前編
思えば昨日から具合が優れなかったような気がする。ただ、残念ながら俺は常に具合というのが悪い。といっても生まれたときから絶えず気分が悪く病弱だったわけではない。
いつものように公園にきて、パンをかじっていたがあまり味がしなかった。そして、都会の高層ビルの向こうに立ちこめる陰気な曇天を眺めていると、頭が痛くなってくる。
歩道橋の階段の下には生活感漂う空間がある。地面に直に布団が敷いてある光景は、いつまでたっても見慣れそうにない。
自分が家を持たないのに、鳩に施しを与えたくなるのはどういう心境なのだろう。少なくともひと月は風呂に入っていなさそうな後ろ姿を眺めながら思う。
彼らは鳩の目にどう映るのか、考えるのも無駄だ。
公園の鳩というのはひどく単純な連中だ。餌があれば群がってくる。
それなら、金に群がる奴らも鳩と同じ頭の中身をしているんだろうか。
天気は好転しそうにない。降水率はいったい何パーセントだったのか、ニュースは右から左に抜けていったからわからない。携帯を取り出したが、着信やらメールやらのたまり具合をみて電源を切る。
少し前までコンビニの飯も捨てたもんじゃないと思っていたのに。食べかけのパンをちぎって投げると鳩が群がってきた。
よく太った鳩たちだ。俺よりいいものを食べているかもしれない。
なら、公園の鳩は俺よりも幸せなんじゃないか。
階段の下の住居空間の主は、姿が見えない。鳩にエサをやっているホームレスは、あの場所の人間ではないらしかった。いつきても居ないのは、その人物が決まった生活リズムで動いているからだろう。持ち主が死んでいるという可能性もある。あるいは単なる投棄物だ。
投棄物ってのは、どんな気分なんだろうな。せっかく世に送り出されたのに、地面にしかれるのは不幸かもしれない。もし、持ち主が居るんだったら毎日使われるのは幸せかもしれない。
「帰るかぁ?」
連れは居ない。返事はない。公園の鳩は群がるばっかで返事を返してくれない。
この頭の悪そうな面は嫌いじゃないのに、人間のこととなるといきなりうざくなる。理由を誰か教えてくれよ。
飯が少ないと体がだるい。床でいいから自分の家で寝たい。
コーヒー飲みたいなぁ。と思いながらあくびをかみ殺す。
ビジネスマンは公園で脱力する冴えない男を、横目でにらんで通り過ぎる。
安物のスーツに着られる冴えない男。就職難でまともな職に就けなくて、平日の昼間から暇で公園の鳩以外に話し相手もいないかわいそうな男。
あのビジネスマンは俺をみてそう思った。
俺もそう思ってる。
スーツにはしわが寄ってきてるし、薄汚れてる。これは野ざらしの公園のベンチなんかに座ってたからだ。劣化したペンキとかがケツにつくからだ。
クリーニングに出して、洗えば元通り。だが洗って汚れて洗って、繰り返すたびに少しずつ劣化して安物スーツはボロスーツになる。そんな感じで俺の神経も絶賛すり切れ中だ。
世間に居るのが申し訳ないような顔をした猫背で、家に帰る。家、なんてもんじゃない。
俺には分不相応に大きいだ。こんな家、欲しくない。俺には全く似合わない。
まず、どの扉を開けてもうんざりする。
頭がいたい。偏頭痛は遺伝だという。それなら、この頭痛が俺と親をつなぐ唯一のものだ。それ以外は、全く俺のものじゃない。
「遅かったですね」
俺よりスーツが似合う。俺よりもこの家が似合う。
こんな女、いらん。
頭が痛い。コーヒーとか入れやがって。
そういう頭がよくて気が利くような顔している、頭が空っぽのやつがうざいんだ。
こんな家もいらない。金も欲しくない。
この女が来たせいで、俺は鳩にたかられる。欲しくもない、分不相応な金が俺のもとに転がり込んだ。
俺はずっと一人だったのに、今更こんなもの残されても鬱陶しいだけだ。
貧乏暮らしをして働き口も見つからず、公園に暮らそうと思っていた俺のもとに大金が転がり込んだ。
それなのに、はじめから少しもうれしいなんて思わなかった。
昔どこかの馬鹿なガキは、このばかでかい家を見つけ出せなかったのに、嫌な女が立ち退く寸前のぼろアパートから俺を見つけ出した。
それから、俺は鳩にたかられる毎日だ。
ああ、変なものばっかり引き継ぐんだな、俺は。
「コーヒーでもいかがですか?」
うるさい。頭が痛くなる。こんな家具を俺は使ったことがない。仕方がなく使うベッドも借り物のようで、寝た気がしない。だからよけいに頭が痛くなるんだ。
お前が入れたコーヒーなんて飲むか。
「出かけてくる」
「またですか」
またですよ。
コーヒーを買ってこよう。そのコーヒーを買うのが俺の金じゃないのが、笑いどころだ。
俺は貧乏だからあるものに頼らざるをえない。いらなくても、欲しくなくてもふざけんなって思ってても俺は、それがないと生きていけない。
こめかみを押さえる。押したりもんだりいろいろしたが偏頭痛がちっともよくならない。寝不足をプラスすると足下もおぼつかなくなる。
自転車にまたがった。普通の自転車だ。これは俺が使っていた自転車だ。
なんで家に門とかあるんだ、ムカツク。
いっそ金をすべて捨てたら、ムカツク鳩どもからも解放されるんだろうか。それとも惰性で相変わらず媚びを売ってくるのかもしれない。
なければ生きていけない、というのは事実だがもとの暮らしに戻るのもいいとおもう。
ただ、俺にはその勇気がない。手の内の金を捨てるなんて簡単なことじゃない。待ち受けている生活がいやじゃないのは事実だが、進んで戻りたくもないからだ。
何か劇的なことがない限り、俺はずっとこのままに違いない。
一番近い自販機は、あの公園の近くだ。歩道橋の下は相変わらず誰もいない。ただ布団が少し動いた形跡があった。
コーヒーの缶って、普通より少し小さいのが理不尽じゃないか。この量がちょうどいいからいいのか。
西の空がわずかに赤い。
しかし雲が厚くたれ込めているから、あたりは街頭がつく程度には暗い。
陰気な街だ。
もうちょっと人通りがあってもいいんだけどな。
まるで俺の心象風景。
あまりに頭痛がひどくなって自販機に頭を預けた。
めまいも加わる。
さすがにこれは、風邪でも引いたんじゃないか。早く、帰るか。
リュックをおろすと、左肩にかけて中身をあさる。財布がなかなか見つからない。後ろから自転車が近寄ってきて、速度を緩めるブレーキ音がした。
ああ、邪魔か。道狭いしな。自転車を寄せようとしたが、ちょっと今までに経験したことがないくらい、意識が朦朧としてきた。
「すみません」
いえたかどうかわからないような声で、謝る。
と、思ったとき突き飛ばされた。そうじゃない、蹴られたと思ったときにはリュックがなくなっていた。
ひったくりとか、初めてあったぞ。
暢気にそんなことを考えていれば、俺の意識はなくなる。
地面に寝るのも初めてだ。
そう考えた頃に、俺の視界はブラックアウトした。