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第72話 過去との決別

 戦争の終結から数年。

 かつてマリエールが戦時下の執務室で描いた「物流の都」という壮大な構想は、もはや紙上の夢物語ではなくなっていた。

 峻険なヴェルグラン山脈を越えるかつての難所には、石畳の強固な街道が整備され、かつて血を吸った土の上を、今は世界中の商人が操る荷馬車が絶え間なく行き交う。

 帝国の残照に代わり、そこには大陸の経済を支える巨大な大動脈が脈動していた。


「力で奪う時代は、終わりにしました。これからは、価値を分かち合い、共存する時代です」


 マリエールは窓辺に立ち、平和な活気に満ちた聖都を見下ろしながら静かに呟く。

 その視線の先には、八人の将軍たちの新しい活躍の姿があった。

 第四将軍ジャンは、軍艦を商船の護衛艦へと転換し、未知の新航路を拓く先駆者となった。

 策士エティエンヌは、剣をペンに持ち替え、近隣諸国との複雑な貿易協定を鮮やかにまとめ上げていく。

 軍事国家から通商国家へ。アルシエル王国は、歴史上かつてない黄金期を謳歌していたのである。


 王宮の奥庭、柔らかな春の陽光が降り注ぐ芝生の上では、今日も賑やかで平和な声が響き渡っていた。


「おお、こっちだ! さあ、じいじのところへおいで! ほれ、捕まえてごらん!」


 かつての峻烈な覇王、アルベールは今や、その面影をどこへやったのかと思わせるほどの「好々爺」と化していた。

 彼は今、二人の幼子を交互に抱き上げ、頬を寄せては目尻を下げている。


 一人は、マリエールが十八歳で産んだ第一王子、1歳。

 もう一人は、エミリが十九歳で産んだ第一王女、0歳。

 二人とも、マリエールとエミリから受け継いだ眩いばかりの黄金の髪を持ち、その瞳には、生まれながらに人を射抜くほど澄んだサファイアブルーの輝きを宿していた。


「お父様、あまり興奮させては困りますわ。この子、興奮しすぎるとお昼寝の時間になってもぐずってしまいますもの」


 エミリが困ったように、けれど隠しきれない幸福を滲ませた笑顔で、アルベールに温かい茶を差し出した。

「仕方がないだろうエミリ。かわいい孫が儂を離さんのだ」

 

 アルベールはそう言って、エミリの空いた手を優しく、慈しむように包み込んだ。

 かつては「聖女の影」として、ただ聖女の身代わりのためだけの存在であったはずのエミリ。


 その残酷な運命を書き換え、今ではマリエールと共に「聖女」として、国の「女王」として、さらには「母」として――。

 彼女のすべてを認め、慈しみ続けているアルベールの瞳には、溢れんばかりの慈愛が満ちていた。


 現在、マリエールとエミリは交代で公務に当たっていた。

 双子のようにそっくりな「二人の母様」に代わる代わる抱き上げられるため、幼い子供たちは時折、不思議そうに首を傾げては目を丸くする。

 「母様が二人……?」と言いたげなその愛らしい仕草が、周囲のメイドや護衛たちの笑いを誘い、庭園を温かな空気で満たしていた。


 夕刻、マリエールは独りテラスに立ち、茜色に染まりゆく街並みを眺めていた。

 喧騒が静まり、家々に灯りがともり始めるこの時間が、彼女は一番好きだった。

 そこへ、公務を終えたレオンハルトが、金属擦れの音を抑えた静かな足取りで歩み寄る。


「……マリエール。少し、お疲れではありませんか?」


 聞き慣れた低い声。

 マリエールは振り向かず、心地よい夕風に目を細めた。


「いいえ、レオン。……ただ、あまりに幸せすぎて。時折、怖くなるんです」


 その言葉が終わる前に、レオンハルトの逞しい腕が背後から彼女をそっと抱き寄せた。

 彼の体温が、薄手のドレス越しにマリエールの不安を溶かしていく。


「怖がることはない。この平和な街の灯も、庭で笑う子供たちの声も、君が自らの手で、そして信頼する仲間たちと共に勝ち取った揺るぎない現実だ。……俺は一生、君の盾であり、夫だ。この景色を守り抜くと、あの日、君の魂に誓ったのだから」


 レオンハルトが彼女の肩に手を置いたとき、その薬指で銀の指輪が夕陽を反射した。

 それはあの日、アルベールから贈られたもの

だ。

 「二人の妻」であるマリエールとエミリ、そして夫であるレオンハルト。

 三人の指で輝くお揃いの銀嶺ぎんれいは、歪な形を乗り越えて掴み取った、彼らだけの家族の絆の証であった。


 マリエールは目を閉じ、心の中で、自分の中にだけ沈殿していた「かつての自分」に語りかける。


(見て……。あなたは贅沢と放蕩に溺れ、誰の手も借りられず、たった一人で火に焼かれたけれど。今の私は、こんなにも多くの温かな手に守られているの。あなたが見ることのできなかった、戦争のない、誰も飢えに凍えない冬を、私たちは生きているわ)


 かつての絶望も、肌を焦がした火刑台の熱さも、今や遠い霧の彼方へと消え去ろうとしていた。

 彼女の意識の奥底にこびりついていた「処刑された悪徳聖女の凄惨な歴史」は、今、愛と繁栄に満ちた「救国の聖女の歴史」へと完全に上書きされたのである。


「……行きましょう、レオン。みんなが待っているわ」


 マリエールは、夫の大きな手を取り、笑い声の絶えない大広間へと歩き出した。

 今日はマリエール十九歳の誕生日。

 主役が待たせたままでいいはずがない。


 広間の扉が重厚な音を立てて開かれると同時に、女王の入場を告げる音楽隊の高らかなファンファーレが鳴り響いた。

 それに続くのは、パイプオルガンと弦楽器が織りなす、重層的で華やかな祝典の旋律。


 万雷の拍手の中、先頭を行くのはアルベールとレオンハルトの腕に抱かれた、愛らしい王子と王女だ。

 そして、その後ろから、凛とした気品を纏い、威風堂々とした歩みでマリエールが続く。


 その身を包むのは、もはや凍てつくような冷徹な甲冑ではない。

 過剰な装飾などない清楚で汚れなき純白のドレス。


 ただそれだけを纏った彼女の姿は、宝石で着飾ったいかなる貴婦人よりも、そしてかつて振るったいかなる鋭利な剣よりも、圧倒的に気高く、聖なる光を湛えて輝いていた。

 

 虚飾を排したそのシンプルさこそが、かえって彼女の魂の清廉さと、揺るぎない女王の品格を浮き彫りにする。

 一歩踏み出すごとに、その場にいるすべての者が息を呑み、祈りを捧げたくなるような――それは、幾十の戦火を潜り抜け、国民のために何度も命を投げうった者だけが到達しうる、真に神聖な美しさであった。

 

 エミリはその光景を、女王の影として、そしてもう一人の母として、誇らしげに見守っている。


 それは、かつての自分を焼き尽くした業火ではなく、未来を照らす黄金色の朝陽へと向かう、確かな一歩だった。

 聖女は今、希望という名の新しい一ページを、高らかにめくったのである。

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