40.青空
天上。
神々の世界はその日、血で彩られていた。
首が転がり、手足が捨てられ。
空に浮かぶ島々の緑は枯れ、虹を描く滝は赤く染まる。
神々の世界は地上とまるで違う。緑に縁取られた浮かぶ小島の中に中世ヨーロッパのような煉瓦か木造の建物が並んでいる。そして、大きな島には城と水晶の塔があるのだ。
そんな、鮮やかな色を宿し透き通る水晶の塔の下で、フェヴローニャは眉を顰めた。
「魔力の放出が弱まった……?」
体こそ地上に無いが、常に現状を把握出来るように気を張っているフェヴローニャ。
彼女はパレオを留めているベルト飾りに触れながら、放出された魔力の終着点である場所――三つの鍵が今どうなっているかを確認した。
――なんの問題も無さそう、だけど……。
嫌な予感を覚え、彼女は一度そこから離れる事にした。血塗れの足元に複雑な魔法陣が浮かべば、水底へと沈んで行くようにフェヴローニャの体が魔法陣の中へ消えてゆく。
天上から異空間へ向かうには、動しても地上へ一旦降りる必要がある。認識を阻害する魔法にまで力を割けないため、血塗れの体を人目に晒すリスクを犯すのは本意では無いが、諦めるしか無かった。
面倒だけれども、もう少し。もう少し。と、フェヴローニャは口元に弧を描いた。
フェヴローニャは、元は『まど愛』のゲームが存在する世界に住むただの人間だった。階段からの転落事故により死亡し、神としてこの世界に顕現したのである。
この世界が大好きだった乙女ゲームだと彼女が知ったのは、それから約五年後の事だ。この世界に来た当初から、‘‘あの世界’’だったら良かったのにと秘かに思っていれば、たまたま同じ名前と同じ容姿の子供を数人見つけ、見覚えのある学校の校舎を見つけて気がついた。
彼女は子供たちが成長し、その学校に通い始めるのを待った。そうして、春夏秋冬をおよそ六回経て、ようやくヒロインと悪役令嬢が入学したのである。
フェヴローニャは、心躍らせた。彼女が好きだったのはゲームをプレイする事でもゲームの登場人物達でも無い。ただ純粋に、そのストーリーが好きだったのだ。もう、頭の中で思い出すだけでは無い。もう画面越しに見れないと思った物語を三次元で見る事ができる!
出会いを見て、挫折を見て、そして断罪を見て。
全てが終わった日の晩。フェヴローニャは喪失感にとらわれつつも、同じくらいの満足感に包まれて眠りについた。
「…………どういう、事?」
翌朝。気候ががらりと変わり、日めくりカレンダーの日付が魔導科大学付属高校の入学式に戻っているという事実に直面するまで。
「……ッ!!」
天上から戻り、異空間へ入る寸前。新聞社のヘリポートに降りたフェヴローニャの思考が現実へと戻る。頬を魔力の砲弾が掠らんとしたからだ。間一髪で気づいてその程度で済んだ訳だが、フェヴローニャは訝しい表情を浮かべた。此処まで精密に、正確に自分へ攻撃を打ち込める存在など一人しか知らない。そしてその存在は今、彼女の作った異空間の中で魔力が暴走しており、精密な攻撃を撃つ余裕など無いはずなのだ。
――まさか、失敗した? いや、そんなはずは無い。今も着々と三本目の針は完成に近づいている。
「やっぱり、この攻撃は躱すのね」
微かにフェヴローニャは目を見開く。それは、突如聞こえた少女の声に驚いたからでは無い。空気が、心臓の鼓動のように一度波打ち、歪んだ音を聞いたからだ。
二発目。三発目四発目が立て続けに彼女を襲う。
右肩を狙ったものには微かに体を捻り、左足を狙ったものには足を上げて避けた。そして、四発目が脇腹を射抜いた。
「ぐ……っ」
「やーっと当たった」
空間の歪みから、ようやく声の主が現れる。
セミロングの黒髪に、意志の強そうな瞳の色は一見髪と同じだが、実は蘇芳色だ。中立の取れた体躯に、小さな顔に浮かぶ表情は凛としている。
彼女自身は己の事を中身と合わせて平凡系だと評しているが、元は脇役とはいえ、整った容姿の少年少女が揃うゲームに登場して違和感の無い人物なのだ。客観的に見れば本当はそこまで卑下する容姿では無い。今のように、真っ直ぐ前を見るようになれば尚の事。
そんな土筆寺帝を、忌々しいと言わんばかりにフェヴローニャは睨み付けた。
「アンタ、どうやって……中はもうほとんど崩壊してたはず……」
苦痛に顔を歪め、フェヴローニャは射貫かれた場所を手で覆っている。そこは、血液は出ないものの傷付いた部分が青や水色の光を帯びてモザイクのようになり、続いてバラバラとパズルのように崩れていた。見慣れた赤色が出ない事で既に分かり切っていたが、本当に今の攻撃ならば神に効く事が今一度、帝に知らしめられる。
フェヴローニャは、その馬鹿げた治癒能力からどの攻撃も避ける必要が無いと判断し、帝や得子達がどんな魔術や武術を使っても無駄である事を印象付けていた。しかし、帝のような素人でも撃てる純粋な魔術だけを込めた一撃は、絶対に避けていた。
それが何を意味するのか。
――解。サキを殺す原理と通じている。即ち、魔力による負荷で暴走させるのだ。
「属性付与した攻撃は、打ち出してすぐ魔力が弱まるから当たっても大丈夫らしいけど……。魔力オンリーだと当たった瞬間体内の魔力を激しく刺激するんだって? アンタの場合は……」
「あら吃驚。あの女……、私の弱点分かった上に、貴女に教える余裕があったんだ」
弱点が分かっても、毅然と振舞おうとする事は止めない。圧倒的な強者の矜持――では無く、此処に帝が居るという現実が、フェヴローニャに千寿の死を連想させたからだ。しかし、全身の皮膚から噴き出す汗が彼女の感じている苦痛を物語っている。
それに対して、帝は不敵な笑みを浮かべてフェヴローニャへ歩み寄っていた。
「どうするつもり?」
「愚問だね、アンタを消すに決まってる。それでリト達を助ける」
「あはは……。まさか、物忘れが酷いのかしら? さっき言ったわよね? もう彼等の魂は私の管轄から離れてるって」
憂さ晴らしに放っても、根本的解決にはならない。彼等を助けたいのならば、むしろ手遅れになる。しかし帝の笑みは崩れず、「ダウト」と、悠然とした声が喉からすべり出た。
「アンタの性格の悪さはもう知りつくした。わざと嫌なこと言うし、嫌な嘘吐くのも日常茶飯事なんでしょう。あー、やだやだ悪意しか吐かない奴って。豚に齧られろ」
「あ゛ァ?」
目つきを俄かに鋭くしたフェヴローニャを見て、帝の笑みは深まる。
「そもそも、敵のいう事を馬鹿正直に信じるのがちゃんちゃら可笑しい話なんだよ」
「一度信じてキレた子がよく言えるわね」
傷口からフェヴローニャの手が離れると、今しがたまで光っていた傷口が塞がっていた。だが、まだ顔色が優れないところを見れば皮膚はともかく中は完治に至ってないと伺える。
足元を蹴り、帝はフェヴローニャとの距離を詰める。その迅速さが、帝の中で『まだ弱っているうちに一気に片を付けよう』という気持ちより、思っていたよりも早い回復への焦りが勝っているようにフェヴローニャには思えた。
「距離を詰めたからって、どうなるというの?」
クスクス笑ってみせるフェヴローニャだが、帝の目的地は彼女では無い。フェヴローニャは途中の通過点に過ぎない。
――帝は、すり抜けた。「え?」と、小さく零したフェヴローニャの横を。
そして元から用意していたらしい空間の歪みに生じた魔法陣へと、身を投じたのだ。
「! ……まさかッ」
フェヴローニャは顔色を変える他無い。
異空間は千寿の暴走で崩壊する事が確定している。よって、そんな場所に大事な大魔術の鍵三点を残す馬鹿者など居ないのは当然だ。では、フェヴローニャは何処にそれ等を保管していたのか?
答えは簡単。小さくして、身に付けていたのである。唯一身にまとっていたパレオのベルト飾りに偽装したケースの中に。
「何で此処にあったの知ってんのよ!!」
キレながら、フェヴローニャも異空間へ駆け込んだ。彼女の作った異空間は既に千寿により崩壊間近だが、それでも今盗られた三本の鍵の入ったケースは取り返さなければならない。それが無ければ、全てが水の泡になってしまうから。
――――冷気? ちょっ……何よコレ!?
フェヴローニャの予想では、異空間の向こうは無限の白もしくは絶対的な黒のはずだった。しかしその予想は裏切られ、彼女の視界いっぱいを広い広い雲と青の世界が覆っているのが現状だ。
「しかも飛べないッ」
異空間の外であれば簡単に使える飛行魔術が、フェヴローニャの意思に反して発動を許さない。
異常事態である。
この世界は製作者の意向が深く関わってくる。ようは、フェヴローニャの意向に沿わない事が起きるはずが無いのだ。特に、他者の抵抗が存在しない自身の強化魔術や防御魔術、そして飛行魔術に関しては。
底は無く、ただただ青空を落ちて行くだけの空間の中。試しに空間に穴を開けて外に出ようと思った。だが、魔法陣が形成途中で霧散したのを見て一つの結論に至り、フェヴローニャは舌打ちした。
「出られないみたいだし。マジで忌々しいわねあの小娘……」
夕焼け空では無く青空であった故に一瞬気付けなかった犯人像。
――もう死んだんだと思っていた。
――此処まで力が有り余っているとは思わなかった。
そんな後悔を今更しても遅い。フェヴローニャは、世界の介入を取っ払い、他者の製作した異空間を自分のものに作り変えるような規格外を探す。
「何処に居るの高咲千寿ッ!」
何処に居ようが聞こえるだろう大音量の嵐が暴れる。間も無くして、「喧しいわッ」という人間らしい大きさの怒号が飛んできた。真下からだ。望んでいた千寿の声では無いが、彼女と全くの無関係では無い存在のソレを放置しておくほどフェヴローニャは耄碌していない。否、そういう理由は関係無くかの声の主は放置出来なかった。彼女から、ケースを奪った帝の声だったのだから。
「アンタねぇッ、私の鼓膜破る気なの!?」
苦痛と怒りに歪めた帝の表情に、普段なら歓喜のあまり高らかに笑えたが、今は微笑すら浮かべる余裕が無かった。
ピリピリした殺気に反応した魔力が紫電となり、フェヴローニャの肌の上を蛇の如く跳ねる。そして、まだ帝の手の中でフェヴローニャが身に付けていた時と同じ形を保つケースを目にして、その魔力が掌へと集中した。
こんな……こんなッ!
「元はNPCでしょうがッ、神様に逆らってんじゃ無いわよッ!! 従順にッ、とっとと大人しく死になさいよ――――ッ!!」
花火よろしく掌で起きた小規模の放電現象。それは、此処にまんまと誘き寄せられた事への八つ当たりが沸々と込められ、わざわざ声にした内容を掻き消す落雷を生んだ。
いきなりこの展開だと訳が分かりませんね……。お約束は難しいですが、なるべく次を早く更新できるようにします。




