#008-2 感謝
ダメだ。
死ぬ。
いや、殺される。
そう僕は思いはすれど、体は動かない。
脳からの指令が届かない。
死ぬ。
糸のように絡みついた恐怖が手足を重くしていた。
ただ、相手も気づくとは思っていなかったのか。
それとも、咄嗟に俯いていたのが幸運だったのか。
僅かに起動が逸れた―――
僕の皮膚を微かに抉るだけで、注射器の先端は喉もとに刺さらなかったのだ。ズリズリと薄皮を捲っていくも、今は気にもならなかった。それよりも何かを考える前に僕の足は動いていた。ただ、がむしゃらに、この場所から離れようとした。逃げてるんだか、走ってるんだか、真っ直ぐなのかも分からなかった。ただ、必死に僕は足を回そうとしていたのだ。
―――その時だった。
ぎらりと何かが光った。
突き刺すような鋭い、何か。
それが背後で。
あ、マズい、そう僕は思った。
そして、咄嗟に一歩だけ壁に近寄ると、一台のバイクが走り抜けていったのである。見ると、さっき通り抜けていったおばさんが戻ってきた姿があった。カゴが空だったので、荷物を運んでいた帰りなのかもしれない。
あっという間に、バイクは闇夜に消えた。
その後には、ただ暗い闇が広がっている。
もうどんなに探そうとも、辺りには誰もいなくなっていたのだ。
やがて、ああ、助かったのか、そう思った僕はヘナヘナと壁により掛かってしまった。
あの時、たまたま携帯を探してなかったら、殺された。間違いなく。僕は殺されたのだ。そのことを想像するだけで、血の気が引いてきた。今更だが、足のつま先から冷たい何かがせり上がってくるのだった。
「……とりあえず、あの運転の荒いオバさんに感謝しなくっちゃな。マナーを守らないでくれて、ありがとうって」
僕は安堵感から震え出した体を押さえつつ、そうボンヤリと呟いていた。空を見上げると、墨汁のように黒い空の隙間から微かに美しい月の光が降り注いでいた。




