#008-1 感謝
そこは、暗い通りだった。
街頭の数も少ないし、外壁が高いので民家からの明かりも届かないし、最近の節電で自販機の光は消えていた。少し帰宅ラッシュの時間を過ぎたから辺りには人影すら全くない。スマフォで最短の帰宅ルートを検索していなかったら、まず間違いなく使わなかった道だろう。
うぉおぉ。
あおぉぉお。
犬ではない、何かの遠吠えが微かに鼓膜を刺激していた。もしかしたら、どこかの家で寝た切りの老人が家族を呼ぶために叫んでいるかもしれない、そう僕は思った。何度も何度も繰り返しているからか、嗄れた音だけが黒い世界に広がっていったのだ。
こんな道、長居はしたくなかったので、そそくさと僕は足を速めていた。
―――その時である。
ぎらりと何かが光った。
突き刺すような鋭い、何か。
それが背後で。
あ、マズい、そう僕は思った。
そして、一歩だけ壁に近寄ると同時に、激しくエンジンを回しているバイクが走り抜けていったのである。見ると、太ったオバさんが大量の食料品をカゴに詰め込んで、かなり飛ばしている姿があったのだ。
「……こんな狭い道で危ないなぁ。もし、子供が脇道から飛び出してきたら、あの人、どうするつもりだよ」
と、僕は苛立ちを隠さずに呟いた。
ああいう風に迷惑をまき散らすような年寄りにだけはなりたくない、そう考えつつポケットから携帯を取り出そうとした。いま何時なのかが知りたかったのだ。本当に、それだけ。それだけを考えて上着のポケットに手を突っ込んだのだが、指先に何の感触もなかった。あれ、どこにしまったっけ、そう僕は考えつつ体をまさぐった。
しかし、それでも携帯が見当たらないので、訝しみつつ下のポケットを見た。
―――そこで目があう。
まるで、汚水が貯まっているかのような、ぼやけた瞳で。
真っ黒な眼球で。
俯いた僕と、視線がかち合っていた。
ボロボロに薄汚れたホームレスの服装に、顔の見えないボサボサの髪。
その手には、注射器が握られている。
その先端は、僕の喉に突き刺さろうとしている。
その行為は―――




