始 かごのとりと終わらない宿題
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ミーンミーンミーンミーン。
外では今日も忙しく蝉が騒いでいる。太陽はその手を緩めることなく一切の遠慮会釈なしに今日も地上をジリジリと焼いている。外に出た瞬間に融解しそうなぐらいの勢いの暑さだ。アスファルトの地面が放出する熱がさらに暑さに拍車をかけている。この暑さの中、元気なのは蝉くらいだ。
『今日の最高気温は三六度――――、』
つけっぱなしにしてあまり意識を向けていないテレビから切れ切れに聞こえてくる音声から推測するに、今は天気予報をやっているらしいとテレビの画面を見ることなく俺は思う。最近三十六度とか真夏日とか聞いてもあまりびっくりしなくなった。それが最早夏の風物詩なのだろうと。ぐつぐつと頭が茹り、思考がぐるぐるになる。駄目だ、完璧に暑さにやられている。その証拠にさっきからやっている数学の夏休みの宿題をやる手が止まっている。シャーペンが止まる。ついでに俺も思考停止。
「うわああああああああああああああ!!」
なんだかわけのわからない気分になってぐちゃぐちゃになった思考を整理しようとして、でも茹った頭じゃ上手く整理できなくて、なんだかんだで大声で叫ぶという結論が導き出される。こんなことをしたら隣の部屋の妹か母親から「うるさい」等の苦情を貰うかも、と一瞬心配したが、とくに何の反応も貰わなかったのでほっと胸を撫で下ろす。その時、机に置いておいた携帯が振動し、何者からかの着信を告げた。
「はいはい……」
そんな独り言を呟くと、電話に出る。電話の相手は恭太だった。携帯越しに聞こえるのはざわざわとした雑音。どうやら人の多い所にいるようである。
『ちょっと、コミケ回るの手伝え』
開口一番これかよ。
「だが断る」
『ちょっと手伝え。報酬は出すぞ』
「報酬ってなんだよ」
『レア同人誌』
「切るぞー」
『あっちょっ、ま』
ブチッ。
恭太の慌てるような声が電話口から聞こえてきたが、気にせずに切る。今はコミケとか同人誌どころじゃない。
「で、これどうすればいいんだ……」
電話を切った後、俺はやりかけの数学の宿題、英語の宿題等々を呆然とした目で眺める。この時期になるまでまったく手をつけてこなかった自分を殴りたい気分に駆られるが、いまはそれどこじゃない。とりあえずこの宿題をどうにかしないと話は進まない。俺は祈るような気分で、さっき電話がかかってきたばかりの携帯を手に取り、ある番号に電話をかける。
(頼む……出てくれ……!)
そしてほどなくその願いは叶えられた。
『……椿木? なんだ』
(かかった……!)
電話越しから聞えてきたくぐもった声は紛れもなく栞林檎の声だ。こいつなら、こいつなら、今の俺を救ってくれると信じて……アレ……?
聞こえてくるのはバシャバシャと水が跳ねる音、遠くから聞えるキャーッ! とかいう喜び混じりの悲鳴、それから電話口近くから聞えてくるのは『ねえねえ彼氏?』『椿木君でしょー』『あっ、林檎いつも一緒にいるもんね!』『羨ましいっ!』……クラスの女子の声だった。しかもやたらと騒がしい。
『……悪いな。今、女友達と一緒にプールに遊びに行っているんだ』
「そんなことはどうでもいいから俺を助けてください! 神様仏様林檎様! 俺の宿題を……っ!」
『宿題? なにそれおいしいの?』
「……お前に電話をかけた俺がバカだった」
『……そうか。じゃあ切るぞ』
「…………燃え尽きたぜ……真っ白によ…………」
俺は今の電話で全精力を使い果たし、文字通り真っ白になって部屋のベットに倒れこむ。もう宿題とかやる気にならない。しゅくだるい。あんなに意気込んでいた分、反動も結構なものだった。そのまま白い天井を眺めてぼーっとしていると口の端から「はは……ははは……」という力ない笑いまで漏れてきて、俺はしばらくずっとそうしていた。
「……ってあいつら何俺を差し置いて夏を満喫してやがるんだよっ!!」
唐突に怒りが込み上げてきて、ベットに向かって枕を勢いよく投げつける。そのまままるでトビウオのようにじったんばったんベットの上で跳ねまわり、じたばたと足をばたつかせた。
「ちっくしょー!!」
カラン。
溶けかけた氷の浮いた麦茶のグラスが涼やかな音を立てた。