揃って普通でいられるかね?」
「影響があっても微々たるものだろう。その理論がまかり通れば、あの一帯……コンビニの店員だってタダで済んじゃいない」
ジリジリと。喉が焼かれるような思いで彼が吐いた言い分は、ナーシャを呆れさせた。
「そういう解釈してたかぁ。キミは、自分に都合の悪い記憶を抹消する天才だね」
ナーシャの言葉に、五十嵐の血液の流れがドクンと早まった。
「どう、いう……」
「君は、本当にあの日、あの時、高咲千寿を見た?」
「時間を巻き戻してるんだから当然――」
そこまで言いかけて、五十嵐は違和感を覚えた。
時間が戻る前。これから何が起きるか全く知らなかった新学期前夜。
彼には、千寿とすれ違った記憶が無いのだ。
否、『無い』と完全に言い切るのは不適切である。その日彼がすれ違ったのは、外食しに行ったのか「玉子食べ過ぎた」とか「遅くなった」とか、そう幸せそうに笑い合う父娘――彼女の父親と思われる男と、鮮明な橙色を持つ幼女だった。
「おい……あの子は何だ?」
何処か呆然とした、虚空を見るかのような眼で五十嵐は尋ねる。
「ドールは言わなかったかな?」
ハッキリとは言っていない。ただの少女では無い事は告げていた。それは高咲千寿自身もだ。
だが五十嵐はそれを信じたくなかった。だから、高咲千寿がただの人で無いのなら何なんだ? なんて質問する訳がなかった。
黙ったままの彼を見かねた様子で、ナーシャは口を開く。
「キミが魔力をブチまけて生んだ化け物」
「だからそれだったら話の――!」
そこで五十嵐の言葉は途切れた。ベランダの遥向こう側、普段は何も感じない住宅地の中から、異様な魔力と焦げ臭さを嗅ぎつけて。
「げっ、痴女女神の差し金か。何気にあの子の親父の精神に干渉してる気配はあったけど……火くらいじゃ死なないのに何やってんだか……ってか――」
ガシリと。ナーシャは転移魔術を行使しようとした五十嵐の肩を掴み止めた。
「――キミは何してんのかね?」
「決まってる。燃えてるのはあの子の家なんだろ?」
「そうだね。で?」
「煙が一切見えない事と、あの周囲から騒ぎが一切聞こえない事。それと魔力反応。これらから燃えてる家を結界魔術かそれに近い物が囲んでる。だったら誰も、俺みたいに気付ける奴じゃなきゃ中の人間を助けられない!」
ナーシャは「うーん?」と首を傾げていた。
確かに普通は五十嵐の言った通りだが、千寿が火事でも死なない事を彼女は知っている。故にそれほど心配する事は無いはずなのだが、
――なーんか胸騒ぎがするなぁ。結界が張ってあるって事は多分中に居るからよね? 何で外に出てないのかな? 寝てる? 気絶してる? ……いや、でもあの子が気絶するってそんなに無いと思うけどなぁ。
考えるナーシャの手を払いのけ、五十嵐は再び転移魔術の陣を掌から形成し始める。
あらかじめ用意しておけば一瞬魔力を注いで転移可能だったのに……と。千寿の家の周りに転移陣を用意していなかった事を、五十嵐は悔やんでいた。
そこで、あまり時間がない事を考慮したナーシャが一言。
「キミは、本当にあの子を助ける気があるの?」
ナーシャにとって、そこは重要な問題だ。
何せ彼女は、千寿にある事を『お願い』している。実際に千寿を目にした時、帝を殺した事を引きずって、五十嵐に助ける事を辞められては――逆に殺されては困るのだ。
こういう時、ナーシャは人間に面倒臭さを覚えて嫌いになる。
人間は普段合理的である者も、時には酷く愚かになる。あまりにも感情だけで動きすぎるから。
だがナーシャの懸念は、杞憂に終わる。五十嵐の意思の強い発言により、
「五月蝿い」
――否。
「俺は……俺だけは、何があってもあの子を嫌わない」
一人の少女の、たった一度の願いと重なった……
「あの子を護りたいと思った気持ちは、嘘でもなんでも無いんだよッ‼︎」
ナーシャの嫌った人間の感情――心によって。
何故、千寿を恨めなかったのか。
帝を殺した少女を敵とみなし嫌悪出来なかったのか。
ようやくその理由が分かった時、転移陣が完成した。
お久しぶりです。
有耶無耶になった部分は次の次でどうにかする予定です。




