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14.戻る (千寿)


 半袖になる人も少なく無い初夏の候。今朝も人目を避けた通学路で、公園をいつも通り抜けた。


「久しぶりですね」


 朗らかなその声は、ご飯の約束してたのに遠足以来全然会えなかった人のものだ。不思議といつもより俊敏に体が動く。初めの頃、あんなに鬱陶しいと思ってたのに居なくなると寂しくて仕方なかったなんて、私はとんだ天邪鬼だ。


「お兄さん、久し――」


 全てを言い終える前に、思わず絶句した。


「どうしたの? その怪我」


 頬に、私が付けてるようなおっきな絆創膏。片腕にギブス。反対側の足にもギブスで松葉杖。事故にでも遭ったのかな?


「階段から落っこちまして」


 片眉を歪めて笑う。

 私、知ってるよ。その笑い方は、お兄さんが嘘吐いてる時の癖だよ。

 事故は事故でも、偶然車に跳ねられた……なんて物じゃ無さそうだ。でもお兄さんは私と違って一人暮らし。お家の人に何かされる事は少なそう。思い当たるのは……、


「お兄さん。学校で、誰かに怪我させられたの?」

「……」


 あ、失敗だ。今のは直球すぎた。お兄さん、顔には出てないけど困ってる。


「ただ俺がドジ踏んだだけですよ。それより夕飯の件、俺がこんななので手作りは無理なんですけど、一緒に外食はどうでしょう?」


 バランス取りづらいだろうに、私と目線を合わせようとしてくれる姿に胸が痛んだ。だから真っ先に脳裏に浮かんだ理由じゃ無くて、もう半分の私の気持ちを口にする。


「別にいい。お兄さんは、ゆっくり休んで」

「ですが」

「今日は日直だから私急ぐね、お大事に!」


 押し切られる前に逃げることに成功した私は、学校の正門が見える場所で、必死に息を整える。いつもより全力で走って来ちゃったみたいだ。こんなに息切れしたの初めてだもん。


「お兄さんの様子……今度こっそり見に行ってみようかな?」


 息切れが治ったのと同時に、お縫さんの怪我が脳裏をよぎった私の口から、ポロっと溢れる。

 だって私の体、忍者みたいに色々できるし。偵察くらいは出来そう――って、いや流石にダメだよ私! そもそもお兄さんが心配だからって様子を見に行ったところで何も役に立てないもん。下手をしたら迷惑をかける事になる。お兄さんに嫌われる理由が出来る。さっき、それが嫌で逃げて来たのに……。


 『ゆっくり休んで』? そんな事半分も思っていなかったのに、よくあんなにサラッと口から出たものだ。

 私はただ、我儘な子だと思われるのが嫌だっただけ。聞き分けの良い良い子だと思われたかっただけ。…………本当はね、お兄さんの手料理を食べてみたかったんだよ。






 お兄さんの怪我は、日を追うごとに酷くなっていった。

 この前お姉さ――じゃなくてミカちゃんにパッタリと会ったら、彼女の手にもカッターナイフで切られたような傷があって、私は思わずギョッと目を見開いた。

 表情も、会う度に二人は暗いものばかり作るようになっていく二人に、私は明日辺りちゃんと話してもらおうと思っていた。


 つい今しがた――いきなり夜が来て、裸足のまま家から放り出されるまで。

 全身を走る打撃と、荒いコンクリートに磨られた皮膚の痛みに、動きがいささか鈍る。すぐ治るけど、やっぱり怪我したら痛いのだ。にしても、


「なに?」


何? 何で――


「季節が戻ってる?」


 昼間は半袖じゃなきゃ蒸されて死んじゃう気候だった。でも道路に無造作に転がされた今は違う。寒い。一瞬で少し前まで着てた長袖に戻っている事がせめてもの救いだけれど、こんな事は初めて……初めて?


「あ……え? ちょっと、待って……あれ?」


 今は何日?

 ――学校の入学式の日。四月の


「違うッ!」


 頭の中が、ヘドロみたいな異物に侵食されかけた。

 一瞬で払い除ける事が出来たけれど、その感覚を思い出すと凄く気持ち悪くて背筋がゾクゾクする。

 二の腕を何回か摩って、落ち着きを取り戻す。少ししたら普段より早い胸の鼓動がゆっくりめになった。


「さてと……」


 立ち上がり、もう一度私は自分の姿をチェックする。うん、何度も見慣れた服装だ。繰り返しの一年の始まりの日に着ていたものだ。夏用と冬用の二種類しか服を持っていないんだけどね。でも、今はあの日で間違いないはずだ。さっき一瞬見えたお父さんのかっこうが、毎年一緒なんだもん。もう覚えちゃった。


 はぁ、またややこしい事になってるね。今までは四月五日を起点に一年を繰り返してたのに、五月の真ん中から急にまた四月五日になっちゃうなんて。

 そこで私は気付く。

 今日って、お兄さんと会った日!


 思わず駆けた。

 だって前もその前も、今頃はコンビニ近くの和菓子屋さんの前に来てた頃だ。なのに今日は、今までとは違う四月五日の到来に考え込んで出発が遅れた。今日を逃したら、お兄さんと話す機会がなくなっちゃう。

 角を左に曲がって、次も左。急がなきゃ……だって私、お兄さんのご飯まだ食べて無いんだもん。今ならお兄さんは怪我してない。だから、きっと――


「あ……」


 コンビニの灯りがポツンと見えた地点で、私は足を止めた。

 私、凄く馬鹿だ。四月五日が来てしまったという事は、私に夕飯を食べさせてくれるという言葉どころか、お兄さんの記憶に私の姿は無い。


 戻ろっかな。


 このまま真っ直ぐ進めば、確実にお兄さんと鉢合わせする。前の一回みたいにまた声をかけてくれるだろうか? くれない可能性の方が高いだろうな。何回も素通りされたんだもん。前はどうして声をかけてくれたのか、理由聞いとけばよかった。

 でも、どっちにしろ、お兄さんに忘れられてる事を実感するのは嫌だなぁ。


「きみ」


 コンビニはまだ遠い。お兄さんと出会った街灯もまだ距離がある。なのに……足を止めて、歩いていなかったのに、待ち望んでいた人の声が聞こえた。


「その怪我、どうしたんですか?」


 私が前と違う場所に居るからなのか、お兄さんは同じ言葉を紡いでも、表情までは同じじゃ無かった。

 無理して笑ってるみたいだ。


 ねえ、何があったの? 私の怪我なんかより、お兄さんの方がずっと痛そうだよ。


 けれど私に、その疑問を口にする勇気は無かった。だって私はこの人と初対面。この人の記憶では、そうなってる。

 一見完璧な笑顔なんだ。それを初対面、しかも遅い時間に外を徘徊してる怪しい子がいきなり偽りだと見破ったら奇妙極まりない。だから私は、


「……転んだの」


 あの時と、全く同じ返しをする。

 鏡が欲しいな。あの時と同じ表情が作れてるか、全然分からないから。

 貴方には、私は今どう映ってる?


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