散る花変えて
俺は走っている。
逃げるためだ。ただ逃れるために両足を動かしている。それも、全力だ。一生で走れるかどうかわからないほどの速さで、俺は走っている。後ろからは数人分の怒声と走る足音が聞こえてくる。奴らは何事か、理解し難いことを早口にまくしたてている。まくしたてながら、俺を追いかけている。
正直にいうと、俺はもうとっくに走りたくはなくなっていたのだが、両足は勝手に前を進んでゆく。最早「力の惰性」といってもよいものに、俺の体は支配されている。メビウスの輪、というものの中に迷い込んでしまったようだった。けれども、俺の心は知っている。ただ前へ進む両足は、決して救いのある場を求めて走っているのではないと。ただどこか、俺の最期に相応しい場を求めて、闇雲に動いているのだ。
後ろに続く憲兵の一人が、何事か叫んだ気がする。
澄子さんは、俺の生涯の最愛の人だった。
澄子さんとは、春の頃、出会った。
黒髪の一倍美しく映える顔をもった、心穏やかな優しい女性だ。いつも優しげな目をしており、小さな花の刺繍の上着を、大事そうに着ていた。彼女は大人びていて、そのために、同年であるという実感はなかった。
幼年より悪餓鬼と評判であった俺と澄子さんが、どのようにして友人となったのかはわからない。だが、彼女によると、困っていたところを俺が助けたらしい。荷物が重く、往生していたそうだ。ちゃちな話だが、とにかく、そういう具合に出会った。
二年以上を経て交際を続けていると、馬鹿な考えが住み着くようになる。誰にでも平等に、心優しく接することを信条とする彼女に、離れて欲しくはないと思うようになった。
俺は心底から澄子さんのことを愛するようになった。
独り善がった考えであると思っていたのに、澄子さんは、取り柄のない俺のことを愛してくれた。
しかし俺と澄子さんは、所詮は「一人の男」と「一人の女」だった。
けれども、迫る大戦を前に、俺と澄子さんは、各々に与えられた役目を果たさねばならない身になった。澄子さんは家を護るために嫁がねばならなくなり、俺は名も知らぬ人を殺さねばならなくなった。
生まれて、はじめて世の中を憎く思った時だった。
ぱーん、
左。
ばん、
右腹。
ばんばんばん、
頭の上。
ぱぱぱっ、
左足。
立て続けに何発もの弾が俺を通過していった。何発かは体に中り、赤く飛散ったものがあった。だが体は動いている。まだ、走れた。眼前に、開けた場所が見えてくる。憲兵が俺に狙いを定めていた。左の路地から現れたそいつを避けて、俺は走り続ける。何か儚いものが瞬間、見えた気がする。何とはなしに後ろを振り向く。憲兵が二人、俺に銃口を向けていた。奴らの発砲を勘定に入れると、一体何発目になるのだろう。
俺はまた前を向いて走り出した。傷口からは、何か温かいものが伝っている。赤いそれは、風に千切れて花のようにして飛んでいた。
清二さんは、どう思われますか。抑えたような口ぶりで澄子さんは言った。どうすることもできないのだ、とは思った。けれども、俺と澄子さんの間では、そのことが何よりも気に食わない事実となっていた。澄子さんと、あの軍人との婚約。大変許しがたい事項だった。奴が財産家であるのを良いことに、澄子さんのご両親は、縁談を纏められたに違いない。もし相手が篤実な方だったのならば、どれほど苦悩したとしても、澄子さんの仕合せを願って、俺は縁を切ったことだろう。だが奴は非道な性分を併せ持っている。澄子さんも俺も、そのことを十二分に承知していたがために、愛し合う二人の仲が引き裂かれる以上に、その婚約がなお許しがたいものに思われたのだ。地位もあり、なおかつ力もある奴に、貧しい俺は嫉妬した。裕福になれる身なら、どれほど良かっただろう。
とにかく、それら俺たちの葛藤は無視される形で、澄子さんの結婚の日取りは近づき、無力にも、二人見送ることしかできなかった。それから、澄子さんはあの軍人の奥方となった。
澄子さんが、あの軍人の奥方となった。そうなることで、俺が澄子さんと会える道理も、自然と消えた。俺は「奥方」の姿を遠くから眺めるに止まって、渦巻くように苦しむ心を抱えながら、独り辛い日々を送ることしかできなくなってしまった。
そうして日数年月が経って、ある訃報を知った。二歳になった子を残して、あの軍人が死んだという話だった。単なる噂ということだったが、俺には真実に思えた。近頃窓を覗く「奥方」の顔が、少し安心したような、懐かしく愛しい、あの頃の顔に見えるような気がしていたからだ。
けれども不運かな、澄子さんまでも亡くなられてしまった。一体何の神仏がそうなさったのか。
澄子さんは、五歳になった幼子と共に、殺人鬼の手にかかってしまわれた。悪名高く、何人ものご婦人や子供を手にかけていると聞き知っていた奴だった。逮捕の手前までいったそうだが、それを前に奴は自決した。そう、聞いた。
そうして、澄子さん親子の葬儀が終わって喪が明けると、また、二歳になる子が残った。あの軍人には少しも似たところの無さそうな、澄子さんによく似た可愛らしい男児だった。
身が裂けるような思いがした。できることなら、奴のことは俺のこの手で引き裂いてやりたかった。愛しい、哀れな女を殺めた奴に、後悔以上の、この世の不幸全てといったようなものを、この手で与えてやりたかった。余りの情けなさ不甲斐無さに、いっそ澄子さんらの後を追うことを考えたが、彼女の言ったことを思い返して、すんでに思い詰めたところでやめた。
あの軍人が亡くなって暫く経った頃、澄子さんの亡くなられる少し前に、たった一度だけの再会を果たした。場所は、俺と澄子さんが初めて出会った土手下の河原だった。ほんの一時間や二時間のことだったろう。それでも、初めて出会ってから過ごした時間と同じくらいの長さの「空白」が、ほんの少しではあるけれども、徐々に満たされてゆくような気を覚えていた。
しかし、そうであっても、眼前に佇む彼女を見、否応なしにやはり時が過ぎ去ってしまっていたのだということを感じさせられた。彼女は笑っていたが、その顔はどこか作り物のようでいて、そのことが悲しく思えるのか、彼女の瞳は切ないものを湛えていた。彼女は言った。どうしてあっという間に過ぎるのでしょう。あの頃のことは今でも鮮明に思い出すことができるのに。・・・定められていたのでしょうか、全部。さあ、俺にもどうしてもわからない。ええ、・・・・・・ええ。
長い沈黙があった。口火を切ったのは、また彼女だった。生来、俺は口上といったものが苦手で、人に道を教えることさえままならない。そのせいなのか、元々の無愛想な顔も手伝ってなのか、俺はよく嫌われた。いや、黙り込むと口をへの字に曲げる癖がある。そのことが一番の理由であるように思う。
また、会えるのかしら。・・・・・・どうだろう。今は会える時ではないわね――――――清二さん。はい。清二さんは、信じておられることはありますか。・・・・・・どうなのだろう、俺が、俺であるということでしょうか。よもや澄子さんを愛していること、などとは言えなかった。彼女はもう、母だった。子から母を奪うことは、できない。俺が一番身に沁みて知っていることだから。私にもあるのです、信じていること。何ですか。ああ、でも信じたいと表したほうが正しいのかもしれません。信じたい・・・。もう、私と清二さんがお話する機会はないのでしょうね。・・・・・・ええ。一つ、約束をして頂けますか。・・・約束、ですか。ええ、
生涯をかけた約束です。
薄桃の風に黒髪を靡かせて、澄子さんは言った。そのときの澄子さんの微笑った顔は、今まで見たどの笑顔よりも、可愛らしく儚いものだった。
その笑顔を守ることができれば、と思った。
ぱーん、ばん、ぱんぱん。
生暖かい風に、鼻に纏わりつく硝煙の臭いが運ばれる。
俺の体はもう走ることをやめていた。変わりにぐるぐると視界が回り、ようやくとまったところで、俺のぼやけた頭は、今どこにいるのかを思い出していた。あの土手だ。最後に澄子さんの声を聞いた場所。生涯をかけた約束を交わした場所。何よりも大切な場所に、俺はいた。
体を撫ぜてゆく風を心地良く感じる。走りとおしてきたために、体中をすうっと通るような涼しさを感じる。撃たれた筈の場所には、何故か何も感じることがなかった。ただ、思考がぼやけてゆくような感覚を覚えている。そういえば、倒れる前に何かの飛散ったのを見た。それが悪かったのかもしれない。頭はますます呆としてゆく。まだ何かの音が鳴っている気がする。反動もあるから、おそらくは撃たれているんじゃないのか。
ちらり、と視界を何かが横切った。それらは自由に風を渡り、何処かへと旅をしてゆくものだ。億劫になってゆく全身に力を入れて、そうしたくもないのにゆっくりと、頭を動かした。大輪の薄桃に色づいた桜が、その先にはあった。今は春だったのだ、ということを思い出す。その桜は、昔、俺と澄子さんが本当に小さな頃からそこにあった。大きな枝を、無頓着に青空へ伸ばしている。澄子さんと初めて出会った頃からも、今も、その姿のどこにも変わりはみられない。どこか超然とした雰囲気で、殺風景な河原に色を添えている。澄子さんの言葉を思い出した。
生涯をかけた約束。
間近の桜を捉えようと動いたが、残念なことに左手が少し、持ち上がっただけだった。その挙がりきらない左手を必死に伸ばして、尚も何かを掴もうとした。ふと、澄子さんの笑顔が過ぎる。あの時の笑顔。
いよいよ視界が狭く、暗くなってくる。死ぬ時に光が見えなくなるのは本当だな、何も見えなくなってくる。暗闇が包み込んでくる。それでも、瞳はなおも花びらを映し続けるようだ。鮮やかな桃色だけが、俺の視界を埋めてゆく。
澄子さん、俺は今あの桜の下にいる。約束をした場所です。生涯の約束。俺は誓います。
一段と視界が暗くなった。花びらは舞い続ける。ひらひら。はらりはらり。俺がさいごに見たもの、
澄子さん――――――
この先にある幸福な未来を想像して、俺は真暗な底に身を落とす。
最期に一つ、誓いを残した。
今日までのことは忘れない。そして、
散る花変えて