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短編小説

死ねばいいのに

作者: 及川りのせ

 あれは高校生の時だった。人に死ねとか言わないと決心を改めたのは。もちろん聖人君子ではないから頭の中では数え切れないくらい暴言を吐くこともあるにはあるが、絶対に唇へ乗せることだけはしない。そのおかけでどんなムカつく事態もぐいと越えられたのだから多分、俺は間違っていなかったはず。


「……死ねばいいのに」


 あの誓いを早くも破ることになろうとは。いいやでも俺、悪くないと思う。世の中のために死ぬべき輩の存在を明確に認識してしまったのだから。


 そもそも佐渡課長がこんな酷な雑務を押し付けるからいけないのだ。暇をあげるよとでも言わんばかりの気軽さで指示され出向いた先にこんな気狂いがいるなんて想像つかないだろう。血液型占いの類は眉唾だけど、それでもA型の悪いところばかり集結させたアンタとB型の俺が上手くやるには世界がベルリンの壁をぶっ壊した以上の困難が伴うのだ。

 なんでこんな罰ゲームじみた展開になってしまったのか。元凶はあの勉強しか取り柄のない新卒野郎のせいだった。



「聞いたんだけどー、我妻さんって僕らとタメなんだって?」

 喫煙所の右端、いつもの定位置に陣取っていたところ突然声をかけられた。

 それが誰なのか記憶を手繰り寄せてすぐに思い出す。先日の新人研修の中にいたひとりだった。本社配属となった新入社員ばかり集めた研修の一コマを受け持ったのだが、やたらと上から目線に茶々を入れてきた奴だったからよく覚えている。その時以上に馴れ馴れしさに拍車がかかっていた。

「学年だとそういうことになるね」

「へえ、やっぱり特別扱いで入社したって本当なの?」

 世界的な不況のあおりを受け、今年の入社組は就職活動に難儀したというのはもちろん知っている。就職活動なぞしていないに等しい自分がとやかく言える立場でもないが、特別扱いというワードだけは誰に言われても引っかかる。

「やることやってるから」

「でも多少のことは多目に見てもらえるんでしょ?」

 僕なんてまた怒鳴られちゃってさあと、自慢にもならないことを恥ずかしげもなく言えるのだから閉口するばかりだ。

「僕もそんな身体になれば優しくしてもらえるのかなー」

 それは意地悪い顔にしか見えなかった。俺が激昂するところを期待しているかのような。さり気なくIDカードを見やる。川瀬か。覚えておけよ。

「……さあどうだろ」

「優しくされてることは認めるんだ?」

「その分やることはやってるから」

 灰皿に煙草をぐりぐりと押し付けた。その燃え殻の先に川瀬をなぶる想像をしながら。

 こんな安い挑発を受けて、導いてくれた恩師や受け入れてくれた佐渡課長の期待を裏切るようなことだけはしない。

「なになに、逃げるの?」

「まだ仕事があるの」

 やたらに見下してくる手合いはこれまでも一定数いたのだ。取り合うほどのことでもない。

 俺はお前より早くに社会に出たんだなんて態度を見せたら負け。大学四年分の自尊心をくすぐる言葉を適当にかけてやる方がよほど円滑に事は運ぶし、それで自分が不快を覚えることになったとしても些末な話なのだ。

 そんなことは百も承知であるが、なぜか今日はこれ以上の寛容さを見せる気分にもなれず。振り返らずに喫煙所を後にした。


 川瀬はボンボンの坊ちゃんだった。持っている高価なバッグや腕時計も、手前の給料で買った代物じゃないだろうとすぐに気付いた。実家はもともと農家で、有り余る土地を上手いこと活用してやっているらしい。

 本人も幼少期から塾だの習い事などに勤しんで最高学府で最終学歴を修めるに至ったと聞くから文句なしの勝ち組なのだろう。そんなのが俺みたいなのにやたら絡んでくる理由を分析してみた。きっと川瀬の中で俺は、圧倒的に劣る弱者であるべきなのだ。あのニヤけた横面もそんな下らないことを確認している作業なのだと思うと自然と白けた気分になれた。


 事務室に戻るなり佐渡課長に呼びつけられた。主任昇格試験を受けろという突然の通告。

「そういうのは、あまり興味ないんで」

「そう言うな。職務手当だってつくようになる」

 正社員と契約社員の中間的な、それが俺の立ち位置だった。いわゆる障害者雇用枠。特別扱いという言葉が頭を過ぎる。職務手当のある主任になれば正社員と変わらぬ扱いになる。しかしそれがそもそも、特別扱いというやつになるのでは。

「特別扱いとか、そういうのもいいんで」

「勘違いをするな」

 受験要項を彼が指し示す。勤続四年目から。必須資格もいくつかあるがどれも取得済みだ。それを満たしているからやれと言いたいのか。

「所属長推薦も出してあるから必ず受けろ」

 なんだよそれ、俺の意志は介在しないじゃん。



「へえ、一人暮らししてるんだ?」

 何日かに一度のペースで川瀬は絡んでくる。今日は食堂でラーメンをすすっていたところ、当たり前の顔をして隣に座ってきたのだ。もちろんそこに社歴は上の俺を立てようなんて態度は欠片もない。

「そっちだって独身寮だろう」

「てっきり親御さんに世話してもらってるんだと思ってた」

 まただ。ニヤニヤとした顔。コノヤロウ、分かっていて言ってるな。

「……たまに家事やりにきてもらうくらいだよ」

 顔色を伺う。愉悦の色を取り繕おうともしていなかった。


 本当はとるに足らない事柄なのに、川瀬は面白いほど安易なおだてに乗る男だった。

 百点を取りすぎてそれが当たり前となり、いつの間にか誰も褒めてくれなくなった。末は医者か弁護士かともてはやされていたけれど、天才どもの群れに放り込まれてみたら秀才ごときの才能では頭打ち。言葉の端々から、圧倒的強者を前に埋没した過去が伺われる。それは彼の中で大きなコンプレックスとなっているらしい。

 俺の知っている本物の天才と比べ、川瀬ときたら。そういう底の浅さばかり目に付く。

 そんな風に考えてみたら俺のような人間にやたらと絡んでくるのにも合点がいく。ハンデ持ちの圧倒的弱者。天地が返っても己の優位性が覆ることはない安心があるのだ。俺を相手している時だけ天才的な全能感に浸っていられるから。


「ところで、昇格試験があるんだって?」

「……まあね」

「大変だねえ」

「ま、受験サボったツケだよな」

「大変だねえ」

 その目はひどく嬉しそうに笑っている。

 彼の唯一と言っていい取り柄を持ち上げる言い回しをするだけで、その日は満足して視界から消えてくれる。プライド無いのと問うてくる者もいるが、突っ張っただけのプライドほど情けないものもない。


 ようようとテーブルを離れていく川瀬の後ろ姿を見て考える。肩張ってさぞかし良い気分なのだろう。

 アイツは大卒だから何もしなくても二年働けば主任だ。その後も係長までは自動的になれてしまう。こっちは何かにつけて面接のいう名の尋問や試験を受けさせられるというのに。そっちの方がよっぽど特別扱いだろうが。これは突っ張る時なのか。

 大学進学を断念したのもサボった事情ではない。天才なんかじゃないけれど勉強は昔から得意な方だった。



 その日の午後、部門間合同会議の席に川瀬がいた。用意したレジュメ資料を並べていたところ、聞いてもいないのに彼はペラペラと喋り始める。

「いやあ、うちの担当係長が急病しちゃってさ。代打を頼まれちゃってさあ」

「それはご苦労なことで」

 会議といってもお前の部署はいつだって首振り人形しか来ないだろうが。首振り人形なら部長が来ようがヒラが来ようが同じことなのだ。新人研修のようにうるさくしてくれるなよ。しかしその悪い予感は的中することになる。


「……ここ、定義としてまずくないですか?」

 お前のところの馬鹿担当は引き継ぎもロクにしていないのか。得意顔で指摘をしてみせた川瀬にうんざりする。それに乗っかる形で別部署の副課長も「もっと掘り下げてみた方が」なんて抜かす。おやおや、お前は確か前回の会議、遅刻の上に居眠りこいていやがったな。

「ではもう一度、三ページ目に戻ってください」

 かかりきりで作ったレジュメの内容は一言一句漏らさず頭に入っている。

 ふたりの顔を凝視したままに本文を暗唱して言葉を重ねた。

「その点については二カ月前に結論付いておりますが、問題ありますでしょうか」

「ああ、ああ、そのことだったのか。勘違いしてしまったよ」

 ふやけた顔で副課長が取り繕う。勘違いしてたじゃねえぞ、コラ。

「ふうん、それならもっと分かりやすく書いといてくださいよ」

 川瀬は尊大な態度を崩さない。手前上司の連携不足を俺のせいにすんじゃねえぞ、コラ。

 時計を見ると十分近い大幅なロス。仕事の邪魔だけはしてくれるな。そればかりはどうにもこうにも我慢がならない。

「今日の会議は以上となりますが……森野副課長と川瀬さんは残ってください」

 川瀬はともかくとして副課長に対する怒りが収まらなかった。そのきっかけを作ったのは川瀬であるが、こんな馬鹿でも副課長を名乗っていられることに腹が立つ。


「次の会議でレジュメに書いてあることをまた質問したら許しませんからね」

 俺の苛立ちが伝わっているのかは不明だが副課長は面白くないといった顔をしている。俺の説明不足としたいようだが、なぜ準備不足に合わせてやらねばならぬのか。

「あとで前回までの資料、再送しますので。次までに全部頭に叩き込んでこないと許しませんからね」

 川瀬にも同様に告げる。行けと言われて本当に『行くだけ』の馬鹿は来なくていいのだ!



「我妻、どういうことだ」

 件の会議から一夜明けて。なんとあの副課長、役職者に楯突くとは生意気だとかなんとかで、俺をすっ飛ばして直々に佐渡課長へ苦情したらしい。

「怠け者は来るなと間接的に言っただけです」

「気持ちは分かる。でも言い方ってもんがな」

「課長だって言葉キツい方じゃないっすか」

「お前が言うとな、生々しいんだよ。相手にも逃げ道を与えないと反発しか残らないぞ」

「はあ……」

 俺、ちょっとやそっとのことなら指摘しないし。そこに容赦などしてやる余地がどこにある?

「何か困ってることでもあるのか」

「いいえ、特には」

「最近、余裕ない顔をしているぞ」

 余裕がない? この俺が? 

「ちいと気分転換した方がいい」

 調子を狂わされているだけだろう?



「災難でしたねえ」

 やりとりを見ていた藤沢が声をかけてきた。社歴は三年も長いがこちらの方が年下というアンバランスな関係であるものの、社内では一番気の置けない仲なのだ。

「企画部の副課長にふっかけちゃったと聞きましたよ」

「俺が言うと生々しいって注意されちゃいまして」

「あー、分かる。我妻くんがキレると人として生きることを許されないような心地になる」

「大袈裟な」

 そこまで酷い言い方をしたつもりはない。そんなに高い要求をしたつもりだってないはずだ。

「だって普段は滅多なことで怒らないでしょ? なんて言うのかな、高次元に生きてるって感じがする。そうそう怒らない男が、こと仕事が絡めば淡々と断罪してくるわけですよ。ギャアギャア喚き散らされる方がよっぽどお慰みになるわけですよ」

 思いがけない指摘に己を省みる。そんなに怖いのか、俺。

「もっと、こう……感情むき出しくらいで丁度良いと思いますよ」

「そんなこと言われても」

「このくらいじゃ動じないとか、言っちゃダメ。そういうのが高次元過ぎる。四角四面の男はつまらないんですよ」

 別につまらない男で構わない、と喉まで出かけ飲み込んだ。ちょっと気分転換でもしてきなさいという佐渡課長の言葉を思い出していた。

「……そうだ。明日、会社来ないんで」

「我妻くんが休みなんて珍しい」

「半分仕事。課長に頼まれ事されて」

「へえ、気をつけて」

 藤沢は特に興味なしといった反応だ。食いついてきたら押し付けてしまおうと思っていた目論見は外れる。厄介事になる予感しかないのだけれど。




 職場から五、六駅ほどのところに、佐渡課長の古くからの知り合いがいるらしいのだ。そのことについて聞かされたのはついさきほどのこと。

「挨拶がてら行ってきて」

 なんだか訳ありそうな封書を差し出しながら佐渡課長が言う。

「取引先の方かなにかで?」

「そういうのじゃあない」

 チラリと視線を回し近くに人がいないことを確認し、声のトーンを落とす。耳を寄せれば「少し前まで矯正施設にいた」ときた。思わず聞き返すが聞き間違いではない。なんだよそれ、絶対的に面倒事になりそうじゃんか。

 ちょっと手伝いに行ってあげて欲しいの一言だけを託された。



 面倒と分かったところで拒否はしない。佐渡課長に対する信頼を担保に、翌日その場所へと向かった。

「げっ」

 最寄駅に到着し、駅を出てすぐのところ。目の前に続く下り坂。勾配は大きくないがそれなりに距離がある。屁理屈こねて藤沢に投げてしまえばどんなに良かったかと思っても時すでに遅し。

 右足を長めに踏み出し踵で踏ん張る、左足をその踵あたりで止める。常に右足だけ半歩先に進める形で坂道を行く。集中しないと膝折れを起こすから、ガードレールから手は絶対に離さない。

 曲がり角のところまで来て脱力しそうになる。今度は上り坂かよっ。

 下り坂の時とは反対に左足を大きく出して右足はやや後方に取る。勾配は先よりきつくて汗が噴き出した。距離にしてほんの数百メートルだが、平地にはない余計な負荷をかけたせいで腰の右側ばかり痛みだした。全く勘弁して欲しい。登り切って目的のマンションに辿り着く頃には、そこの管理人に怪しまれるくらいにはヘロヘロの歩き方になってしまっていた。

 とにかく部屋まで行けば座って休むこともできるだろう。そのことばかり考えながらオートロックの部屋番号を呼び出した。



「上がって」

 その出迎えは歓迎の二文字をどこか遠く置き去りにしたようなものだった。佐渡課長の話の中で「司くん」と言っていたから俺は名前を認識しているが、こちらは俺の自己紹介など求めている素振りもない。上がれと愛想なく言うだけでさっさと部屋に入ってしまう。玄関先で手間取っていると振り返り戻ってきた。

「早くしろよ」

「ええっと、ビックリしないでください……」

 初対面、自己紹介もしない内にこの至近距離で強制披露かよ。苛立ちを隠そうともしない彼は怪訝に俺を睨む。もたつきながら左靴を脱いで次は右。ターンテーブルを回すと右膝は生身では『有り得ない方向』に曲がる。その格好でようやく右靴も脱いで、さっきの引いた汗がまた吹き出てきた。でもこれは冷や汗の類だ。

「義足なの」

「ええ、まあ」

 右足を正しい方向に直しながら彼を見る。自力で靴を脱ぐにはこうするより仕方ないのだ、そんなに睨まなくてもいいだろう。

 しかしながらこちらの事情が知れたからといって温い対応になるわけでもない。部屋に入った俺は愕然とする。これは引越の荷解き中とやらではないか。

「片付けないと場所がない」

「そうですねえ……」

 場所はいいから椅子をくれ。

 片付けだって手伝えと言われれば手伝うが、思いがけない事態の連発で体力はガリガリ削られている。一休みを、そう言いかけて言葉を呑む。

「それはあっち」

 俺の足元にある段ボールの中にある本を、壁際の本棚に運べということらしい。やるけどさあ……。

 黙って従い何冊かを並べていると、急にその作業に割り込んできた。

「なんですか」

「ちゃんと並べろよ」

「はい?」

 俺が立てたものを取り出し、入れ替えて。わあすごい、五十音、そして背の順になりました。この通りやるけどっ。やるけどさあ……。

 自宅の本棚なんて適当に隙間へ詰めていく作業だがそれで困ったことなんてただの一度もない。むしろピタリ合う隙間に納めるのだから、そっちの方がよほど空間効率もいいだろうに!


 まるで神経衰弱でもやらされてる気分で精神的にもドンドン削られていく。どうせ三ミリくらいの高さなら大した違いもねえだろと途中から適当に詰め込んでいたら、それすら目敏く指摘されるものだから神経衰弱と何ら変わりない。

 やっと段ボールをひとつ空ける頃には気怠さが全身に乗りかかっていた。痛む腰にグリグリと拳を当ててみる。

「次はあっち」

 彼は指示ばかり残して奥の部屋へ物を片付けに行ってしまう。疲れていますアピールは無効に終わった。


 あくまでも佐渡課長の頼みだから来たのであって、勤労奉仕が趣味ってわけじゃあないんだよ。ちっとも「ちょっと」の域じゃないお手伝いに溜息が落ちる。

 どうすんのこれ。我流で並べたらまた怒るばかりだしと、書類の山を見渡した。書籍をはるかに上回る無秩序。その中でひとつ、他よりも劣化して痛んでいる書類の束を見つけた。何となくそそられるものがあり、綴じ紐でまとめられているだけのそれをペラリとめくる。

「こんなもの丸出しにしておくなよ」

 正直に言って好感度ゼロ状態からスタートしているわけで、改めて彼の新情報を得たところで評価がこれ以上は下がりようもないのだ。

 それはまさかの刑事事件の裁判資料だった。見方は分からずとも結論だけははっきり記されていて俺でも読み取れる。

 佐渡課長はオブラートに包んでいた過去がそこにあり、殺人の前科持ちであることが判明したところでゼロにゼロを足しても結局ゼロだった。むしろこういうセンシティブな書類をむき出し放置で平気なデリカシーのなさだとか、そちらの方がよっぽど目に付く。

 確かカバンの中に持っていたはずだと紙封筒を取り出した。何かと便利で日頃よく持ち歩いているが、まさかこんな場面でも役に立つとは思わなかった。丁寧にしまって留め具をかけたところまでで奥から扉が開けられた。

 俺の持つ紙封筒を凝視して不機嫌に顔を強張らせている。

「何してんの」

「いやあ、だって有り得ないでしょ……」

 世の中を睥睨して回っているような目がいっそう尖る。

「……上に置いておいて」

 そう言い目で示したのは本棚の上だった。そこは背伸びでやっと届くかどうかの高さである。わざとかっ。俺にわざと言ってるのかっ。俺で背伸びならアンタにはジャンプの高さじゃないか。

 ふざけるなよと募りたい気持ちを抑えつつ下段の一番端っこに突っ込んでやった。自分の指示通りにならなかったことが相当気に食わないらしい。それは舌打ちと、人として最低な一言となり俺の背中に投げつけられる。


「このカタワが」

 なんで俺はこんなクソったれのために堪えているんだろう、考えるより先に口が動いていた。

「……死ねばいいのに」

 身体障害者とかいう露骨過ぎる表現に比べたら一見、何が何だか分からないこっちの方がよっぽどマシだ。でもそれは一人称で使う場合の話であり、二人称や三人称の文脈で言うべき単語じゃあないんだよ。それを言ったのが例えば佐渡課長や親友だったら笑ってやるが、俺とアンタの間に信頼関係は皆無だ。

「マジで死ねばいいのに」

 繰り返して言う。そんなことも分からないから刑務所にぶち込まれるようなことになったんだろ。人格破綻者よろしくに怒り出すかと思いきや、口元は綻んでいた。

 何を笑っているのか。笑い事じゃないんだぞ。睨み返すと彼はまた不機嫌に唸る。

「なんか文句でもあるの」

 むしろ文句しかねえよ。一言謝れ。そうすればノーサイド、一切合切水にも流す。それまでは口も利かないぞ。

 まだ残る書類の山々を見る。ひとつのケチもつけられないほど完璧な状態に片付けてやる。だから謝るまで絶対に話しかけてくれるなよ!


 † † †


 佐渡課長の命で受けることになった昇格試験という名の面接は、ものの五分ばかりで終了してしまった。たっぷりひと月近くかけて論文を用意させられたりもしたのに「主任にしないとおたくの課長さん、うるさいから」の一言で結果は出たのだ。

 申し訳程度の給金上乗せで、仕事は容赦なく上乗せされてしまう。特に、アレの煩わしさときたらない。佐渡課長の頼みだから請け負うが、そうでなければ本当にややこしい。事の始めで気分転換しろと言われたのだったから、思いきって国外逃亡を図ってみたくらいにはややこしい雑務だ。



「サイパンですか」

 一週間たっぷり取った休暇明け。はいお土産と、袋菓子を配り回っていた。藤沢はさっそく頬張っている。

「昔馴染みたちとね。主任になったからお祝いにって」

「海に、入ったの……?」

「まさか」

 沈みますもんねえと、藤沢の視線が落ちる。

「と、思うでしょ。これ意外に浮くんです」

「へえ。それなのに泳がないなんてもったいない」

「片足だけ浮いてもね。頭が沈むんじゃないかな」

「なるほど」

 お土産はいくつか余りそうだったから、丸ごと全部藤沢のデスクに置き残した。この休暇中、ほとんどの仕事を肩代わりしてくれたから。おかげさまで四泊五日、小さな南の島でのバカンスで身も心も晴れやかだ。


「我妻くん、ちょっと変わりましたよね」

「そりゃあもう仕事忘れて遊び尽くしたから」

「そういう意味じゃなくて」

 ふたつめの菓子に手を出しながら藤沢は続ける。

「最近よく外出するようになったでしょう。それからだ」

「……変なこと言わないでください」

「悪く取らないでくださいよ。修行僧が下界に下りて来た的な。悟り人がちょっと俗っぽくなったくらいの話で」

「なんですかそれは」

 思わず眉をひそめたが、その表情だよと鼻先を指された。今ここに鏡などない。俺はどんな顔をしているのか。

「ああ、思い出した。我妻くんのこと課長が探してましたよ」

「えー」

 面倒事の予感に限って、よくよく的中してしまうんだよな。



 またしても佐渡課長に指示されて、面倒な坂を上り下りせねばならぬあそこに行くことになってしまった。これでアイツの元へ行くのは七回目となる。内容不明の書類を届けたり預かったりするだけの雑務だ。こんにちはを言わずに入り、さようならすら言わずに帰った過去六回。その六回で口が悪いのではなく性根が腐りきった男であることは十分に分かった。次の七回目だってきっと同じことなのだ。

「話しかけても返事もないって、困っていたぞ」

「はあ」

 話しかけている、だと?

 あれが話しかけているというのなら地球に言葉などもういらない。わざとの暴言で人を不快にさせているのではなく、天然で不愉快を撒き散らしているならば、俺はますます口を閉ざすばかりだろう。謝るまでは絶対に口を利くものか。

「上手くやってあげてくれよ」

「はあ……」

 俺だって言葉狩りをしたいわけじゃないのだ。しかし物事には順序が、人としての矜持が、他者と関わるための協和が、あるだろう。越えてはならない一線をいきなり踏み抜いたのはアイツの方だ。たった六回しか会っていないのにあの最低発言を二十回は聞かされた。つまり一度に三、四回。そろそろ動じるのも疲れてくるほどなのだ。

「はっきり言いますけど、課長の頼みでだから、行ってるだけです。課長はなんでまたあんないい年こいた人の世話なんて焼いているのです」

「我妻と似たようなもんだよ。頼まれているからねえ」

「はあ……」

 それ、世間様では『たらい回し』と呼ぶやつではないか。



 結局、彼が謝罪の言葉を述べるまでに一年もかかった。それも自発的なものではなく見かねた佐渡課長の助言によるものであった。

「謝れって言われたからとりあえず謝る」

「……まあ、いいですけど」

 通算にして五十九回も聞かされていれば、許すより先に耳が慣れる。しかし誠意ゼロでも謝罪は謝罪、ノーサイド。許されたいという発想のない人間から謝罪を引き出そうとした俺が馬鹿だった。

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